「……っ……!」
 啓太は生徒会室に駆け込むなり、鍵を閉めてノブを両手で押さえつけた。直後、丹羽が激しくドアを叩く。
「おい、啓太! 開けろよ! 中に入れねえだろう!」
「い、いつもいないんですから、今日も入らないで下さい!」
「お前が迎えに来たんだろうが!」
「王様がそんな人だとは思いませんでしたっ!!」
「何、言ってんだよ! あれくらい、どうってこと――……」
「ど、ど、どうでも良くありませんっっっ……!!!」
 悲鳴にも似た叫び声が上がった。和希が奥の資料保管室から飛び出して来た。
「啓太っ!!」
「か、和希……」
 その声で気が抜けたのか、啓太はへなへなと床にしゃがみ込んだ。今まで堪えていた涙が一気にポロポロと零れ出す。和希は心の動揺を抑え、取り敢えず、怯えた子供の様な啓太をソファーに座らせた。
「どうしたんだ、啓太?」
「……」
 啓太は緩く首を横に振った。
「でも、言わなければ何もわからないだろう?」
「……言い……たく、ない……」
「啓太……こんなに震えて……」
 和希はジャケットにしがみつく啓太の背中をあやす様に撫で擦った。好からぬ妄想がモヤモヤと浮かんでは消えてゆく。一体、何があったんだ、啓太……
 早くも和希の理性は崩壊寸前にまで追い詰められていた。
「中嶋さん、鍵を開けて下さい。直接、王様に話を聞きます」
 その顔は既に遠藤和希のものではなかった。事態を傍観していた中嶋は、面白いことになったと思いながら、ドアへ向かった。
「はあ、全く……参ったぜ」
 中に入ると、丹羽はガシガシと頭を掻いた。和希の厳しい声が飛ぶ。
「王様! 一体、啓太に何をしたんですか!」
「ああ、別に大したことじゃねえよ。ただ、啓太に――……」
「……!」
 ビクッと啓太が震えた。和希は丹羽を鋭い視線で制し、小声で啓太に話し掛けた。
「啓太、もう大丈夫だから。俺がついている」
「和希……」
 啓太は恐る恐る顔を上げた。余程、衝撃(ショック)だったのか、まだ酷く蒼ざめている。涙で潤んだ目元が少し赤くなっていた。和希は啓太の額に軽く口づけ、優しく瞳で促した。言ってご覧、啓太……
「……」
 かず兄の仕草に啓太の頑なだった心も漸く解れ出した。クスンとしゃくり上げると、啓太は途切れ途切れに小声で呟いた。
「……王様が……俺に、触ったんだ……」
「何だってっっっ……!!!」
 一瞬にして激昂した和希が叫んだ。
「啓太、紛らわしいこと言うんじゃねえ! 俺は、ただ――……」
「わ~、王様っ!! もう思い出させないで下さいっ!! 折角、忘れようとしてたのにっ!!」
 啓太は、さっと耳を塞いだ。すかさず中嶋が揶揄した。
「お前にそんな度胸があるとはな、哲ちゃん」
「ち、違うっ!!」
 丹羽は顔を真っ赤にしながら、大きく腕を振った。その手に和希の視線が釘づけになる。
(あの芋虫の様な指が、俺の啓太に……俺の、啓太に……俺の、啓太にっ!!)
 パリンッ、と硝子の割れる様な音を立てて終に和希の理性が砕け散った。凄まじい目つきで丹羽を睨みつける。
「丹羽君、君は啓太をセクハラしたのか!」
「はあ? セクハラって何のことだよ? 俺は、ただ――……」
「……っ!!」
 啓太が声にならない悲鳴を上げた。
 和希は素早く啓太を引き寄せると、強く身体を抱き締めた。極まった激情が一気に反転し、急速に和希の温度を奪ってゆく。瞳の奥が仄暗く揺らめいた。
「今更、言い訳か。案外、君も見苦しいな。その芋虫の様な指で私の啓太に触れておき――……」
「おい、ちょっと待て! 芋虫とは聞き捨てならねえ! この手のどこがそう見える!」
 丹羽は左の掌を大きく広げて見せた。ふっ、と和希が鼻で笑う。
「ならば、蝶とでも言うつもりか?」
「てめえ……!」
 怒りで丹羽の拳がぶるぶると震えた。中嶋は壁に寄り掛かって煙草に火を点けた。
(遠藤は本気だな。丹羽はまだ辛うじて理性が残っているが、それもいつまで持つか……)
「啓太の繊細で滑らかな肌にそのがさつな手が触れたのかと思うと、私でさえ虫唾が走る。啓太が衝撃(ショック)を受けるのも当然だ」
「よく言うぜ! なら、てめえはどうなんだ! 綺麗ごとで済ませられるほど世界は甘くねえってことぐらい、俺にだってわかる! これまで、その手を汚したこともあるんじゃねえのか! ええ、理事長さんよ!」
「否定はしない。だが、私は許されているからね、ほら……」
 和希は啓太のシャツの下へ手を滑らせた。すっと脇腹を撫で上げる。啓太がピクッと反応し、顎を反らせると、その無防備な首筋に深く顔を沈めた。つつつっと口唇を這わせゆくに従い、啓太の吐息が湿り気を帯びてゆく……
