「啓太っ!!!」
 声と同時に和希の身体は動いていた。啓太が、まるでスロー・モーションの様にゆっくりと倒れてゆく。それを受け止めようと必死に腕を伸ばした。
「……っ!!」
 転びそうになりながらも和希はどうにか啓太を捉えた。しかし、啓太の顔は完全に色彩(いろ)を失っていた。一切、温もりが感じられない……冷たい身体。瞬間、和希の脳裏に四年前のことが過った。棺に横たわる祖父に別れを告げるべく祭壇へと向かった、あのときのことが。最後に触れた祖父の手は酷く冷たかった。そう、こんなふうに――……
(馬鹿なっ!!)
 すぐさま和希はそれを否定した。絶対、そんなことはあり得ない!
 不安に震える心を抑え、掌を啓太の胸に押し当てた。すると、微かだが……鼓動が感じられた。
「石塚っ!!」
 啓太を抱き上げると、和希は廊下に向かって叫んだ。左側のドアから秘書が飛び出して来た。
「和希様、どうなさ……伊藤君!」
「医師の手配を! 急げっ!!」
「は、はいっ!!」
 和希は仮眠室になっている右奥のドアを蹴破ると、啓太をベッドに横たえた。手際良くジャケットを脱がせてネクタイを外す。これで少しは呼吸が楽になるだろう。それから深々と暖かい毛布を被せた。
「啓太……」
 ベッドの端に腰を下ろした和希は蒼ざめた啓太の頬をそっと撫ぜた。当然……反応はない。事ここに至るまで、あまりに鈍感だった自分に激しい怒りが湧き上がった。
(なぜ、もっと早く気づかなかった! 誰よりも啓太の傍にいながら、一体、俺は何を見ていたっ!!)
 きつく握り締めた拳が小刻みに震え、爪が掌に食い込んだ。和希はそれを自分の膝に叩きつけた。

 石塚は秘書室に駆け戻ると、大慌てで受話器を取った。校医の番号は登録してあるので短縮ボタンを押すだけで済む。遠目だったが、啓太が深刻な状態であるのは直ぐにわかった。和希が声を荒げたのだから……ましてや、それが恋人ともなれば。
「……」
 和希と啓太の関係に石塚は薄々気がついていた。『鈴菱』の御曹司として、それは決して許されるべきものではないだろう。しかし、和希の秘書となって以来、石塚もずっと啓太を見ていた。
 啓太は、まるで純粋さの結晶の様だった。その想いは祈りにも似て、強く心に響き渡る。もし、神に愛される人がいるなら、啓太をおいて他にはいないだろう。和希を筆頭に、この精鋭揃いのBL学園(ベル・リバティ・スクール)の生徒達が魅せられたのも当然と思った。
(……駄目ですね)
 繋がらないことに焦りと苛立ちが募り始めたとき、突然、机に置いていた携帯電話がぶるぶると震え始めた。石塚は僅かに眉を寄せ、右手で通話ボタンを押した。
「石塚です」
『石塚さん! 大至急、所長に連絡して下さい! 携帯が繋がらないんですっ!!』
 余程、慌てているのか、相手は名前はおろか部署名さえも言わずに捲くし立ててきた。和希を所長と呼ぶことから推して研究所の誰からしい。こんなときに、どうしてこうも重なるのだろう……
「落ち着いて下さい。和希様ならここにいます。一体、何があったのですか?」
『出たんですっ!! 一週間前の血液検査で――……』
 そこまで聞けば、もう充分だった。石塚は受話器を放り出すと、携帯電話を持って走り出した。

