「あれ、もう着替えたのか?」
 いつもの様に啓太を起こしに来た和希はドアの処で立ち止まった。朝の苦手な恋人の瞳に最初に映るものは自分であって欲しかったのに間に合わなかったらしい。残念そうな和希の顔を見て啓太は恥ずかしそうに言った。
「俺だって、いつまでも寝坊助じゃいられないよ」
「あ~あ、啓太の寝顔、楽しみにしていたのに」
「いつも見てるだろう?」
「でも、今日は見ていない。昨日も、一昨日も」
「子供だな、和希は」
 クスクスと啓太は笑った。和希は頬を掻いて誤魔化しながら、椅子の背に掛かっていたジャケットを手渡した。
「あっ、ネクタイ」
「大丈夫だよ、ほら」
 啓太は少し胸を張った。既にネクタイは綺麗に締められていた。以前は巧く出来なくて和希に頼ることが多かったが、それも少なくなってきた。こうして人は成長してゆくのか、と和希は複雑な気持ちになった。
 長い間、秘めていた想いが叶ったとはいえ、日々啓太は少しずつ和希の手を離れていった。もっと傍にいたい。共に移ろう季節を瞳に焼きつけ、あの夏の日の様に同じ時間を生きたい。もう二度と、お前を失いたくない。俺は、そんなに強くないから……
 気がついたら、和希は啓太を抱き締めていた。自分の腕にすっぽりと収まるこの華奢な身体が狂おしいほど愛しかった。
(いっそ、こうして繋ぎ止めておこうか。いつまでも、ずっと、ずっと……)
 和希、と啓太が心配そうに呟いた。どうしたんだろう、和希……震えてる?
「大丈夫か……?」
「別に何ともないよ。ただ、少し情緒不安定なだけ。子供だから」
「こんなに大きな子供なんていないよ」
 そっと啓太は和希を見上げた。
「ははっ、そうだな」
 穏やかに和希は笑った。その顔はいつもの和希だった。啓太は、ほっと胸を撫で下ろした。
「そろそろ行こう、和希」
「ああ」
 和希は優しく啓太の髪に口づけると、ゆっくり腕を離した。一瞬、二人の視線が交わる。今度は啓太の方から軽く口唇を重ねた。甘く切ない感触に、我知らず、和希は囁いていた。
「愛している」
「……うん」
 啓太は嬉しそうに微笑んだ。そして、二人は部屋を後にした。

