「和希、太いマジックある?」
 土曜日の午後、買い物帰りに理事長室へ立ち寄った啓太は入口でコクンと首を傾げた。和希は仕事の手を止めて顔を上げた。
「マジックか? う~ん、ここにはないけれど、石塚の処にならあるかもな。聞いてみるよ」
「有難う」
 啓太は大きな皮張りのソファーに座り、買ってきた白い厚紙を手で伸ばし始めた。和希はそれを横目で捉えながら、秘書を呼び出した。手短に用件を告げると、暫くして、石塚が黒のマジックを持って現れた。
「これで宜しいですか、伊藤君?」
「あっ、有難うございます、石塚さん」
 笑顔で礼を言う啓太に、石塚は柔らかく微笑んだ。和希は啓太を手招きして言った。
「啓太、何か書くなら、ここを使いなよ」
「えっ!? でも、まだ仕事中だろう? 邪魔したら悪いし……」
「大丈夫だよ。今日の分はもう殆ど終わったから。そうだろう、石塚?」
「はい、ですから遠慮なさらずに……どうぞ、伊藤君」
「そう、ですか……じゃあ……」
 石塚に促されて、啓太は和希の立派な机に向かった。和希は素早く書類を片づけ、椅子を明け渡した。
 啓太はそこに浅く腰を下ろすと、持っていた紙をそっと置いた。しかし、手を離した途端、両端がクルクルと丸まってゆく。わわっと慌てふためく啓太を見て、和希は重そうなペン立てでそれを押さえてやった。
「何を書くんだ、啓太?」
「えっ!? 明日の準備だよ」
「準備……?」
 和希は言葉を繰り返した。
「ほら、一昨日、言っただろう? 明日は地元の友達と約束があるって」
「ああ、それは覚えているけれど、それとこれがどう関係するんだ?」
「そいつ、ボランティア部に入ってるんだけど、明日、何校かで一斉にフリー・ハグやるんだって。俺、その応援を頼まれたんだ」
 そう言うと、啓太は大きく文字を書き始めた。