「和希様っ!!」
 仮眠室へ飛び込むや否や、息を継ぐ間も惜しんで石塚は叫んだ。ハッと和希は振り返った。こんなに緊迫した石塚の声を聞くのは初めてだった。何か嫌な予感がする……
「伊藤君から、検出されましたっ!!」
「……っ!!」
 弾かれた様に和希は立ち上がると、石塚の手から携帯電話をもぎ取った。
「私だ! 本当に間違いないのか!?」
『所長!? あっ、はい! 二度、確認しました! 間違いありません! 既に学園島の全域にセーフティ・モードが発動され、監視カメラなどから伊藤啓太が過去二週間に接触した総ての人物の特定作業に入っています。現時点で本人の所在は不明。発見次第、直ちに隔離・収容すべく――……』
 和希はこめかみを押さえて、ふらふらと壁に手をついた。この事態を想定していなかった訳ではない。ただ、可能性は限りなく零に近かった。だから、あり得ないと……否、あって欲しくなかった……
『……の手配を……所長!?』
「……」
 急に和希は視界が狭くなってきた。電話の声が、くぐもって良く聞こえない――……
「和希様!」
 石塚が素早く和希の身体を支えて手近な椅子に座らせた。そして、代わりに的確な指示を出す。
「石塚です。大至急、医療チームをコードA対応でサーバー棟の仮眠室に派遣して下さい。彼はこちらにいます」
『コードA!? やはり発症しているんですね!?』
「はい」
『では、直ちに隔離を――……』
「いえ、最早、彼を移動させるのは危険です。必要な機材は総てこちらへ運んで下さい。入口のロックは解除しておきます。その他のことはマニュアル通りに」
『わかりました!』
「お願いします」
 パチンと石塚は携帯電話を閉じた。
 和希は額に手を当て、深く項垂れていた。この状況で衝撃(ショック)を受けない方がおかしいだろう。出来れば暫くそっとしておきたいが……石塚がそう思い悩んでいると、和希が小さな声で呟いた。
「……石塚、医療チームに貧血検査用の簡易セットを持って来るよう……」
「貧血ですか、和希様?」
「いや……ただ、初期症状は貧血と同じだから。あれは空気感染はしない。接触感染のみだ。つまり、俺はいつ発症しても不思議ではない」
「和希、様……!」
 石塚は絶句した。
 啓太は過去に致死率ほぼ100%の未知のウィルスに侵されていた。それは『鈴菱』グループの創始者が大戦中に密かに入手したものらしいが、その研究資料は現在でも総て最高機密になっていた。石塚でさえ、緊急対応用マニュアル以上のことは知らなかった。しかし、和希は違う。『鈴菱』の後継者として、充分、啓太の危険性は認識していたはずだった。それなのに……
 表情から石塚の内心を察して和希は恥ずかしそうに微笑んだ。
「石塚、俺は啓太を愛していたんだ。それこそ子供の頃から、ずっと。その啓太が成長して漸く俺に応えてくれたのに、そんなことを考えられると思うか? 実際、頭を掠めもしなかったよ。そして、触れたら一瞬で溺れてしまった。啓太は、とても甘いんだ」
「和希様……」
「……俺なら大丈夫だ。啓太の資料が一部流失した際、万が一に備えてワクチンを製造しておいた。感染初期になら効果はある。それより、寧ろ、問題なのは啓太だ。再発症となれば……もう効かないかもしれない」
 和希は椅子から立ち上がると、啓太の枕元に腰を下ろした。癖のある柔らかい髪を優しく撫でる……何度も、何度も。努めて平静を装ってはいるが、内心の苦悩は和希の身体から痛いほど滲み出ていた。
「……石塚、悪いが、俺の端末と資料をここへ運んでくれ。今は啓太を一人にしたくない……」
「わかりました」
 石塚は小さく頭を下げた。
「……啓太」
 すっと和希の手が啓太の頬に触れた。眠っているときでさえ和希が触れると、啓太はいつも幸せそうな微笑を浮かべた。しかし、今は凍りついた表情のまま……死んだ様に横たわっていた。和希は冷たい口唇に軽く自分のを重ねた。必ずお前を護ってみせるから……
『……和希……』
 微かに啓太の声が聞こえた気がした。