 三日振りに学園に現れた和希を、丹羽はムスッとした顔で迎えた。
「久しぶりだな。相変わらず、お忙しい様で」
「まだ怒っているんですか? あれから、もう一ヶ月ですよ」
「まだ一ヶ月だ。そう間単に忘れられるか」
「そうですか」
 MVP戦後、図らずも理事長と知られて以来、丹羽はへそを曲げっぱなしだった。会計室での様なことにこそならなかったが、顔を見る度にチクチクと嫌味を言われた。それというのも――……
「丹羽、朝から喚くな」
 眼鏡を押し上げ、口元に嘲笑を浮かべているこの男のせいだった。
「中嶋、お前も何か言ってやれ」
「くだらん」
「王様、あまり和希を苛めないで下さい。昨夜だって遅かったんですから」
「そんな甘い顔してたら、こいつは益々つけあがるぞ、啓太」
「王様~」
「わ~ったよ。そんな顔するな。その代わり、遠藤! いつか絶対、ぶん殴ってやる」
「はいはい」
「子供か、お前は」
 中嶋は冷たく言い放った。それから、静かに啓太へと目を向ける。
「……啓太、今日は来なくても良い」
「えっ!? でも、まだ仕事溜まってますよね?」
「丹羽が片づける」
「おい、ヒデ!」
 寝耳に水の話に丹羽は堪らず声を張り上げた。その切先を制して中嶋がピシャリと言った。
「お前の仕事だ。こいつは関係ない」
「そうだけどよ~」
 丹羽は未練がましい瞳で啓太を見つめた。
 細かい仕事が性に合わない丹羽にとって、啓太は貴重な存在だった。啓太が同じ部屋にいると、どんなことにでも俄然やる気が出て来た。それに、この見た目にも可愛い後輩との追い掛けっこはとても楽しかった。中嶋も口にこそ出さないが、似た様なものだろう。それなのに……と文句を零していると、中嶋の低い声が聞こえた。
「最近、啓太の捕縛率が落ちている。恐らく疲れが溜まったのだろう。毎日、お前を追っていたからな」
「うっ!!」
「本当ですか、王様!? 少しは自重して下さい! 啓太はデリケートなんです!」
「和希、その言い方は……」
「啓太、そんな甘い顔をしていたら、益々つけこまれるぞ」
「遠藤、てめえ……!」
「言われたな、哲ちゃん」
「くっそ~」
 苦虫を噛み潰した様な丹羽を見て、和希はフフンと笑った。それから、不安そうに啓太を覗き込んだ。
「疲れているのか?」
「えっ!? 別に……そんなことないよ」
 啓太は首を振った。
「だろう? あれくらい何ともねえよな?」
「王様!」
「……」
 返事の代わりに丹羽は諸手を上げた。過保護なんだよ、全く。内心、そうぼやいてみたが、思い当たる節はあった。ここ何日かの啓太は走っても直ぐばててしまった。明らかに体力が落ちている。
(中嶋の言う通りだな。俺も少し調子に乗り過ぎた)
 密かに反省している丹羽を横目に、和希は更に言葉を継いだ。
「啓太、王様も良いと言うんだから、今日は真っ直ぐ寮へ帰ろう。ねっ?」
「わかったよ、和希」
 渋々啓太は納得した。そのとき、一時限目の予鈴が鳴った。
「あっ、急ごう、啓太」
「それじゃあ、王様、中嶋さん」
「またな、啓太」
「ああ」
 啓太はペコリと頭を下げ、和希と共に走り去った。二人がいなくなると、丹羽はニヤニヤした顔で中嶋を見つめた。不機嫌そうに中嶋が言う。
「……何だ、その顔は?」
「お前、啓太には優しいんだな」
「ふっ……」
 中嶋は鼻で笑って眼鏡を軽く押し上げた。そんなことはお前に言われるまでもない……
「行くぞ。仕事が詰まっている」
「へいへい」
 そうしてBL学園(ベル・リバティ・スクール)生徒会の会長と副会長は無言で歩き出した。

