「何か今日は元気がないね、啓太?」
 久しぶりに纏まった時間の取れた週末、和希は啓太を食事に誘って朝早くから車を東へ走らせていた。篠宮への外出届けは啓太に内緒で既に提出済み。それは所謂、デートというものだった。しかし、はっきりそう言うと啓太は恥ずかしがって行ってくれないので、和希は外食というオブラートに包み、不足分は自分の魅力で陥落させた。そうして漸く今日に漕ぎ着けたのだが、なぜか啓太は浮かない顔をしていた。
「えっ!? そんなことないよ」
 啓太は慌てて否定した。しかし、元々嘘の苦手な啓太に和希を誤魔化し通せる訳がなかった。話して、と和希が大人の顔を向けると、啓太はあっさり白状した。
「昨日、和希は夕食に間に合わなかっただろう? それで、俺、岩井さんと一緒に食べてたんだけど……和希はフェルメールって知ってる?」
 ああ、と和希は呟いた。チラッと時計を見る。この分なら間に合いそうだ……
「オランダを代表する画家の一人だよ。寡作な人で現存数は三十数点しかないけれど、彼の作品は『静謐な空間』と表現されるほど、完璧なまでの静けさと優しい光に満ちているな。俺もアムステルダムで見たときは感動したよ。特にあのフェルメール・ブルーは印象的だった」
「やっぱり……」
 啓太は小さくため息をついた。
「それがどうかしたのか?」
「昨日、岩井さんも同じことを言ってた。今、一点、来日してるから河本さんと見に行ったんだって。その話を聞いてる内に俺も何だか興味が湧いてきたんだけど、昨日でその展示は終わってしまったらしくて……そんなに凄い絵なら俺も一度くらいは見たかったなって思ったんだ。画集でも借りてこようかな」
「う~ん、どんなに精巧な画集でも所詮は印刷された複製画だからな。目が利く啓太には、多分、物足りないよ」
「目が利くって……俺、絵のことなんて何もわからないよ?」
「でも、岩井さんの絵は凄いってわかっただろう?」
「だって、あれは本当に凄いから。岩井さんほどの人が描いた絵なら、きっと誰でもそう思うよ」
 うん、と啓太は大きく頷いた。和希は優しく微笑みながら、目的の建物の地下駐車場へと車を滑り込ませる。
「そんなことはないよ。中には画家の名前や、取引される際の零の数でしかその価値を計れない人もいる。でも、啓太は岩井さんの絵を初めて見たとき、胸に迫るものを感じただろう? 以前と今とでは岩井さんの作風が違うのもわかる。それは真っ白な啓太の心が作品の持つ空気を素直に読み取っているからだよ」
「それなら、和希も一緒だろう? 先刻、感動したって言ってたし」
「俺は啓太とは違うよ。ただ教養の一環として身に付けさせられただけ。それに、人より少しばかり本物に多く接する環境だったからわかるだけだよ。多分、俺の感じていることは啓太と比べて酷く底が浅いと思うよ」
「そうかな」
 納得出来ない口振りで啓太は呟いた。車が静かに止まった。
「着いたよ、啓太」
「うん……」
 啓太は車を降りた。落ち着かなげに辺りを見回す。朝もまだ早いせいか、駐車場にあるのは和希の一台だけだった。
(食事に行こうとは誘われたけど、まさか朝食……?)
 密かに訝っていると、和希に呼ばれた。
「啓太」
「あ……うん」
 和希に促されて啓太はエレベーターに乗った。一階で降りると、そこには初老の男が立っていた。
「鈴菱様、お待ちしておりました」
「いえ、こちらこそ急に無理なお願いをして申し訳ありません」
 和希は小さく頭を下げた。啓太も訳がわからないまま、同じ様にお辞儀をした。それを見た男は柔らかく微笑んだが、あまり時間もありませんので、と直ぐに二人を先導して歩き始めた。何をそんなに急いでいるのか。啓太は疑問符で頭を一杯にしながら、和希と一緒に黙ってその後に続いた。
 やがて三人は黒い頑丈そうな扉の前で止まった。初老の男が電子キーのボタンを何個も押すと、カチッという音がして鍵が外れた。彼は二人に軽く会釈をして、その場を去って行った。
「開けてみて、啓太」
 まるでプレゼントでも渡す様に和希が言った。啓太は素直に頷いて扉を押し開いた。
「あっ……!」
 室内の様子が見えた瞬間、啓太は小さな歓声を上げた。そこには沢山の絵が掛けられていた。和希に訊くまでもない。美術館。でも、まさか……
「ここって、もしかして……?」
「見たかったんだろう、フェルメール?」
 和希の瞳が悪戯っぽく光った。
「でも、昨日で終わったはずじゃ……」
「一般公開はね。今日は絵が帰国するための梱包作業をするんだ。それが始まると、本当にもう見ることは出来ない。だから、その前に館長に頼んで少しだけ時間を割いて貰ったんだ」
 えっ、と啓太は目を瞠った。
「じゃあ、今の人はここの館長さん?」
「そうだよ」
「俺、何のお礼も言わなかった……」
「帰りにまた会えるよ。俺もお礼を言いたいから」
 和希は扉を閉めると、啓太を伴って歩き出した。
 そこはオランダの風俗を主題に油彩画や水彩画が展示されていた。二人は暫く無言でそれを興味深そうに眺めていたが、不意に啓太はあることを思い出した。
「そういえば、どうして和希は俺がフェルメールを見たいってわかったんだ? 先刻、話したばかりなのに?」
 昨日、和希が帰って来たのは点呼の直前だった。ノックの音に篠宮と思ってドアを開けたら和希がいたので、それは確かだった。和希がフェルメールのことを知っているはずがない。
「実は……岩井さんから聞いた」
 和希は気まずそうに頬を掻いた。
「えっ!?」
「夕食の時間が終わる頃、俺が寮に帰って来たら、食堂で啓太が岩井さんと話しているのが見えたんだ。でも、表情が沈んでいたから、啓太が部屋に戻った後、岩井さんに何を話していたのか訊きに行ったんだよ」
「それで、態々? 和希……お前、俺に――……」
 甘過ぎだよ、と言い掛けてハッと啓太は息を呑んだ。目が一つの油彩画に釘づけになる。自然と足が止まった。
 それは他とは明らかに一線を画していた。恰幅の良いメイドが部屋の一角で牛乳を注いでいる。ただそれだけなのに、静寂がその場を支配しているかの様な感があった。