「……えっ!? それで……本当に? ……勿論、行くよ。いつが良い? ……来週? わかった。それじゃあ行く前に連絡するから……あっ、切れちゃった……」
 携帯電話を見つめながら、啓太は大きなため息をついた。ベッドの上で編み棒を動かしていた和希は、ふと動きを止めた。
「どうしたんだ、啓太?」
「……うん、地元の友達からなんだけど、今度、手術するから見舞いに来て欲しいって……」
「行ってくれば良いよ。外出届なら俺が篠宮さんに出しておくよ」
「有難う、和希……でも、俺の運、当てにしてるからって言われると、何か責任重大な気がして……」
 啓太は和希の隣にポスンと腰を下ろした。和希は啓太の柔らかい髪を弄りながら、優しく言った。
「大丈夫だよ。啓太の運の良さは折り紙付きだろう?」
「でも、輸血も必要らしいし……あいつ、ちょっと変わった血液型らしくて態々どこかの血液バンクから取り寄せるって言ってた。俺は大きな病気とかしたことないから、そういうこと聞くと不安で……」
「ふ~ん、それは少し大変だな」
(啓太は、もっと大変だったけれどな)
「……うん」
 和希の心中など知らず、啓太は片膝を抱えて俯いた。
「俺はO型だから誰の血でも貰えるけど、あいつは本当……大変だよな」
「違うよ、啓太」
「えっ!?」
 啓太は小首を傾げた。和希の言葉が良くわからなかった。何が違うと言うんだろう……?
「O型の人が貰えるのはO型の血だけだよ。しかも、原則、肉親間での輸血は出来ないんだ。稀に深刻な拒絶反応を引き起こすことがあるからね」
「へえ~、知らなかった。じゃあ、朋子からも貰えないんだ」
 そうだよ、と和希は頷いた。こういう素直な反応は相変わらずだな、と密かに目尻を下げながら、ふわふわと啓太の頭を撫ぜる。幼い頃の啓太もそうだった。へえ~、凄いね、かず兄……
「じゃあ、俺も怪我とかしない様に気をつけないとな。俺のせいで、知らない人に迷惑を掛けるの嫌だし」
「大丈夫。万が一にもそんなことになったら、俺の血を全部あげるよ。俺達は――……」
「……っ!!」
 突然、啓太は痛そうな顔をした。そして、バシッと和希の手を払った。
「啓太!?」
「馬鹿! そんなことしたら、和希が死んじゃうだろう! そうしたら、俺――……」
 大きな蒼い瞳から今にも涙が零れ落ちそうだった。和希を失うなど恐ろしくて考えたくもなかった。にもかかわらず、最近、啓太は和希を殺す夢ばかり見ていた。絶対、あり得ないのに……自分の中の何かが警告する。
『……離れないと、死んじゃうよ、彼……』
 それを当の本人がいとも簡単に口にしたので、一気に啓太の不安が爆発した。しかし、そうとは知らない和希は単に友達の件で神経質になっているのだと思った。
「ごめん」
 和希は啓太の肩を抱き寄せた。啓太はジャケットにしがみつき、必死に嗚咽を堪えていた。和希は胸が苦しくなった。泣かないで、啓太……泣かないで……
「大丈夫。俺は死なないよ、啓太」
 耳元に顔を寄せ、低く甘い声で和希は囁いた。
「……なら」
 少し間を置いて、啓太が呟いた。
「ずっと一緒にいてよ、和希」
「勿論。俺は、もう啓太と離れる気はないよ。ずっと一緒にいる」
「本当……?」
 啓太は恐る恐る和希を見上げた……まるで何かに追い立てられる様な危うい眼差しで。和希は揺るぎない瞳で真っ直ぐそれを受け止めた。
「ああ、約束する」
「本当に?」
 なおも啓太は食い下がった。
「約束するよ、啓太……」
 ゆっくりと和希の顔が近づいて来た。同時に指が啓太の手を絡め取り、自然と深く交わる。和希は誓う様に啓太と口唇を重ね合わせた。