「良かった。何とか間に合ったな」
 教室に滑り込んだ和希は、ふうっと大きく息を吐いた。やや遅れて来た啓太は呼吸が乱れて少し苦しそうだった。
「大丈夫か、啓太?」
「あ……うん」
 コクンと啓太は頷いた。
「やっぱり……疲れてるの、かな……」
「そうだよ。俺より先にへばってどうするんだよ」
「そう……だね」
 啓太は椅子に座ると、軽く胸を押さえた。和希が労わる様に言った。
「あまり無理はするなよ」
「……うん、有難う」
 数学の教師がドアを開けたので、和希は仕方なく自分の席に着いた。ほどなくして授業が始まった。和希はきちんと聞いている振りをしながら、意識の大半を啓太へと向けていた。冷静に状態を観察し、今後の計画を練る。
(相当、疲れが溜まっているな。やはり啓太を一人にするべきではなかった。何事も一生懸命なのは良いが、あれでは病気になってしまう。啓太は頼まれると断れない性格だから、ゆっくり休む暇がなかったんだろう。そうだ。週末、二人で伊豆の別荘へ行こう。直ぐ石塚に手配させれば、今からでも……)
 啓太は問三の応用問題を解きながら、静かに考えていた。
(どうしたんだろう、俺……日増しに身体が重くなる。もう昨日の半分も走れない。なのに、頭は怖いくらいに冴えて……)
 問題がなくなったので、啓太は頁を繰った。その章は、まだ授業でやっていなかった。しかし、答えを書く手は最後まで止まらなかった。
 ……キ~ン、コ~ン、カ~ン、コ~ン。
「では、今日の授業はここまでです」
「先生、質問があるんですけど?」
「良いですよ」
 何人かの生徒が教卓に向かい、その他の者は緊張から開放されて安堵の表情を浮かべた。辺りは直ぐにざわめき始めた。
 和希は啓太の元へ向かうべく立ち上がった。すると、傍のクラスメート達の会話がふと耳に入った。
「俺さ、いつも思うんだけど、ここのチャイム古くない?」
「あっ、俺も思った」
「だよな。誰が決めたんだよ、こんな音」
「変な音だよな」
「そうなのか?」
 突然、話に割り込んだ和希を驚いた顔で二人は見つめた。しかし、和希はそんなことには構わず、口早に言葉を続けた。
「チャイムってこんな音だろう?」
「う~ん、そうだけど……なあ?」
「うん、何て言うか……音のイメージが古いっていうか……」
「イメージ……」
「イケてないって言うか~」
「イケてない……」
 よろよろと和希は啓太の処へ歩いて行った。話を聞いていた啓太は曖昧に笑いながら、少なからぬ衝撃(ショック)を受けた和希の肩をポンポンと叩いた。
「……啓太、俺、次の理事会までに必ず良い音を見つけるから」
「仕方ないな。なら、俺も付き合ってやるよ」
「……啓太」
 愛していると言外に忍ばせ、漸く和希は浮上した。そして、午前の授業の間、ずっと伊豆の別荘とチャイムの音色のことだけを考えて過ごした。

 昼休みになると、いつもの黄色い声が辺りに響いた。
「ハニー、お昼だよ。早く行かないと、席なくなっちゃうよ。それとも、今日は木陰でランチする? 二人きりで!」
「成瀬さん、俺もいるんですけど」
「ああ、気がつかなかった」
 シレッとした顔で成瀬は言った。
 啓太以外はまるで瞳に入ってない、否、入れてないこの男は和希にとって鬱陶しいことこの上なかった。やはり今日も来たか。これから繰り広げられる啓太争奪戦を制するには先手必勝。和希は大きく息を吸い込んだ。しかし、次の瞬間、成瀬は意外な言葉を発した。
「ハニー、やっぱり顔色が悪いね。今日は教室で食べよう。ねっ?」
「あっ、はい」
 啓太としても、あまり動きたくなかったので大人しくその提案に従った。成瀬は再び啓太を座らせ、自分は当然の様にその正面を陣取った。仕方なく和希は隣の机を寄せて腰を下ろした。
「知っていたんですか、成瀬さん?」
 中嶋が指摘した点に、どうやら成瀬も気づいていたらしい。和希はここは一先ず休戦して情報収集をすることにした。当然だろう、と成瀬は言った。
「僕はいつだってハニーを見てるんだから。はい、食べて、ハニー。今日は消化に良いものを作ってきたんだ」
「……有難うございます、成瀬さん」
 啓太は小さく微笑んだ。和希が話を戻す。
「それは、いつ頃からでしたか?」
「三、四日くらい前かな。朝はそうでもないんだけど、放課後になるとね。少しずつ食欲も落ちてきたから、最初は疲れが溜まったんじゃないかと思ったけど……」
「けど、何ですか?」
 言い淀んだ成瀬だったが、和希の必死な様子に再び重い口を開いた。
「う~ん、一ヶ月前、MVP戦があっただろう? あの頃から、ハニーの体調は不安定になってきていた。ハニーには自覚なかったみたいだけど」
「成瀬さん……」
 啓太は真っ赤な顔になった。
 和希もドキッとしたが、表面には出さなかった。それよりも成瀬の言葉の意味を考えた。それは二通りに取れた。一つは啓太が考えた様なこと。つまり、夜を共に過ごしたため身体に少なからぬ負担を掛けてしまったというもの。だが、それなら俺にもわかるはず。ということは……
「病気、だと……?」
「それは僕にもわからない。何しろ、漠然としていたからね。単なる気のせいかもしれない」
 成瀬は小さく肩を竦めた。啓太を不安にさせない様にあくまでも軽い口調で……が、その瞳は真剣だった。有望なテニス・プレーヤーの成瀬だからこそ、表層的な変化に惑わされない敏感さを持っているのだろう。それは無視出来るものではなかった。
「わかりました」
 すっと和希は立ち上がった。どうしたの、と啓太が顔を見上げた。成瀬の手作り弁当には、まだ箸さえつけていない。いつもの啓太らしくなかった。和希の胸を一抹の不安が過ぎった。
「チャイムの件があるからな。いずれにしろ午後は休むつもりだったし、今から行ってくるよ」
「そっか……」
「成瀬さん……啓太のこと、お願いします」
「君に言われなくても、わかってるよ。さあ、これ以上、僕達の時間を邪魔しないでくれないか、ハニーのお友達君」
 シッ、シッと成瀬は小さく手を振った。和希は啓太に愛していると瞳で囁くと、サーバー棟へ向かって走り出した。

