不意に仮眠室のドアが大きく開き、二人の医師と秘書を従えた男が堂々と入って来た。石塚は驚いて目を瞠った。
「社長!」
 男は素早く室内を見渡すと、ベッドに目を留めた。
「あれか」
「お待ちください!」
 石塚は行く手を遮る様に立ち塞がった。礼を失わず、しかし、きっぱりと言う。
「和希様から誰も近づけるなと厳命されています!」
「構わん」
「ですが――……」
 歩を止めない男を前に石塚がじりじり後退していると、彼らに少し遅れて和希がやって来た。
「石塚、構わないから……通してくれ」
「和希様!」
 石塚は直ぐに和希の元へ駆け寄った。
 和希は酷く疲れた顔をしていた。最早、気力だけで動いているのだろう。しかし、石塚が手を貸そうとすると、無言でそれを断った。和希は鋭い目で男の一挙手一投足を凝視していた。
 男は啓太の傍らに立つと、独り言の様に呟いた。
「これか?」
「はい、間違いありません」
 少し後ろに控えていた男の秘書が答えた。
 男は啓太の顔を穴の開くほど眺めた。やはりまだ子供だな、と密かに思う。それから、啓太に繋がれた数々のセンサーに目を移した。同行してきた者達が近くにいた医師に話し掛けた。
「患者の容態は?」
「まだ予断を許しません。先ほど心原性ショックを起こしたのでノルエピネフリンを投与後、アシドーシス補正を行いました。現在は適正心室拍数が得られています」
「黄疸が見られますが、これは?」
「遅発性溶血性輸血副作用(DHTR)です。交差適合試験(クロスマッチ)の際に検出出来なかった不規則性抗体があったものと思われます」
「随分、早いな。過去に輸血したことがあるのか?」
「和希様によると、子供の頃に一度。恐らくそのときは見過ごされたのでしょう」
「よくある話だ。輸血から抗体産生までは二週間以上の間がある。時間の経過と共に抗体の力価が低下し、いつしか不規則抗体検査の測定感度以下となっていたのだろう」
「恐らくそうでしょう。取り敢えず、今は無治療で経過を観察しています」
「ですが、貧血が強度になれば、検出された抗体に対応する抗原陰性赤血球の交換輸血で溶血を減少させた方が良いのではないですか?」
「勿論、そうするつもりです」
「輸血したのは何単位ですか?」
「濃厚赤血球(RC-MAP)を六単位です」
「……そうですか」
 同行してきた医師の一人が男に進言した。
「社長、輸血で起きた溶血が重症化するのは稀ですが、この患者で六単位もしたら、恐らく自己血の四分の一は入れ替わっているものと思われます。循環動態もまだ不安定ですから、今、動かすのは非常に危険です」
「……」
 男は静かに啓太へ視線を戻した。
(確かに男にしては華奢な造りをしている。体力もなさそうだ。これは漸く現れた貴重な宿主だ。絶対に死なせる訳にはいかない。暫く移送するのは無理か。すると、当面の問題は精神力だな)
 もし、和希の推測が正しければ、二人を引き離すのはあまりにもリスクが高過ぎた。不安な心は個としての存在の揺らぎを大きくし、宿主が自己崩壊する危険がある。そうでなくとも、過去の資料から宿主には強靭な精神が必要なのは明らかだった。
(恐らくそれが宿主になるための絶対条件。こんな子供にそれほどのものがあるのか?)
 考え込んでいた男の視界に、すっと和希が入って来た。和希は男に分厚いファイルを手渡した。
「これは?」
「過去二週間に啓太が接触した者のリストです」
 男は、ぱらぱらと資料を繰った。それは一生徒の交友関係にしては多い量だった。未覚醒とはいえ、力の片鱗は既に現れていたのかもしれない。男のその考えを読んだのか、和希が静かに言った。
「俺にはウィルスの影響だけでこれだけの人を惹きつけられるとは思えません。啓太自身にも魅力が備わっていなければ」
「……彼らを支えるだけの強さがある、と言いたいのか?」
「はい、啓太は自分の中に光り輝く真っ直ぐな芯を持っています。それは何があっても決して揺るがない。だから、誰もが啓太に惹かれるんです。ただ、見ての通り、啓太はまだ未熟です。迷うことも多い。より確固たる自我を確立するためには、もう暫く時間が必要です」
「我々に宿主が成人するまで待てと?」
 男が僅かに目を眇めた。和希は首を振った。
「何があっても、啓太は絶対に渡しません……が、これは啓太の生命に直結する問題です。だから、俺としても研究を続けるに吝(やぶさ)かではありません。必要なら、俺が啓太を説得します」
「ほう?」
「但し、それには一つ条件があります。その研究に、俺も加えて下さい」
「お前が条件を出せる立場か?」
 厳しい声で男は和希を突き放した。すると、和希はそれを鼻で笑った。
「貴方は従わざるを得ません……啓太を失いたくなければ」
 ふむ、と男は唸った。そして、少し間を置いてから尋ねる。
「お前はこれを試料扱いすることに反対ではなかったのか?」
「勿論、そんなことはさせません。啓太は俺の恋人ですから」
「ならば、これを『鈴菱』のために使うことにも反対するのか?」
 男の口調と視線が一段と冷たさを増した。
「……」
 和希は真っ直ぐ男の瞳を見た。『鈴菱』の暗部ともいうべきウィルス。そこに自ら携わろうとする以上、それは避けては通れない問題だった。
 上に立つ者として、これまでにも和希は苦い決断を下したことがあった。清濁併せ呑む考えが出来なければ、到底、『鈴菱』の後継者は務まらない。しかし、今ほど強い抵抗を感じたことはなかった。その問いに対する答え……それは、啓太の純粋な心をあざとく利用しようとする大人の考え方そのものだった。
(だが、啓太を護るためなら……俺は幾ら汚れても構わない!)
「道具として、という意味なら……が、俺は啓太を決して離しません。そこにお互い妥協点を見出せると思います」
「……成程」
 男は低く呟いた。
(恋人の力になりたいという当然の心理を突くのか。確かにある程度、宿主の自主性に委ねた方が揺らぎは小さくて済むだろう。更に和希の傍にあることによって宿主を常に『鈴菱』の管理下に置くことも出来る。話の落としどころとしては、そう悪くない……)
 暫く男は何かを考えていたが、やがておもむろに口を開いた。
「良いだろう。これはお前に預ける」
「……!」
 二人から少し離れた場所に控えていた男の秘書が僅かに息を呑んだ。和希は小さく頭を下げた。
「有難うございます」
「だが、これの身辺は今まで以上に警戒し、何があっても確実にお前が護れ。これは命令だ、和希」
「勿論、そのつもりです」
 和希はギュッと拳を握り締めた。啓太がウィルスに侵されたあの夏の日から、『鈴菱』の総てを手に入れるために努力を重ねてきた……それを使って、今度こそ自分自身で啓太を護るために。
「社へ戻る」
 男が短く言った。和希が見送りに行こうとすると、不要だ、と軽く手を上げた。
「和希、お前には今から一週間の休暇を与える。暫く治療に専念しろ。その身体では完璧な仕事は出来ない」
「……わかりました」
 和希は小さく頷いた。
「石塚」
「はい」
「この場にいる者、全員に抗血清を投与したら、直ちにセーフティ・モードは解除しろ。後の処理は総てお前に一任する」
「かしこまりました」
 石塚は深々と頭を下げた。
 男は最後にもう一度、啓太の顔を凝視した。
(『鈴菱』の繁栄を磐石なものとする力……お前は、総て私のものだ)
 そして、くるっと踵を返すと、来たときと同じ様にまた部下を引き連れて本社へと戻って行った。
 ……パタン。
 ドアが閉まった。
 その瞬間、和希の身体から一気に力が抜けた。急速に意識が霞んでゆく。体力の不足を気力で補ってきたが、最早、それも限界だった。
「和希様っ!!」
 遠くで石塚の呼ぶ声が聞こえた。しかし、和希はもう目を開けていられなかった……

