教室でも啓太は注目の的だった。食堂では啓太を取り巻くそうそうたる面々に怖気づいてしまったが、ここにはもう彼らはいない。だから、休み時間ともなると引っ切り無しに誰かが声を掛けてきた。啓太はそれに嬉しそうに答えたり、笑ったりしていた。しかし、四時限目に入ると疲れが出て来たのか、少し顔色が悪くなってきた。和希は授業が終わるのをじりじりと焦がれる様な思いで待った。そして、チャイムが鳴った瞬間、勢い良く立ち上がった。
「あっ、遠藤君、手伝ってくれるの? 有難う。助かるよ」
「えっ!?」
 和希はポカンと海野を見つめた。
 抱え切れないほどの本や模型を持って来た海野は、誰か生物準備室まで運ぶの手伝ってくれないかな、と言ったところだった。啓太のことで頭が一杯だった和希は、勿論、そんな言葉は全く耳に入ってなかった。
「じゃあ、これとこれ。お願いね」
 海野は大きな模型を二つ和希に手渡した。困り顔の和希に、啓太は仕方ないだろうと言う様に肩を竦めた。和希はごめんと瞳で謝ると、海野と一緒に教室を出て行った。
「ふう……」
 大きく息を吐いて啓太は机の上に突っ伏した。
 ただ座っているだけでも、案外、疲れるものだった。しかも、大勢の人に囲まれていると気も休まらない。心身、共に弱っている今の啓太にはそれが酷く堪えた。
(……やっぱり和希の言う通り、もう少し大人しくしてた方が良かったかな)
 頭の片隅でぼんやりそんなことを考えていると、横から耳当たりの良い低い声が聞こえた。
「啓太」
「……!?」
 啓太は静かに顔を上げた。

 生物準備室に模型を届けると、和希は全速で教室に駆け戻った。人の集団は意外と体力を消耗する。ましてや、誰からも好かれる啓太は多くの人を引きつけてしまう。健康なときならいざ知らず、今の状態ではきついだろう。だから、一刻も早く啓太を誰の目にも触れない静かな場所で休ませてやりたかった……が、教室のドアを開けると、そこに啓太の姿はなかった。
「おっ、遠藤、早かったな」
 教室を出ようとした藤田が声を掛けた。和希は通り過ぎるその腕をガシッと掴んだ。
「啓太は? 啓太がどこに行ったか知らないか?」
「あ~、伊藤なら、先刻、副会長さんにどこかに連れて行かれたな」
「中嶋さんに?」
 和希の脳裏を朝の中嶋の言葉が過ぎる。
『……なら、啓太は俺が貰う……』
(まさか……!)
 思うより先に身体が動いていた。和希は生徒会室へ向かって走り出した。そこに啓太がいるという確証はない。ただの勘だった。しかし……
「啓太っ!!」
 バンッと乱暴にドアを開け、和希は生徒会室に踏み込んだ。ソファーに座っていた啓太は驚いてビクッと飛び上がった。
「か、和希!?」
「……啓太?」
「どうしたんだ、そんなに慌てて?」
 啓太は小さく首を傾げた。その無邪気な仕草に和希は急に脱力した。ふらふらと啓太の元へ行くと、隣にポスンと腰を下ろした。
「啓太が急にいなくなるからだろう? 全く……心配したんだからな」
「心配って……中嶋さんから聞いただろう、俺がここにいるって」
 いや、聞いてない。和希がそう言おうとすると、それより早く中嶋が口を開いた。
「どうやら遠藤は度忘れしたらしい。お前の復帰初日で、色々と気疲れしたのかもしれないな」
「そっか……ごめん、和希、俺のせいで……」
 しゅんと啓太は項垂れた。和希は慌てて啓太の顔を覗き込んだ。
「違うよ。啓太のせいであるはずないだろう? だから、顔を上げて。ねっ、啓太?」
 うん……と啓太は頷いた。
 和希は優しく微笑んだ。中嶋に巧く嵌められてしまったが、今は啓太の気持ちを浮上させることの方が大切だった。さり気なく話題を替える。
「それで、どうして啓太はここに来たんだ?」
