「和希様!」
 仮眠室に現れた和希を見て石塚は驚愕した。常に身だしなみに気を配る和希らしくもなく、緩んだネクタイもそのままの姿。足取りは覚束なく、顔色は更に悪くなっていた。和希は点滴スタンドに掴まって漸くそこに立っている様に見えた。
「和希様、まだお加減が――……」
「石塚、啓太の容態は?」
 その言葉を遮って和希は尋ねた。
「医師の見立てでは、持ってあと一日だそうです」
「……」
 和希は石塚の横を通り抜け、啓太のベッドへ向かった。輸血が施されているのを見ると、厳しい声で医師に問う。
「出血したのか?」
「いいえ、しかし、貧血がかなり進行し、いつ心不全を起こしても不思議ではない状態です。輸血で一時的には回復しましたが、それもいつまで持つかわかりません」
「……再度、啓太の抗体の有無を調べてくれ」
「わかりました」
 医師は小さく頷くと、その指示に従った。
 和希はベッドから離れ、窓辺に置かれた肘掛け椅子に腰を下ろした。疲れた様に深い息を吐く。石塚が心配そうに顔を寄せた。
「……石塚」
 抑えた声音で和希は尋ねた。
「本社へ連絡はしたか?」
「いいえ」
「情報が外部へ漏れた形跡は?」
「今のところはありません。ただ……」
「何だ?」
「生徒会と会計部の生徒達に、学園内の治安維持と伊藤君の足跡調査を依頼しました。彼らは独自に状況を把握し、和希様が伊藤君とご自身の治療に専念するための手助けをしたいと自ら申し出て来ました」
「さすがだな」
 ふっ、と和希は微笑を零した……が、その表情は直ぐに硬くなった。
「当面の間、この件は本社へは伏せておく。岡田にも、そう伝えておいてくれ」
「わかりました」
(『鈴菱』が宿主に拘る理由がわかるまで、本社の者を啓太に近づける訳にはいかない!)
 和希は拳を握り締めた。
「和希様、これまでの伊藤君のデータをご覧になりますか?」
「ああ、頼む」
 石塚は軽く頭を下げて立ち去った。
 和希は背もたれに大きく寄り掛かった。身体が重い。ぼんやり遠くを眺めていると、医師が和希に近づいて来た。
「……何だ?」
「点滴が終わった様ですので針を外しても宜しいですか?」
「ああ、有難う」
 医師は和希の左側に回り、針を抜こうとして顔色が変わった。腕に浮かび上がっている内出血の大きな痣……すぐさま脳裏にマニュアルにあった発症ごとの主な症状が過る。まさかステージⅡ……?
「啓太を運んだときにぶつけたらしい」
 和希は小さく微笑むと、捲り上げていたシャツの袖を押さえる振りをしてさり気なくそれを隠した。ここにいる誰もが和希の感染で少なからず動揺していた。これ以上、部下を混乱させる訳にはいかなかった。
「あ……湿布でもなさいますか?」
「いや、必要ない」
 会話を打ち切る様に和希は目を閉じた。医師は、もう何も言わなかった。
 ……一時間後。和希は啓太のカルテを膝に置き、右手を額に当てて俯いていた。頭痛がして仕方がない。激しい倦怠感が和希の全身を苛んでいた。
「和希様」
「……ああ……」
 石塚の呼び掛けに和希は口先だけで答えた。
「お訊きしたいことがあるのですが、宜しいですか?」
「……何だ?」
「あの抗血清は本当に効いているのですか?」
「……」
「伊藤君は再検査の結果、抗体が確認されました。まだ予断は許しませんが、現在、状態は安定しています。しかし、和希様は時間が経つにつれ、益々顔色が悪くなってゆく様に見受けられます」
「……」
 無言を貫く和希に石塚は短く嘆息した。和希の秘密主義は今に始まったことではないが、それに啓太が絡むと些か度を越すきらいがあった。
「勝手かとは思いましたが、伊藤君から検出されたウィルスと過去のもののデータをラボで比較して貰いました。結論から申しますと、両者には明らかな差異があるそうです。つまり、ウィルスが突然変異を起こしている、と。ならば、あの抗血清は効かないのではありませんか? そして、和希様は既にそのことに気づいていられる」
「……ああ、俺は既にステージⅡへ移行している。直に内臓からの出血が始まるだろう……」
「そこまでわかっていながら、なぜ、新しい抗血清を合成しないのですか? 伊藤君の体内には既に新種の抗体が出来ています。彼から採血すれば――……」
「駄目だ!」
 突然、和希が声を荒げた。顔を上げ、激しい怒りの籠もった目で石塚を睨みつける。
「その判断は俺がする! 今の啓太から採血はしない!」
「しかし、このままではお身体が持ちません」
「俺ならまだ大丈夫だ! そんなことより今は――……」
「和希様!」
 柔和な石塚の表情が急に厳しくなった。医師や技師達も今や手を止めて二人の様子を窺っている。
「どうか冷静にご判断下さい! このままでは新たな抗血清を合成する前に手遅れになります。貴方は、またあの子を一人にするおつもりですか!」
「……!」
 その言葉に和希の瞳が微かに揺れた。石塚は和希の前に膝をつき、諭す様に話を続けた。
