四人の来訪者は和希に案内されて、理事長室とは反対側へ向かって歩き出した。誰もが無言だった。まるで葬列の様な行進……やがてそれはある部屋の前で止まった。和希がドアを開けると、最も年長の男は部下に、ここで待て、と言い残して中へ入った。
 そこは普段はあまり使われていない応接室だった。黒い皮張りのソファーと硝子の低いテーブルがあり、右の壁には綺麗な風景画が掛けてある。正面の窓からは、学園の様子が一望出来た。
 男は左奥のソファーに腰を下ろすと、ゆっくりと足を組んだ。
「……酷い格好だな、和希」
「申し訳ありません」
 和希は座ることなく、頭を下げた。上着も着ず、襟や袖口が血で汚れたシャツを未だに変えてもいない。ネクタイは解けたまま、だらしなく首にぶら下がっていた。
「宿主の状態は?」
「現在、意識不明です」
「だが、抗体は検出されたのだろう? ならば、覚醒したと考えて間違いない。後は我々が引き受ける。わかったな、和希?」
 男は冷たく和希を見据えた。
「……抗血清なら目下、合成中です。俺は既に発症しましたから」
「お前達の関係は知っている。我々は常時、宿主を監視していたからな。その件は、いずれ日を改めて話すとしよう」
「監視……だと?」
 和希は低く唸った。
 啓太に関してはただでさえ感情の抑えがつかないのに、体調の悪化に伴って更に気が短くなっていた。啓太のプライバシーや人権を全く無視した物言いが酷く癇に障る……が、男はそれを無視して事も無げに言った。
「和希、お前は甘過ぎる。やるときはもっと徹底的にやれ。宿主に配慮など必要ない。ああ、だが、MVP戦以降、部屋での夜間監視は中止した。これは、謂わばお前への私からの譲歩だ」
「……っ!!」
 カッとなった和希が詰め寄ろうとすると、男はそれを軽く手で制した。
「先刻も言ったはずだ。その件は日を改めて話す、と。今は宿主の確保が最優先だ。何といっても六十年振りに現れた貴重な試料だ。この機を絶対に逃してはならない」
「啓太は研究試料とは違う」
「いや、試料だ。宿主は爪の先から髪の毛一本に至るまで、総て『鈴菱』のものだ」
「貴方が欲しいのはウィルスの力だ」
 和希の声から抑え切れない嫌悪が滲み出た。男が僅かに目を眇めた。
「……なぜ、それを知っている?」
「啓太から聞きました」
「宿主は他に何か言ったか?」
「ウィルスは宿主と意思を共有する、と」
「……ほう」
 男は膝の上で軽く指先を合わせた。
「宿主は覚醒をそう捉えているのか。成程……実に面白い」
「……っ……!」
 ギリッと和希は奥歯を噛み締めた。握り締めた拳が怒りに震える。まるで忍耐力を試されている様だった。はあ、と男が短く嘆息した。
「和希、私を失望させるな。次期当主たるお前が宿主に入れ込んでどうする?」
「俺は啓太を愛しています」
「ならば、その頭を冷やしてやろう。お前に宿主の意味を教えてやる」
「……!」
 驚いた和希は、思わず、男を凝視した。まさかこんなにも早く情報を開示するとは予想していなかった。ここでそれを持ち出す意図は一つしか考えられない。宿主には二人の関係を脅かす何かがあるということ……
 密かに身構える和希を他所に男は滑る様に話し始めた。
「そもそも、あのウィルスは地上のあらゆる生物とプロテイン構造が根本的に異なっている。我々人間を含めて生物は総て左型のプロテインで構成され、殆ど左型のプロテインしか体内では利用出来ない。だが、あれを構成しているプロテインは右型だ。そのために感染すると、我々は急速に体内を浸潤されて死に至る……お前の様にな。しかし、極稀にあれはある種の突然変異を起こし、感染者の体細胞と完全に同化する場合がある。それが覚醒だ。そして、覚醒した者を宿主という。
 宿主となった者は、まるで陰が陽を引きつける様に人々を惹き寄せ、やがては国をも動かす力を持つ。我々の研究はその現象を解明し、宿主の発現を我々の手で統制することにある」
「あり得ない……!」
 反射的に和希は呟いた。
 ベル製薬の研究所長でもある和希は、その方面の才能にも秀でていた。右型と左型は合わせ鏡の様に対称的な構造で同等の性質を持っているが、右型は左型に比べて紫外線の影響を受け易かった。そのために人工的に合成する場合と異なり、天然では分解されて殆ど存在しない。その右型プロテインで構成された生物が存在するなど一概には信じられなかった。しかも、その話が事実なら、啓太は分類学的には存在しない人間の亜種となる。それがヒトゲノムの解析において果たす役割は計り知れない。もし、これが公になれば、世界中の研究者が啓太に殺到するだろう。和希は『鈴菱』が啓太の確保を急ぐ理由を漸く理解した。そして、啓太を試料扱いする意味も……
 しかし、そんなことで和希の啓太への想いが揺らぐことはなかった。既に同性という大きな障害を乗り越えているのだから。啓太が啓太である限り、種の違いなど和希にとって全く意味を成さなかった。ただ、別のことが気になった。和希の頭を先刻の啓太の言葉が過ぎる。俺の方が……もっと酷いこと……
(啓太はウィルスの力で俺が惹かれたと思ったのか? だから、あんなことを……)
 男が言葉を続ける。