「あ……うん、教室じゃあ落ち着かないだろうって中嶋さんが……」
「お前は黙っていても目立つからな」
「目立つって……それは中嶋さん達が傍にいるからですよ」
「そうか?」
 中嶋が眼鏡をすっと押し上げた。
 確かに丹羽や中嶋、西園寺達や成瀬には華があった。そこにいるだけで注目の的となる。しかし、啓太はそういう彼らを無意識に自分の周囲へ惹き寄せていた。それがどれほど凄いことか、気づいてないのは啓太だけだった。
「遠藤、こいつをあんな処に一人で放っておくな。衆目を浴びる辛さはお前も良くわかっているはずだ。でないと、今度は本当に……」
 中嶋がクイッと啓太の顎をすくった。キョトンとしている啓太の口唇を中嶋の親指が掠める。
「俺が貰うぞ」
「中嶋さんっ!!」
 慌てて和希は中嶋の手を払った。啓太は一瞬、その言葉が理解出来なかった……が、やがてカ~ッと耳まで赤くなった。
「な、中嶋さん!」
「キスの方が良かったか、啓太?」
「そんな訳……!」
「だが、して欲しいのだろう。物欲しそうな瞳だ」
「……!」
「まあ、それは遠藤にでも巧く強請れ。時間は充分にある。今日はもう誰もここへは来ないからな。ゆっくりしていけば良い」
 中嶋は意味ありげに口の端を上げた。今度は直ぐに言外の意味を悟った啓太は更に真っ赤になると、急いで和希の傍から離れた。それを見た中嶋は喉で低く笑いながら、悠々と生徒会室から出て行った。
 暫く気まずい沈黙が流れた。不意に和希がポツリと呟く。
「ごめん、啓太……一人にして」
「別に和希のせいじゃないだろう?」
「……そうだな」
「和希……?」
 すっと啓太は手を伸ばした。しかし、和希はそれをかわして立ち上がった。
「何だか朝から様子が変だよ、和希?」
「……」
 和希は無言で目を逸らした。もしかして、と啓太は小さく囁いた。
「俺が怖くなった? 俺のせいで、死にそうになったから……」
「違うよ、啓太……そんなことはない」
「正直に言っても良いよ、和希……覚悟はしてるから。俺、サーバー棟で先生達が話してるのを聞いたんだ。皆、俺が眠ってると思ってたから、和希が俺の耳に入れない様にしてたことも色々喋ってた。本当は危なかったんだろう、和希? 皆、四日で快復するとは思わなかったって驚いてた。そんな目に遭えば、誰だって怖くなるのは当然だよ。だから、俺、和希の心の整理がつくまで待つよ。でも、ごめん……和希からは離れられない。俺は和希に酷いことしたってわかってるけど、それだけは出来ない」
「違う! 啓太は誤解している!」
 堪らず、和希は声を荒げた。本当に責められるべきは自分だから……
「啓太は一つ大きな勘違いをしている。ずっと言おうと思っていた。俺が啓太に惹かれたのはウィルスとは関係ない。俺は、あの木の下で初めて啓太と逢った瞬間から啓太が好きだった。あのとき、啓太はまだ感染していなかっただろう。俺のこの想いは、啓太自身が植えつけたものなんだ。だから、啓太がそれに対して負い目を感じる必要は全くない。俺は今でも啓太が好きだ。でも、俺は……もう啓太には触れない」
「……」
 その言葉に、啓太は辛そうに俯いた。やっぱり和希は俺が怖いんだ……と胸が苦しくなる。
「……啓太はまだ誤解しているね」
 和希が少し大人びた顔で言った。
「啓太、宿主は個としての存在が不安定なんだ。右と左、相反する二つのプロテイン構造を併せ持っているからね。それを統合しているのは啓太の意思だ。善しにしろ悪しにしろ啓太の心が大きく動くと、その均衡を崩しかねない。しかも、啓太はまだ成長期だろう。精神的にも肉体的にも今は微妙な時期だ。そこに俺の想いまで押しつけて、これ以上、啓太に負担を掛ける訳にはいかないんだ」