「ちっ、てめえは手だけじゃなく、腹ん中まで真っ黒だぜ!」
 丹羽が吐き捨てる様に言った。
「……何とでも。啓太は私の総てだ。悪い虫を近づけないためなら、何だってする」
 和希は啓太のネクタイを緩め、ボタンに手を掛けた。そのとき――……
「あ~、もう! 固有名詞を出すなよ、和希!」
 突然、啓太が乱暴に和希を突き放した。大きな瞳が怒りに爛々と燃えている。啓太は和希の胸元を鷲掴みにすると、キッと睨みつけた。
「俺は、さわさわしたあの足が大っ嫌いなんだっ!! ああ、思い出すだけでもぞっとする! だから、そういう奴は全部、ジョン! それから……」
 ビシッと丹羽を指差した。
「モキュモキュしたのはスティーヴン! わかった、和希!?」
「あ、ああ」
 啓太の思わぬ剣幕に、和希はコクコクと頷いた。
「王様も! 返事は!?」
「わ、わかった」
「なら、宜しい」
 啓太は満足そうに微笑むと、再び和希にひしっと抱きついた。和希と丹羽は喧嘩の最中だったことも忘れて互いに顔を見合わせた。ジョン? スティーヴン?
 二人には全く意味がわからなかった。興醒めした中嶋が、はあ、とため息をついた。
「啓太……お前、虫が苦手なのか?」
「な、中嶋さん! 固有名詞を出さないで下さい!」
「固有名詞は出していない。それを言うなら普通名詞だろう」
「どっちも一緒です!」
「そうだ。ジョンやスティーヴンと呼び名を変えても、元は同じだ。その程度のことで一々喚くな」
 中嶋は細く煙を吐き出した。啓太の顔が一気に紅潮した。
「同じじゃありません! 言葉の響きが違います! ジョンやスティーヴンの方が綺麗な金髪の人の様な気がするじゃないですか!」
「ほう? 啓太がそこまで男好きだったとは知らなかったな」
「違います!」
「だが、全部、男の名前だろう? なぜ、女にしない?」
「だって、女は増えるじゃないですか! 一匹が千匹に、千匹が百万匹にも増えるんですよ! そんなの恐ろし過ぎますっ!! 先刻だって、学食で王様がジョンを殺して……勿論、素手じゃないですけど、その手も洗わずに俺に触ったんですよ! 俺、もう頭の中が真っ白になって……どうして良いか……わからなくなって……」
 蒼い瞳から再びポロポロと涙が溢れ出した。
 啓太は自分が怒っているのか、泣いているのか、それすらわからなくなってしまった。混乱した眼差しが救いを求めて辺りを彷徨う。そんな啓太を見ていられなくなった和希は、ただもう無我夢中でその細い身体をかき抱いた。
「啓太! なぜ、もっと早く言わなかったんだ! そうすれば、俺が学園島に巣食うジョンやスティーヴンを一匹残らず始末してやったのに!」
「本当、和希?」
「ああ! お前を怖がらせるものは、この世界に必要ない!」
 和希はポケットからさっと携帯電話を取り出すと、素早く石塚を呼び出した。
「石塚! 大至急、害虫駆除業者に学園島を一斉消毒させろ! 棟の内外、教室から植え込みに至るまで総てだ! 特に厨房周辺は念入りに……何なら取り壊しても構わない! 直ぐリフォーム業者を手配しろ! それから、篠宮君に寮の各個室を総点検するよう通達を出せ! 清掃の行き届いていない者、不衛生な者を明朝までにリスト・アップ! 全員、無期限の停学処分にする!」
「げっ、マジかよ」
 丹羽が呟いた。和希はパチンと携帯電話を閉じた。
「聞いただろう、啓太? 明日中にはジョンもスティーヴンも学園島から抹殺される。もう大丈夫だ」
「有難う、和希!」
 啓太は和希の首にしがみついた。輝く笑顔と鈴の様な笑い声が生徒会室に響き渡る。和希はそんな恋人を年相応の大人びた微笑を浮かべて、いつまでも嬉しそうに抱き締めていた。
「……丹羽」
 中嶋が低い声で囁いた。
「また余計な仕事を増やしたな」
「あ~、これは俺のせいじゃねえ……と思う」
「いや、お前のせいだ。覚悟は出来ているな、哲ちゃん?」
「おっ、そろそろ警備の時間だ! 悪いな、中嶋!」
 脱兎の如く丹羽は生徒会室から逃げ出した。

 その後、寮の至る処で篠宮指導の下、部屋の掃除に励む者が多数、見受けられた。そこには丹羽の姿も混じっていたという……



2007.10.19
理事長モードの和希が少し黒いですが、
ただのお馬鹿なカップルです。
さて、『ジョン』とは何か。
賢明な方はもう察しがついていることと思います……

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Café Grace
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