「俺……何してたんだっけ……?」
 真っ白な世界に啓太は一人……ポツンと立っていた。頭が霞んで考えが纏まらない。ここで何をしているのか。ここに来る前はどこにいたのか。全く思い出せなかった。足元は水に満たされて小波が立っているが、靴も服も濡れていない。見上げた空は、まるで春の宵の様に朧がかっていた。
『……君の望みは何?』
「誰!?」
 啓太は辺りを見回した。すると、水面に映る影がすっと浮かび上がった。啓太と同じ姿をしている。二人は暫く互いを観察し合った。
「……俺、だよな?」
『うん、俺は君で、君は俺だね。それで……君の望みは何?』
「望みって……」
『ああ、まだ寝ぼけてるんだね。長い間、眠ってたから。覚えてない?』
「うん」
『まあ、直ぐに思い出すよ。そうしたら、君の望みを教えて。でも、急いだ方が良いよ。でないと、死んじゃうよ、彼……』
 もう一人の啓太の輪郭が揺らいだ。待って、と啓太は手を伸ばした……が、指先が虚しく宙を切っただけで、そこにはもう誰もいなかった。
「死んじゃうって、誰が……?」
 穏やかな光に満たされた世界で、啓太はちょこんと首を傾げた。

「和希様、暫くここでお休み下さい」
 石塚はぐったりした和希を理事長室へ連れて行った。
 和希は不意に研究所からの報告書を落とすと、頭を抱え込んで動かなくなってしまった。何事かと動揺する医師や技師達に石塚が巧く言い繕い、取り敢えず、和希は別室で暫く休むことになった。しかし、ベッドは仮眠室にしかないので、やむを得ず、石塚は理事長室のソファーに和希を横たわらせた。
「和希様……」
 石塚の呼び掛けにも和希は全く反応しなかった。時折、苦悶に表情が歪む。石塚には、それがせめぎ合う理性と感情の渦に見えた。鈴菱の者として、常に自らを厳しく律する和希が初めて見せる心の乱れ。和希の中で啓太の存在がいかに大きいか、改めて石塚は思い知った。本当は気持ちが落ち着くまでそっとしておいてやりたいが、この非常時に最高責任者が不在では部下が動揺する。石塚一人でそれを抑え込むのは、とても不可能だった。
(私には僅かな時間を稼ぐことしか出来ません。皆、貴方だけが頼りなのです)
 石塚は小さなため息をついた。点滴が終了するまで、あと一時間。もし、和希がこのままの状態なら、本社の指示を仰がなければならない……が、和希はそれを嫌っていた。最も安全強固なこの学園でさえ情報漏洩が起こったのだから、他所は更に信用出来ないのだろう。最高責任者として……そして、恋人として、ウィルス目当てに啓太に危害が加わえらるかもしれないと心配するのは、至極、当然のことだった。石塚の苦悩は深まる。
(私に貴方を裏切る様な真似をさせないで下さい、和希様)
 窓に寄り掛かり、石塚は一人憂いに沈んだ。
「……」
 そうして暫くぼんやり下を眺めていた。既に真夜中を過ぎているので外には誰もいない。いや……違う。車寄せ(ポーチ)の処で何人かの生徒が揉み合っていた。その内の二人には見覚えがある。それはBL学園(ベル・リバティ・スクール)生徒会の会長と副会長だった。そういえば、と石塚は思った。セーフティ・モードが発動されたにもかかわらず、生徒達からの問い合わせや苦情が一件もなかった。異変に気づいた生徒会が押し止めていたらしい。情報面での補佐は恐らく会計部の二人。さすが対処が早いですね、と無意識に石塚の口元に微笑が浮かんだ。
「……!」
 サーバー棟を見上げた丹羽と目が合った。続いて中嶋も顔を向ける。三人の視線が宙で交錯した。石塚は小さく頭を下げた。
(……本当に良い生徒達ですね、和希様)
 立ち去る二人を見送りながら、石塚は無音で和希に語り掛けた。彼らに報いるためにも今は私がしっかりしなくては……!
 優秀な秘書は憂いを振り払い、気持ちをしっかり切り替えた。
(和希様、私は貴方と伊藤君の絆を信じています)
 そして、静かに理事長室を後にした。