「確かに急には信じ難い話だ……が、事実だ。あのウィルスは、この地上で最も危険な存在と言っても良い。しかし、宿主にはそれを補ってなお余りある魅力がある。その力は『鈴菱』の今後の世界戦略に大いに貢献するだろう。我々から宿主が現れなかったのは残念だが、幸い、今のあれはお前の統制下に――……」
「俺は啓太を利用するつもりはありません!」
 ハッと我に返った和希は声を荒げた。それは研究試料として扱われるより、もっと深く啓太を傷つけるだろう。自分は啓太のただ一人の恋人だから。しかし、そんな理屈が通じる相手ではないと和希は充分過ぎるほど知っていた。
 二人の間で、啓太を巡る激しい攻防が始まった。
「和希、我々は慈善事業をしているのではない。生きた宿主の確保は半世紀以上に渡る研究より遙かに勝る成果だ。不活性化したウィルスを検出したあの日、我々はそれにあと一歩のところにまで迫った。覚醒はしていないが、ウィルスと共生出来るのは宿主以外にはあり得ないからだ。今、漸く覚醒した真の宿主が手に入る。私はこの機を逃すつもりは毛頭ない。諦めろ」
「啓太は絶対に渡しません。貴方にはわからない。あの夏の日から今まで、俺がどれほど啓太との再会を待ち望んできたか。俺は、もう二度と啓太を手放すつもりはありません」
「最早、あれはお前の知っている人間ではない。見る者、総てを虜にする魔性の存在だ」
「そんなことはない! 先刻、啓太は息をするのも苦しいのに、俺と一緒にいたいと言って泣いた。あれは俺が知っている、いつもの啓太だった。啓太はどこも変わってはいない!」
「話にならんな」
 さっと男は立ち上がった。眼光、鋭く相手を威圧する。
「宿主は我々で確保する。いかにお前であろうと邪魔立ては許さん!」
 それは純利益一兆円を超える巨大多国籍企業『鈴菱』の最終意思だった……が、和希は怯まなかった。なおも男に食い下がる。
「貴方の研究には重大な瑕疵(かし)がある!」
「……!」
「たとえ、過去の宿主の誰もが異様に人を惹きつける力を備えていたとしても、それを以って総て一律に宿主の力と見なすには早過ぎる。啓太の言う様にウィルスとの同化が意識レベルにまで及ぶのなら、その力をある程度、人の意思で選択出来る可能性を考慮すべきだ!」
 和希には確信があった。世界が欲しいかと訊かれたときに啓太の瞳に見えた罪の意識……あれはウィルスの力で和希を得たと思った啓太の良心の呵責だったに違いない。
(だから、少しでも俺の役に立とうと思ってあんなことを言ったんだ)
 男は何をくだらないことをという目で和希を見下ろした。
「確かに今までは生きた宿主と接触する機会がなく、覚醒の内的研究は出来なかった。あの宿主がこれまでと同じ力を得たという証左もどこにもない。だが、それは我々が宿主を確保すれば直ぐにでも調べられることだ」
「無理だ」
 和希はきっぱりと断言した。
「何!?」
「俺は、啓太が覚醒したのは俺とのことが原因だと考えていた。だが、貴方の話を聞いて、もう一つ理由があることに気がついた。恐らく宿主は一個の存在としての揺らぎが大きい。光の散乱の様に巨視的には一定であっても、微視的には常に変動しているんだろう。啓太は精神的にも肉体的にもまだ未成熟だ。そんな啓太を俺から引き離せば、その微妙な均衡を崩してどうなるかわからない。それこそ研究どころの騒ぎではない!」
「……!」
 男の眉がピクッと反応した。
 『鈴菱』が入手した過去の記録の中にも、暴走した後、自ら崩壊した宿主のことが記されていた。しかし、それは今まで単なる人格破綻だと考えられていた。過ぎた力が身を滅ぼしたのだと。そのことから宿主には強靭な精神が必要と推測されたが、存在の揺らぎまでは考察していなかった。
(異常とも言える左右両方のプロテイン構造を持つのだから、あり得ない話ではない。しかも、そこに人の意思が介入するのならば、なおのこと……)
 男は和希の瞳を凝視した。
 そこに宿主への盲信的な想いが一片でも見受けられれば、即座に戯言と切り捨てるつもりだった……が、そこにあったのは自分と同じ、常に冷静に判断を下す経営者の色彩(いろ)だけだった。
(どうやら芯まで虜になっている訳ではない様だな)
「和希、宿主はどこだ?」
 ゆっくりと男が口を開いた。和希は蒼ざめた顔に強い意思を漲らせて逆に問い返した。
「……なぜ、ですか?」
「お前の推論だけでは不十分だ。実物を見て、私が判断する」
「意識のない今の啓太に会っても無意味だとは思いますが……」
 一旦、和希は言葉を切った。落ち着いて、深く息を吸い込む。交渉は、ときに引くことが肝心だ……
「わかりました。啓太の処へ案内します」
 静かな声で、和希はそう答えた。


2008.1.25
漸くウィルスの正体が明らかになりました。
ちょっと専門的な展開ですが、
このくらいのレアさがないと、
『鈴菱』ほどの企業が秘密にする意味がない気がして……

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Café Grace
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