「和希……これ……」
「そう。これが啓太の見たがっていたフェルメールの『牛乳を注ぐ女』だよ」
「これが……!」
「どう、感想は?」
 和希の問い掛けに、少し間を置いて、啓太は小さな声で答えた。
「お母さんみたいだ……」
「お母さん、か。確かにそうだな」
 その感想は伝統的図像や図像解釈学に沿っていた。それによるとパンは神体を、牛乳は豊かさを、青と赤を組み合わせた服装は聖母マリアを表している。評論家の中には、この絵を天から与えられる日々の恵みと読み解く者もいた。平穏な日常風景の中に、神への崇敬の念が籠められているのかもしれない……
「ある意味、これは宗教画なのかもな」
「宗教画?」
 啓太は首を傾げた。和希は絵に籠められていると思われる幾つかの意味を説明した。啓太は、へえ~、としきりに感心して聞いていた……が、神という解釈には異論を唱えた。
「俺は、神様から与えられるっていうのはちょっと違う気がする。和希はどう思う?」
「さあ、俺には良くわからないな。先刻、車の中でも言った様に俺の感じ方は浅いからな。啓太はどう思うんだ?」
「う~ん、巧く説明出来ないけど……この人、メイドだろう? なら、このメイドには主人がいるよな。その人の毎日を豊かにしてるのは神様じゃなく、食事の支度とかするこのメイドだと思うんだ。つまり、上から与えられるんじゃなくて、こういう普通の生活をしてる人が支えてる。フェルメールはそんな一生懸命、働く姿が神々しく見えたんじゃないかな。俺の言いたいこと、わかる?」
「ああ……良くわかるよ、啓太」
 和希は呟いた。
 鈴菱の次期当主として上から世界を見ていると、総てを自分が与えている様な錯覚に陥るときがあった。しかし、いつの世も社会を担っているのは、こうした真摯に生きる人々……そんなあまりにも当然で、だからこそ、つい忘れそうになってしまう理を和希はこの小さな絵と啓太から改めて教えられた。
(やはり啓太には敵わないな)
 和希は啓太を引き寄せ、キュッと抱き締めた。
「か、和希……!」
 啓太は驚いて声を上げた。他には誰もいないとわかっていても、やはり公共の場では躊躇われる。
「ここ、美術館だろう?」
「でも、誰もいない」
「そうだけど……」
 困った様な顔で啓太は和希を見つめた。和希は啓太の蒼穹の瞳を覗き込んだ。
「啓太、フェルメール・ブルーがどうしてあれほど綺麗なのかわかる?」
「えっ!?」
 啓太は絵に視線を戻した。絵から受ける印象が強くてメイドのエプロンが蒼いことにはあまり注意を払っていなかった。和希が言った。
「フェルメールはラピスラズリという瑠璃色の宝石を砕いて絵の具に使ったんだ」
「へえ~、だから、あんなに綺麗なんだ」
「ああ、だから、誰もがあの蒼に魅せられる。啓太の瞳と同じだよ」
「和希、それ、欲目が入ってるぞ。俺の瞳はあんなに綺麗じゃない」
 ほら、と啓太は自分を指差した。
「綺麗だよ、とても。ただ、自分では見られないからわからないだけだよ」
「毎朝、鏡で見てるけど?」
「それは本物とは違うよ。複製画と一緒。本物は……ここにある」
 和希は啓太の頬に手を当てた。フェルメール・ブルーに勝るとも劣らない蒼穹を写し取った瞳。いつまでも俺を魅了してやまない……
「俺には和希の瞳の方がよっぽど綺麗に見えるよ」
「なら、俺達はお互いの蒼に魅せられているんだな」
「……うん」
 少し顔を赤くしながら、啓太は頷いた。和希が耳元で囁いた。
「ねえ、啓太……キスして良い?」
「えっ!?」
「駄目?」
「……駄目……じゃない、けど……」
 啓太は『牛乳を注ぐ女』にチラッと目を走らせた。何だか彼女に見られている様な気がした。
「大丈夫。このメイドは口が堅いから。ねっ?」
「うん……」
 なおも啓太は恥ずかしがっていたが、和希の顔が近づいて来ると胸がドキドキして何も考えられなくなってくる……
「また一緒に美術館へ行こうか? 今度は休館日を丸ごと押さえるから、二人でゆっくり見て回ろう」
「うん……」
「なら、これはその約束の印……」
 和希は啓太の二つの瞼に順番に羽根の様な口づけを与えた。そして、最後にゆっくりと……その口唇を塞いだ。
 静謐な空間に、ただメイドの牛乳を注ぐ音だけが響いていた。


2008.1.12
絵画鑑賞も趣味なので、
少しばかり美術談義してみました。
ちなみに、
和希は理論派で、啓太は感性派です。

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Café Grace
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