 仮眠室のドアを開けると、医師の一人がさっとこちらを振り返った。その瞳に不安の色彩(いろ)を見て取った石塚は穏やかに言った。
「やはり和希様は少しお疲れの様です」
「点滴をしていますから、終わるまでは無理をなさならない方が良いでしょう」
「彼の容態は?」
「……」
 医師は首を横に振った。抗血清以外に治療方法がないのだから訊くまでもない。医師に出来ることは、せめて死が緩やかに訪れる様にすることだけだった。
「そうですか……」
 石塚は辛そうに啓太を見つめた。
 ベッドに横たわる蒼ざめた啓太に普段の面影は欠片も感じられなかった。今更ながらにあの純粋な魂に自分もまたどれほど救われていたのか悟った。日々殺伐とした仕事に追われて忘れそうになってしまう人として最も大切な心。それをいつも揺り起こしてくれるのが啓太だった。
(もう君の運だけが頼りです。和希様がお戻りになるまで、頑張って下さい)
 後ろ髪を引かれたが、石塚は自らの勤めを果たすべく室内の一角に設けた机へと移動した。
 そこは啓太の足跡調査の資料で溢れ返っていた。和希は啓太からの感染者は自分だけだと断言したが、幾ら接触感染のみでも啓太が常に和希の庇護下にいた訳ではない。そのことを石塚に指摘されると、和希は渋々ながらも足跡調査の指示を出した。
 始めてみて石塚は啓太の活動範囲の広さと人数に驚いた。学園島の外に出ていなかったのは幸いだったが、生徒や教職員の大半は何らかの接触があった。更には寮や学食関係者、サーバー棟内のコンピューター技師と研究所の一部の者達にまで。最早、それは一生徒としての域を遥かに超えていた。お陰で、調査は遅々として進まなかった。
(これも伊藤君の人柄なのでしょうが、それが返って仇になってしまいました)
 これまでの情報から、初期症状が現れたのは約四日前と推測された。潜伏期間は凡そ一週間なので、その日を基点に遡って調査を行うことにした。石塚はざっと資料を眺めた。この中に伊藤君の血液や体液に触れた者はどのくらい――……
(いえ、私は別に伊藤君の貞節を疑っている訳ではありませんよ、和希様)
 和希の怒った顔が頭に浮かび、石塚は慌てて弁解した。ただ、血液は最も接触頻度が高い。保健室に行く様な怪我はしなくとも、紙で指を切るくらいはしたかもしれない。もし、その傷に誰かが触れたら、直ちに感染して潜伏期間を経た後に発症……数日で死に至る。そして、また次の感染者が……そうなってはもう封じ込めは出来ない。それを避けるためには、今、総ての可能性を零にしなければならなかった。その膨大な作業の指揮は総て石塚に一任された。しかし、どうにも手が足りなかった。
(生徒会と会計部……あちらに学園内の調査を委託したらどうでしょうか?)
 石塚は先刻の一件を思い出した。対応の早さから察するに、彼らはある程度の事情は把握してるらしい。作業を分担することは、何より時間を効率的に使えた。今は一分、一秒たりとも惜しかった。石塚は携帯電話を持って歩き出した。込み入った話になるかもしれないので、別の部屋へ行こうと思った。
 そのとき、突然、部屋の最奥で血液検査をしていた技師が叫んだ。
「ヘモグロビン濃度(Hb)が二.六です!」
「緊急輸血の用意を!」
 緊迫した医師の声に、保冷庫の近くにいた技師が慌てて血液パックを二つ取り出した。それは和希が自己血輸血用に貯血していたものだった。思わず、石塚は口を挟んだ。
「大丈夫なのですか!?」
 石塚は二人の血液型が違うと知っていた。和希はAB型で、啓太はO型。いくら和希からの指示があるとはいえ、異なる型を輸血して問題はないのだろうか……?
「これは交差適合試験(クロスマッチ)済みです」
 医師は手を動かしながら、小さく頷いた。啓太の腕に慎重に針を刺す。細いチューブの中を真っ赤な血液が流れ始めた。医師はカルテに輸血開始時刻を記入した。
「……石塚さん、彼のご家族は?」
「明朝、迎えが行くよう手配してあります。それが何か?」
 その問いに医師は少しの間、逡巡した。
「……ヘモグロビン濃度(Hb)が三を切ると、生命維持に係わります。輸血は単なる対症療法に過ぎません。症候性貧血を治療する唯一の方法は原因となる疾患を取り除くことですが、それが出来ないとなると……」
「もう長くない……?」
「残念ですが……」
「……そんな」
 石塚は医師に詰め寄った。
「貧血はまだステージⅠのはずです!」
「石塚さん、彼は極めて特殊な事例なのです。ステージが進行しないのは、恐らく体内でウィルスが徐々に活性化したためです。でなければ、発症から四日も経過して――……」
 医師は失言とばかりに口を噤んだ。石塚は発せられなかった言葉を胸の中でそっと呟いた。生きているはずがない……
「あと……どのくらいですか?」
 グッと掌を握り締めて石塚は尋ねた。
「貧血が進行し、心臓にかなりの負担が掛かっています。最早、彼の体力次第ですが……恐らく持って一日でしょう」
「……!」
 石塚は無言でまた机に戻ると、椅子に身体を沈めた。有能な秘書は啓太が死亡した場合の状況を既にある程度は予測していた。頭の中で、それを更に詰めてゆく……自身の性に嫌悪しながら。
 過去のウィルス感染については啓太の身内にさえ伏せてあるため、何か尤もらしい理由が必要だった。それは何とかなるだろう。賠償責任などの法的事案は『鈴菱』の財力を以てすれば全く重要ではなかった。やはり最大の問題は和希だった。二人の関係が公に出来ない以上、和希はあくまでも理事長としてこの件に当たらなければならない。しかし、最愛の恋人を失った和希に果たしてその気力が残っているだろうか。和希の啓太への想いはあまりに深く、ときに盲目的でさえあった。先刻の和希を見て石塚は確信した。啓太を失えば、恐らく和希は生きていけない、と……
「和希様……」
 最悪の事態が刻一刻と迫っていた。石塚にそれを止める術はない。
(もう時間がありません、和希様……!)
 心の中で、石塚はそう叫んだ。



2007.10.12
石塚さん、物分かり良過ぎです。
それに、あの顔は何となくクリスチャンっぽく見えます。
その場合、懺悔は牧師より神父が良いな。
あっ、何か背徳的な香りが……

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Café Grace
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