 屋上からヘリコプターで飛び立った男は眼下に広がる学園島の景色を眺めていた。隣に座っている秘書が怒りを秘めた声で尋ねた。
「社長、あのままで宜しいのですか?」
 幾ら親子とはいえども、和希の態度は不躾にも程があった。社長の決断に異を唱えたばかりか、条件を出すなど決して許されることではない。憤懣やるかたない秘書に男は余裕を持って答えた。
「どこにも逃げ場はないのだから焦ることはない。今、重要なのは漸く現れた宿主を暴走させないことだ。和希の推測を総て鵜呑みにした訳ではないが、態々リスクを冒す必要はない。それに、そろそろ研究凍結の解除を考えていた。やはりここに勝る設備は他にはない。和希も、どうやら割り切った判断が下せる様になったから、もう任せても良いだろう」
 それを聞いて秘書は感服した様に頷いた。
 人好きのする容姿をした彼は常に何事にも囚われず、柔らかい口調と穏やかな物腰で要領良く人生を歩んできた。それは決して頂点に立てる生き方ではないが、経済的な満足を得るには充分だった。そのままで良い……ずっと、そう思っていた。
 しかし、この男に初めて会ったとき、一目で魅せられてしまった。理由は今でもわからない。いや、恐らくそんなものはなかったのだろう。ただ彼につき従い、その行き着く先にある世界が見たくなった。そのためなら、どんなことでも厭わないほど熱烈に。
「……加賀見」
 男が命じる。
「久我沼の後任に、お前を任命する。その瞳で宿主の言動を直に観察して、逐一、私に報告しろ」
「かしこまりました」
「それと、宿主の監視と警護の数を倍に増やせ。遅かれ早かれ、いずれ覚醒の件は洩れる。あれの力は抑えようがないからな。私は、彼らと同じ轍は踏まない」
「直ちに対処致します」
 加賀見は頷き、衛星電話ですぐさま本社にその旨を伝えた。
 男はゆったりと足を組み、膝の上で軽く指先を合わせた。再び視線を窓の外へ戻す。水平線の上に眩しい朝日が浮かんでいた。ふっ、と口唇が歪んだ。
 それは、男が久しぶりに浮かべた小さな微笑だった。



2008.2.15
ちょっと黒い和希パパですが、
やっぱり親子です。
意味こそ違え、啓太に執着するところはそっくり。

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Café Grace
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