 和希は理事長室のノートPCで啓太のファイルを呼び出した。情報漏洩の一件があって以来、それだけはここからしか接続出来ない様にしていた。そこにはウィルス感染における詳細なデータと、その後の追跡調査の結果が示されていた。最新のは学園に転校してきたときの健康診断。どこにも異常はない。
(だが、明らかに啓太は体調を崩している)
 数値を凝視する和希の表情が険しくなった。無意識に指が机を叩く……トン、トン、トン、トン、トン。すると、指先が何かに触れたのか、急に画面が切り替わった。
「しまった」
 思わず、和希は呟いた。
 それはテストの結果だった。啓太に関することは総てファイルするよう言ったが、何もこんなものまで作らなくても。和希は気まずそうに頬を掻いた。しかし、画面を落とそうとして……手が止まった。
「……」
 最近の啓太は、とても優秀だった。苦手な英語も満点を取っている。以前から時折、会計室で勉強を教わってはいたが、これほど変わるものだろうか。和希は履歴を遡ってみた。すると、啓太の成績が上昇し始めたのは約一ヶ月前だった。成瀬が最初に異変を感じたのも、ほぼ同時期。これは単なる偶然だろうか……
 暫し黙考した和希はおもむろに内線ボタンを押した。直ぐにスピーカーから石塚の声が聞こえてくる。
『はい、何でしょうか?』
「明日の予定は総てキャンセルして精密検査の予約を入れてくれ」
『……どこかお身体の具合でも?』
「いや、啓太だ」
『わかりました。直ぐに手配します。和希様、例の議定書ですが……』
「ああ、それがどうした?」
 和希は素早く頭を切り替えた。まだ啓太のことは気になるが、成瀬の言葉だけではあまりにも情報が少な過ぎた。今は明日を待つしかない。そう判断すると、和希は理事長としての仕事を片づけ始めた。

 静まり返った室内には紙を繰る音だけが響いていた。和希は書類に没頭していたので、その小さなノックが聞こえたときもそれから目を離さなかった。
「どうぞ」
 誰かがドアを開ける気配がした。秘書だと思った。
「石塚、申請書はこれで良い。認可が下り次第、直ぐに入札の手続きを進めてくれ。それと、来期のアルティメット・クラスの客員教授リストがまだ上がっていない。特に問題はないと思うが、一応、目を通しておきたいから――……」
「和、希……」
「啓太!?」
 思いがけない声に和希は顔を上げた。開け放したドアに、今にも倒れそうな啓太がもたれ掛かる様にして立っている。
「身体が……重、くて……助け、て……和、希……」
「啓太っ!!!」
 それは和希が叫んだのと同時だった。ガクッと膝が折れ、啓太は足元からゆっくり……崩れていった。



2007.8.10
何だか重い展開になっていますが、
ハッピー・エンドになります。
チャイムのことは個人的な感想です。
あの音は何~って思いませんでした?

r  n

Café Grace
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