「ねえ、啓太……あの友達だけど、どこの病院? 俺も一緒に行くからさ」
 月明かりの中、和希は半身を起こして啓太を覗き込んだ。啓太はまだベッドに横たわり、先刻までの余韻に浸っていたが、和希の問いに少し掠れた声で答えた。
「それが……聞く前に、あいつのテレカが切れちゃって……」
 そうか、と和希は呟いた。
 今週は岡田に押しつけてきた出張に、とうとう行かなければならなかった。ほんの三日間。しかし、啓太と夜を過ごす様になって初めて二人が離れ離れになる三日間だった。その日が来る前に、和希は啓太を不安にさせる事柄は出来る限り排除しておきたかった。今日中にその病院を突き止めておこう、と密かに決意する。
「やっぱり和希って凄いな」
 不意に啓太が尊敬の眼差しを和希に向けた。和希は啓太の髪を弄りながら、優しく微笑んだ。
「そのくらいのことは直ぐ調べられるよ。もし、それが内の系列だったら――……」
「何のことだ、和希? 俺が言ってるのは輸血のことだよ?」
「ああ、それのことか」
(そうだよな。俺の考えがわかる訳ないか)
 和希は頬を掻いた。おかしな奴、と啓太は首を傾げた。
「肉親間の輸血は出来ないなんて普通は知らないよ」
「そうか? 西園寺さん達や中嶋さん、篠宮さん辺りは知っていると思うよ」
「和希、態と言ってるだろう?」
 じと~っと啓太は和希を睨んだ。ははっ、と和希は乾いた声で笑った。
「あっ、でも、どうして王様は入ってないんだ?」
「啓太、あの人が知っていると思うか?」
「う~ん、確かに微妙かな。王様ってちょっと抜けてるとこあるから」
「そうそう。それで、いつも中嶋さんに突っ込まれるんだよ」
「言えてる」
 丹羽と中嶋のやり取りを想像して啓太はクスクスと笑った。
(良かった。少し元気になったな)
 和希は、ふわっと微笑を浮かべた。すっと啓太が和希の広い胸に頬を寄せた。仄かに熱を帯びた肌が先の情事の記憶を呼び覚ます……が、まだ不慣れな啓太に無理はさせたくなかった。和希は理性を総動員させ、何か気を紛らわすことを必死に考えた。
「そうだ、啓太」
「何、和希?」
「血液検査をしよう」
「え~、いきなり何で?」
 啓太は嫌そうに顔を顰めた。しかし、和希の瞳はキラキラと輝き始めた。咄嗟にしては、それは意外と良い考えだった。
「話のついでだよ。少し緊張するけれど、色々なことがわかって面白いぞ。たとえば、ABO式以外の自分の血液型は知らないだろう、啓太? 輸血の際はそういうものも合わせないと、嘔吐や発熱を引き起こす場合があるんだ。まあ、献血しても調べてくれるが、啓太は出来ないし」
「えっ!? どうして?」
「啓太の血は誰にもあげたくないから」
「和希……お前、心狭いぞ」
「駄目なものは駄目。その代わり、俺が調べてあげるからさ。ねっ?」
(啓太の血中には不活性ウィルスがあるから……ごめん、啓太)
「……まあ良いけど……」
 頼まれると断れない啓太は渋々その提案を承諾した。
「なら、明日の放課後、サーバー棟で採血しよう。結果は一週間くらいで出るから」
「わかった」
「楽しみだな」
 和希はキュッと啓太を抱き締めた。啓太は気持ち良さそうに目を閉じた。
(和希は、いつも優しい。この腕に包まれてると、俺の不安が嘘の様に消えてく……)
「和希……好き」
「俺も好きだよ、啓太」
「……うん」
 眠気を催したのか、啓太は小さな欠伸をした。
 和希は冷えない様に肩に毛布を掛けてやった。暫くすると、微かな寝息が聞こえ始めた。子供の頃から、啓太は身体を丸めて眠っていた。今、和希の胸の中にいる啓太も同じ寝姿をしている。あのときと比べ、二人の関係は大きく違ってしまったけれど、この癖は昔と全く変わらない。あの頃から、啓太、俺はお前が好きだった……
「愛している……」
 啓太の耳元で和希はそっと囁いた。そして、その首筋に顔を沈めて静かに瞳を閉じた。



2007.8.31
深刻な展開のわりに甘いです。
今回のポイントは石塚に惚気る和希。
ただ、基本はNHK以下(寸止め、暗転)なので、
細部は皆さんの想像にお任せします。

r  n

Café Grace
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