「違うよ、啓太、今日は向こう」
 サーバー棟のエレベーターを降りて、いつもの様に理事長室へ行こうとした啓太は和希に腕を掴まれた。時刻は既に午後十一時を過ぎている。二人は篠宮の夜の点呼を受けた後、揃ってこっそり寮を抜け出した。しかし、啓太は和希に言われるままについて来たので、深夜のサーバー棟に何の用があるのか全くわからなかった。
 非常灯しか点いていない廊下は水を打った様に静まり返っていた。そこを和希は慣れた足取りで啓太の手を取り、進んでゆく。コツ、コツ、コツ……足音が異様に大きく響いた。一体、どこへ連れて行く気だろう。啓太はチラッと和希を窺ったが、斜め後ろのこの位置からでは顔が良く見えなかった。やがて和希はあるドアの前で立ち止まった。
「着いたよ」
 優しく微笑むと、和希はそっとドアを押し開いた。
 薄暗いその部屋は正面の壁が上から下まで硝子張りになっていた。理事長室のある側を表とすると、ここは裏に当たり、眼下に海を一望出来る。わあ、と啓太は感嘆の声を上げた。
「座って」
 和希に促されて、啓太は外を眺める様に鎮座している大きな革張りのソファーに腰を下ろした。和希は壁際に置かれた小さなワゴンへ向かい、ワイン・クーラーから充分に冷えたボトルを取り出した。
「気に入った?」
「うん、凄く良い眺めだな」
「だろう? ここは人工物が一切なくて絶好の月見ポイントなんだ」
「月見? まさかそのために来たのか、和希?」
「そうだよ。今日は十五夜だろう」
 ポンッと和希はコルク栓を抜いた。二つの大きなワイン・グラスに半分ほど注ぐと、一つを啓太へと差し出す。
「月見酒とはいかないけれど、はい、これ」
「何、これ? ワイン?」
「ああ、私的に醸造しているワインなんだ」
 和希は啓太の横に腰掛けた。そして、啓太の瞳をじっと見つめ、すっとグラスを上げた。
「乾杯、今夜の月に」
「うん……乾杯」
 啓太も同じ様にグラスを掲げた。今までワインを飲んだことがない訳ではなかったが、正直な感想を言えば、赤は渋くて白は辛かった。
(でも……折角、和希が用意してくれたんだし……)
 意を決して、啓太はグラスに口をつけた。不安そうに和希が言った。
「どう、啓太?」
「……美味しい」
 啓太は呟いた。
「これ、本当に美味しいよ、和希!」
「良かった」
 和希は、ほっと安堵の色彩(いろ)を浮かべた。またグラスにワインを注ぐ。啓太はそれを嬉しそうに見つめた。
「……和希、これ白だよな。でも、何か濁ってないか?」
「これはそういうワインなんだ。濁り酒ならぬ、濁りワインってところかな。でも、甘くて口当たりも滑らかだから飲み易いだろう?」
「うん、俺、これなら飲めるかも」
「なら、これで月見が出来るな」
「でも、ここからじゃ良く見えないよ、和希」
 啓太は屈む様に身を乗り出した。すると、和希は下を指して言った。
「見えているよ、ほら」
「……?」
 その先を目で辿ると、静かに凪いだ海面が、まるで鏡の様に上空の月を映し出していた。
「本当だ」
「啓太、本来の月見は水面に映る月を眺めるんだ。池や湖ならもっと良いけれど、ここでも充分に楽しめるだろう? 内海で波も穏やかだし」
「それに景色も良いしな」
 ああ、と和希は頷いた。
 二人はどちらからともなく寄り添った。暫くワインを飲みながら、月を楽しむ。啓太が、綺麗だな、と嘆息した。和希は隣にいる恋人にそっと目をやった。蒼白い光に照らされている啓太は少し酔って頬がほんのり上気し、半睡する様な眼差しでうっとりしていた。微かに開いた口唇がワインに濡れて艶めかしい芳香を放っている。ああ、本当に綺麗だ……
「和希……?」
 ふと視線を感じ、啓太は和希を見上げた。その瞬間、口唇を奪われた。
「……っ……」
「啓太……」
「……和、希……」
 啓太の芯を甘い痺れが駆け抜け、ワイン・グラスが揺れた。それを感じた和希は啓太の手からグラスを抜き取ると、自分のと一緒に床へ置いた。そして、更に深く口づけた。
「んっ……!」
 首筋に触れた和希の指に啓太が反応した。思わず、恋人の胸にしがみつく。和希は掌を項へと滑らし、啓太の身体を優しくソファーに押し倒した。名残惜しそうに口唇が離れてゆく……
「啓太……少し遠いけれど、仮眠室へ行く?」
 和希は啓太の瞳を覗き込んだ、その官能的な誘いに啓太が抗えないと知りながら。啓太は視線を逸らした……が、すぐさま和希の首に腕を回すと、グッと自分の元へ引き寄せた。
「良いよ、どこでも……」
「わかった」
 恥ずかしがり屋の恋人の、精一杯の所作に和希は密かに微笑を浮かべた。
「愛しているよ、啓太」
「俺も……愛してるよ、和希」
 二人の夜は、まだ始まったばかり……



2007.9.14
季節ネタですが、
全く月見をしていない二人です。
単に啓太が和希にソファーに押し倒される状況を
書きたかっただけだったりして……

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Café Grace
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