「和希様、伊藤君を想われるのならば、ご自身のことも同様に考えるべきです。貴方を失って最も悲しむのはあの子なのですよ」
「……わかっている。だが、駄目だ。採血は啓太の生命を危険に曝す。これ以上、俺のせいで啓太を苦しめる訳にはいかない」
「それは違います。もしも、新種のウィルスのせいで和希様を失えば、伊藤君は和希様以上に苦しむはずです。今、和希様のなさっていることは、伊藤君のためを思っている様で逆にあの子を追い詰めているだけです。貴方は伊藤君を護るのではないのですか?」
「ああ、啓太は俺が護る」
「ならば、最後までその意思を貫いて下さい。この苦しみは和希様か伊藤君、どちらかが背負わなければならないのです。貴方なら、その重さに堪えられるはずです」
「だが、それで啓太に万が一のことが起きたら、俺は……!」
 膝の上で組んだ和希の手が震えた。石塚の瞳がすっと啓太へ流れた。
「……伊藤君の生きようとする意思と運を信じましょう。私達には、それしか出来ません」
「……」
 和希も無言でベッドの啓太を見つめた。
 啓太の運の良さは昔から驚異的だった。啓太が強く望んで叶わないことは恐らくないだろう。それは心配ではなかった。だが……と和希は思った。啓太は俺にまた逢いたいと思っているだろうか。お前をこんな目に合わせてしまった俺に……
『……向こうで……待ってて……』
 和希の頭に、夢での啓太の言葉が浮かんだ。
(啓太は俺の処へ戻ってくるのか? 本当に?)
 一瞬、光が見えた気がした。しかし、それは直ぐに消えてしまった。
 和希はどうしても自信が持てなかった。啓太の言葉を自分に都合の良いよう解釈していないと言い切れるだろうか。啓太を護ると言いながら、啓太の身には一片の配慮もせず、ただひたすらに欲望を押しつけてしまった自分を啓太はまだ想ってくれるだろうか。夢の最後に見た啓太の、啓太らしかぬ儚げな微笑……あれは本当は別れのはなむけだったのではないか。
 考えれば考えるほど、頭の中に様々な疑問が浮かび上がってきた。
(わからない……俺はどうすれば良い、啓太……)
 すると、意外なところから答えが返ってきた。石塚が静かに言った。
「肝心なのはどうすればではなく、貴方がどうしたいかです」
「……!」
 和希は目を瞠った。有能な秘書には、こちらの胸の内など総てお見通しらしい。
(……俺がどうしたいか、か)
 他の何がわからなくとも、それだけは、はっきりしていた。もう一度、啓太に逢いたい。それが恋人という関係の終わりに繋がったとしても、このまま、啓太と別れることだけは絶対にしたくなかった。そのためには、今はどんなことをしても生き抜かなければならない……再び啓太を傷つけることになろうとも。
「わかった」
 漸く和希は口を開いた。顔色は酷く蒼ざめているが、その中に先刻まではなかった強い意思が煌いていた。石塚は先を急き立てる様に身を乗り出した。
「和希様、では……!」
「ああ、啓太から採血する。但し、二百だけだ! 今の啓太ではそれが限界だ。ラボの手配は出来ているな、石塚?」
 はい、と力強く石塚は頷いた。
「なら、啓太から採血後、抗体を――……」
 突然、ふらっと和希の身体が揺らめいた。掌を口元に当て、激しく咳き込む。ごほっ、ごほっ、ごほっ……!
「和希様!」
 慌てて石塚は手を伸ばした……が、それは何かに驚いてピタッと止まった。和希の指の間から、赤い雫が滴り落ちてゆく。
「はあ、はあ……騒ぐな、石塚……肺からの、出血が……っ……始まった、だけ……まだ、間に合う……だから、急げ!」
 苦しげに喘ぎながら、和希は背もたれに深く身を沈めた。血を拭おうにも、全身が鉛の様に酷く重くて力が出なかった。すると、石塚が自分のハンカチをを取り出して和希の口元をそっと拭った。有難う、と和希が瞳で告げると、石塚は優しく微笑んだ。そして、さっと立ち上がり、不安げな表情の医師達を振り返った。啓太を指差して指示を出す。
「彼から血液を採取します」
「なっ……そんなことをしたら、生命の保障は出来ません! 今の彼は――……」
「議論の余地はありません!」
 強い声で石塚はすぐさま反論を封じ込めた。鋭い眼差しで周囲を威圧する。
「ウィルスに新種が発生しました。その抗体を持つのは彼だけです。直ぐに採血をして下さい。彼の血液から抗体を分離し、新たな抗血清を合成します。もう時間がありません!」
「わ、わかりました!」
 凍りついていた医師や技師達が再び慌しく動き始めた。そして、同じ頃……そこから少し離れた地で、一人の男が立ち上がった。



2007.12・14
やっぱりヘタレな和希。
完全に趣味に走っている気がします。
それにしても、石塚さん……目立ち過ぎ?

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Café Grace
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