 すると、啓太は小さな声で呟いた。
「……それはないよ」
「えっ!?」
「少なくとも和希の想いが俺の負担になることは絶対にない!」
 啓太は真っ直ぐ和希を見つめた。
「啓太……それでも、俺は……」
「なら、このまま、和希は俺に触らないつもりなのか!? ずっと俺を避けて……そんなのは嫌だ! 好きな人に触れることも、触れられることも出来ないなんて!」
 興奮した啓太が勢い良く立ち上がった。淡い光が全身を包み、輪郭が揺らぐ。啓太っ、と和希は慌てて叫んだ。
「だったら、俺はどうしたら良い? 俺は、和希に触れたい! 触れて、キスをして……それから……それ、から……!」
「落ち着いて、啓太! そんなに感情を昂らせては駄目だ!」
 和希は啓太を宥めようと、思わず、その細い身体を抱き締めた。啓太の瞳からポロポロと涙が零れた。
「……駄目だよ、和希……そんなのは堪えられない……好きなんだ、和希が……」
「俺も啓太が好きだよ。だからこそ、啓太を失うのが怖いんだ。このまま、俺が自分の欲望を押しつけていたら、いつか啓太は壊れてしまうかもしれない。そんなことは堪えられない! なら、俺の傍にいてくれるだけで良い! それ以上、俺は何も望まない! そう決めたんだ!」
「……」
「好きだよ、啓太……心から愛している。だから、わかって欲しい。こういう愛し方もあるということを……」
 しかし、啓太は首を横に振った。
「俺にはわからないよ、和希……好きな人に触れたいと思うのは自然なことだろう? 和希は自分の欲望を押しつけてって言うけど、それは俺も同じだよ。そうでなければ、男に抱かれたりなんかしない! 和希が好きだから、俺も和希が欲しいって思うから……だから、抱かれるんだ! あんなに何度も俺を抱いたのに、そんなこともわからないのか、和希!」
「……っ……!」
 和希の頭に今まで隅へ追いやっていた記憶が浮かび上がってきた。ベッドの上で白い身体を惜しみなく開く啓太の瞳が情欲に濡れ、それが幾度となく和希の男を煽った。互いに求め、求められて高みへと昇ってゆく。その行為は決して一方通行の欲望の押しつけではなかった。
 啓太は泣いて怒りながら、更に言葉を続けた。
「和希は勝手だよ。勝手に考えて、勝手に納得して、勝手に離れてくんだ。俺のことなんか少しも考えてくれない。もっとちゃんと俺を見てよ! 俺は、もう初めて逢ったときの様な子供じゃない! 護られるばかりの存在じゃないんだ! 自分のことは、自分で考えられるんだよ!」
「……啓太」
 和希は小さく呟いた。そっと頬に手を伸ばし、涙で潤む蒼穹の瞳を覗き込む。そこには、もうかつての様な幼さはなかった。ああ、そうか……と和希は思った。
(昔とあまりに変わらなかったから気づかなかった。いつの間にか、啓太はこんなにも大人になっていたんだな……)
 覚悟を決めて改めて啓太に尋ねる。
「良いのか? 今度こそ、本当に後戻りは出来ない」
 うん、と啓太は大きく頷いた。
「後戻り出来ないのは和希だって同じだろう。それに、俺……」
「啓太?」
「和希……俺、まだ和希に言ってないことがある」
 啓太は和希から少し離れて深く息を吸った。動揺する心を必死に抑える。これだけは、きちんと言わないと。俺は和希に酷いことをしたんだから……
「和希……覚醒するとき、宿主は路を示すんだ……自分が望む路を。宿主の力は、それを受けて初めて発現する……」
「……?」
 和希は密かに首を捻った。
 話が噛み合わなかった。宿主は覚醒後に力を得るなら、和希が惹かれたのはウィルスの影響ではないと啓太は初めから知っていたことになる。なら、酷いをことしたとはどういう意味だろう? 感染させてしまったことを言っているのだろうか……?