FREE HUGS


「フリー・ハグ……」
 背筋に嫌な予感が走った和希は、そっと石塚を見やった。すると、秘書はコホンと一つ咳払いをした。
「フリー・ハグ。三年ほど前にオーストラリアのシドニーで発生しました。街頭で見知らぬ人と抱擁し合い、少しでも互いの心を癒し、喜びを分かち合っていこうという活動です。現在では世界的な広がりを見せていますが、日本では抱擁する習慣がないので、まだあまり浸透してはいません」
「凄いですね、石塚さん! 俺なんて友達から聞くまで知りませんでした」
「単なる雑学です」
 石塚は小さく頭を下げた。
「それをやるのか……啓太が?」
「うん、これ持って立つんだ。でも、石塚さんも言った様に、まだ認知度が低くて近寄る人が少ないんだってさ。女の子はそうでもないらしいんだけど、やっぱり男はね。それで、俺に白羽の矢を立てたんだって」
「……」
 和希は無言で腕を組んだ。
 この愛らしくも無邪気な恋人は自分が他人にどれほど魅力的に映るのか、全く理解していなかった。その友人とやらも、啓太なら女の子の代わり……否、それ以上になると踏んで誘ったに違いない。見知らぬ男達が啓太の身体を撫で回す。あの細い肩に、腰に触れるのかと思うと、こと啓太に関しては猫の額より心の狭い和希には到底、我慢がならなかった……が、そこは大人たる者。そんな感情はおくびにも出さず、さり気ない口調で尋ねた。
「それはどこでやるんだ?」
「俺の担当はそこの駅前だよ。二人ほどこの近くに住んでるから、その人達と合流するんだ。皆、初対面だけど、向こうまで行くと帰りが遅くなるだろう? それに、初心者は知り合いのいる場所の方が良いって七条さんが――……」
「七条さん!? あの人に話したのか、啓太?」
 突然、話を遮った和希を啓太は驚いて見上げた。やがてコクンと頷く。
「あ……うん」
「他には誰に言ったんだ?」
「え~、王様と中嶋さん、成瀬さんと、それから……」
「……」
(何てことだ……)
 内心、和希は頭を抱えた。
 啓太は彼らのことを自分を可愛がってくれる良き先輩達と思っているが、それは和希の狭量な見方からすれば、明け透けの下心以外の何物でもなかった。啓太と、公に、堂々と『ハグ』出来る……こんな絶好の機会を彼らが逃すはずがない。和希の優秀な頭脳は凄まじい勢いで対応策を検討し始めた。
 そうとも知らず、啓太は暢気に和希を仰いだ。
「和希も一緒にやる?」
「いや、俺は後でゆっくり啓太に癒して貰うよ」
 和希は小さく口の端を上げた。直ぐにその意味を悟った啓太は耳まで真っ赤になり、プイッと顔を背けた。
「俺、もう帰る」
 視線を逸らしたまま、啓太は呟いた。和希が優しい声で言う。
「啓太」
「……何、和希?」
 呼ばれたので、仕方なく啓太は軽く振り返った。すると、和希は大きく両手を差し出した。
「明日の練習をしよう?」
「練習って……?」
「啓太は照れ屋だからな。明日、きちんと出来るか?」
「そのくらい俺だって……!」
「なら、練習」
「うっ……」
「ほら、啓太」
「う、ん……」
 巧く言い包められた気もしたが、啓太は素直に従った。恥ずかしそうに和希に近寄り、顔を見上げる。おずおずと両腕を和希の背中に回してキュッと力を入れると、途端に互いの熱が伝わって心がほんのり温かくなった気がした。身体を離して、ほうっと息をつく……
「有難う、啓太……なら、今度は俺から」
 和希は素早く啓太の細腰を抱き寄せた。
「えっ!?」
 反射的に身を反らした啓太の首筋に顔を埋めて口づける。啓太が驚いて微かな悲鳴を上げた。しかし、それ以上、抗うことはなかった。ふわりと……瞼を閉じる。その瞬間、和希は控えていた石塚に鋭い視線を放った。
(石塚! 明日、駅前周辺を完全封鎖だ! 何人たりとも、絶対に啓太に近寄らせるな!)
(わかりました)
 有能な秘書は上司の意図を瞳の色彩(いろ)から的確に読み取った。気配を消して無言で理事長室を辞しながら、石塚は密かにため息をついた。ああ、今夜は帰れそうもありません……
「……和希……」
 啓太が湿った声で和希を呼んだ。
「何、啓太?」
「……これ……何か……違、う……」
「そうか? 俺は凄く癒されるよ」
 和希は啓太の背筋を撫で上げると、耳元で楽しそうに囁いた。同時にネクタイをゆっくり緩めてゆく。襟元のボタンが一つ二つ外され、現れた白い肌を和希は指でなぞった。啓太は吐息の零れるままに天を仰いだ。
「啓太、俺は明日が心配だよ。変な奴に啓太がこんなことされやしないかって」
「……そんなこ、と……んっ……するの……はっ……和希だけ、だよ……」
「そうかな」
 すっと和希の口唇が胸元に潜り込んだ。
「あっ……!」
 啓太の足からカクッと力が抜けた。崩れそうになった身体を和希が両腕で優しく抱き留める。
「啓太……啓太は俺の恋人なんだから、こんなこと誰にも許したら駄目だよ」
「……当たり前だろう、和希……」
「でも、やはり心配だから……」
「……っ……!」
 ピリッとした痛みが首筋に走った。和希は啓太の鎖骨の上に小さな所有の印をつけた。何をしたんだ、と啓太は瞳で訴えた。
「おまじないだよ、啓太」
(今までこんな露骨にキス・マークをつけたことはなかったけれど、啓太があまりに無防備だから念のためにな。でも……ああ、やはり心配だ)
 もう少し目立つ位置につけようかと和希が考えていると、啓太が嬉しそうに言った。
「有難う、和希……明日は頑張るよ、俺」
「ああ」
 深いため息が零れそうになるのを堪え、和希はふわりと微笑んだ。この純真無垢な心も啓太の魅力の一つだから仕方がない。明日は持てる権力の総てを使い、この愛し子を狼どもの手から護らなければ。そう心に誓って和希はまた新しい口唇を啓太の上に降らせていった。


2007.12.7
フリー・ハグは原宿駅などで見掛けます。
女性はセクハラもどきの勘違いおじさんもいて、
結構、大変らしいです。

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Café Grace
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