 和希が続きを待っていると、啓太の瞳が不安げに揺れた。
「そのとき、俺……和希に……酷いことをした」
「……何をしたんだ、啓太?」
 ゆっくりと慎重に和希は尋ねた。すると、良心の呵責に堪えられなくなった啓太は息もつかずに一気に説明しようとした。
「こんなことになるとは思わなかったんだ! 俺は、ただ和希と一緒にいたかった! 和希と離れたくなかっただけなんだ! 本当に、それだけだったっ!! な、のにっ……!」
 啓太が苦しそうに胸を押さえた。ぼんやり身体を覆っていた光が急に強くなり、その中に啓太の姿が溶けてゆく……
「啓太っ!!」
 慌てて和希は啓太の身体を抱き寄せた。啓太は、まるで篝火の様に温かかった。
「そんなに感情的になっては駄目だ! 先刻も言っただろう。言うのが辛いなら、無理に話さなくても良い。俺は何も訊かないから!」
「……で、も……」
「俺は、啓太さえ傍にいてくれるなら良いんだ。啓太は俺と一緒にいたかったんだろう。なら、それは啓太が思っているほど酷くはない。俺達は同じことを望んでいるんだ。だから、そんなに自分を責めなくても良いんだ、啓太」
「……うん……」
 啓太は静かに和希を見上げた。
 そこには今までと全く変わらない和希の優しい眼差しがあった。この深い海の様な瞳に見守られていれば、今はない勇気を持って、いつかそれを話せる日が来るだろう。そのとき、和希はまた同じことを言ってくれるだろうか……
(大丈夫……和希なら、きっと……)
 ふわりと花が綻ぶ様な微笑が啓太に浮かんだ。
「……!」
 その美しさに、思わず、和希は息を呑んだ。
 いつも啓太は和希を魅了してやまないが、今の表情はまさに格別だった。満たされた心から歓びが溢れ、和希といるときのみ纏う朧な艶を内から滲み出る光が縁取っている。呆然と和希が見惚れていると、啓太は小難しい問題を考えている様な色彩(いろ)を瞳に浮かべて恥ずかしそうに顔を逸らした。それを目にした途端、和希の中に啓太をすぐさま自分のものにしたいという抑え難い欲求が込み上げてきた。
 和希は啓太の耳元で甘く囁いた。
「啓太、サーバー棟へ行こうか? 今直ぐ啓太を抱きたい」
「……!」
 一気に啓太の頬が紅潮した。何と答えて良いかわからず、パクパクと口を動かす。啓太は落ち着くどころか、益々動揺してしまった。
 和希がクスッと笑った。
「でも、この状態では当分、ここから出られないか。さすがに目立ち過ぎるからな」
 しかし、和希が離れようとすると、啓太は両手で和希の胸元をキュッと掴んだ。縋る様な瞳で和希を見つめる……
 次の瞬間、二つの口唇が重なった。
 それは一ヶ月前、理事長室で初めて交わしたときよりも熱く、十日前、優しく触れ合ったときよりも激しく、これまで存在したどの恋人達よりも強い想いが籠もっていた。啓太は和希の首に両腕を回し、きつくしがみついた。腰を抱く和希の手にも力が入る。愛している。今、世界には互いの名前とその言葉しか存在しなかった。
 目眩(めくるめ)く陶酔の中、いつまでも解かれることのない口づけ。そして、二人の新たな時間が流れ始めた。


2008.3.28
最後までヘタレな和希でした。
それに引き換え、啓太は積極的です。
まあ、これで巧くバランスが取れるでしょう。
ちなみに、啓太が言えなかったことは続編で明らかになります。
タイトルは……まだ秘密です。

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Café Grace
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