理事長室では最近、恒例となってしまった別れの場面が今日も繰り広げられていた。
「本当に大丈夫か、啓太?」
 不安を隠し切れない様子で和希は尋ねた。啓太は少し呆れて肩を竦めた。
「もう……心配性だな、和希は。たった二駅だろう。大丈夫だって」
「でも、啓太は昔から迷子になり易かったし、今日は荷物まで持って帰るんだろう? 強盗にでも遭ったら、どうするんだ? やはりSPの数人はつけておいた方が……石塚、直ぐに手配を――……」
「何、言ってんだよ。そんなことしたら、余計、目立つだろう」
「だが、もし、啓太の身に万が一のことが起きたら、俺は悔やんでも悔やみ切れない! たとえ、どんなに僅かな危険でも、俺は啓太の前から総て排除しておきたいんだ! 啓太を、愛しているから!」
「和希!」
 感動した啓太が和希に抱きついた。またもや口唇が重なる。これで、もう何度目だろうか。そのまま、暫しの時間が流れた。やがて互いを惜しむ様に二人の身体が離れた。
「じゃあ、俺――……」
「待って、啓太!」
 行こうとする啓太の手を和希が強引に引き寄せた。厳かにその掌に口づける。
「啓太……いざとなったら、この黄金の右手を使って」
「わかった……ちょっと勇気がいるけど、道路に向かって上げれば良いんだろう?」
「ああ、きっと誰かが助けてくれる。そして、必ずここまで送り届けてくれるよ。後のことは何も心配はいらない。総て俺に任せて。啓太は、ただ俺の処へ帰って来ることだけを考えていれば良いから」
「うん……じゃあ、俺……本当に行くから」
「……啓太」
「和希……」
 再び二人は、ひしっと抱き合った。その光景を少し離れた場所から眺めていた丹羽が苛々と呟いた。
「全く……いつまで、ああやってる気だ? 大体、強盗なんかに遭う訳ねえだろう。俺が一緒に行くんだから。それに黄金の右手ってのは何だよ。素直にタクシーって言えば良いだろう」
「和希様は伊藤君のこととなると些か頭の螺子が緩んでしまいますので……」
「あの馬鹿さ加減を見れば、嫌でもわかるぜ。大変だな、石塚さん」
「これも仕事の内ですから」
 石塚は、はあ、とため息をついた。二人がこうなってしまった理由……それは日曜日に起きた、ある事件のせいだった。

 その日はとても天気が良かったので、久しぶりに啓太は学園島の外に一人で出掛けることにした、目的というほどでもないが、朝から仕事でサーバー棟にいる和希のために野菜のケーキを買うつもりだった。
 有機野菜を使ったパティスリーが近くにオープンした、と成瀬から聞いたとき、啓太は驚いた。キャロット・ケーキやパンプキン・パイは知っていたが、トマトや枝豆、玉葱、大根、春菊などを使ったケーキは全く想像がつかなかった。幸い、今日は暇だし、百聞は一件にしかずだ。突然、そう思い立った啓太は早速、そこへ行ってみることにした。
 店は幹線道路から離れた閑静な住宅街の一角にあった。中は思ったよりも狭く、カフェ・スペースはない。しかし、ショー・ケースに並べられたケーキは、まるで煌びやかな宝石の様だった。凄い、と啓太は感嘆した。種類も豊富でチーズにタルトにチョコレート、ミルフィーユ、シフォン、モンブラン。ロール・ケーキやシュークリームまであった。とても野菜が使われている様には見えない。啓太は右から左まで一通り眺めてから、今度はどれを買うか真剣に吟味した。そして、味や見た目が被らない様に散々悩んだ末、結局、五個も買ってしまった。
(まあ良いよな。余った分は夕食のデザートにでもしよう)
 会計を済まして大きな箱の入った白い手提げ袋を貰うと、バスに乗る際に取り出し易い様にとそこに財布を入れた。店を出たところで、ケーキを買ったので区切りの良いときに休憩にしないか、と和希にメールを打つとまた一緒にその中へ。その直後だった。
「……っ!!」
 不意に強く腕を引っ張られたかと思うと、手提げ袋が啓太から離れ、猛スピードで宙を飛んでいった。一瞬で状況を理解した啓太は叫んだ。
「ど、泥棒~っ!!」
 すぐさま啓太は走り出した。
 スクーターに乗った悪意ある第三者――犯人――の後を必死に追い掛けた。しかし、人の足では到底、敵うはずもない。啓太は直ぐにそのスクーターを見失ってしまった。それでも、啓太は幾つもの角を曲がり、狭い路地を通り抜け、付近を色々と探し回った。どうしても諦め切れなかった。折角、和希のために買ったのに! 和希と一緒に食べようと思って買ったのにっ!!
 そうしてどのくらい時間が経ったのか……完全に息の上がった啓太はもう一歩も走れなくなってしまった。
「はあ、はあ、はあ……」
 膝に両手をついて、啓太は乱れた呼吸を整えた。最近、この付近で引ったくりが多発しています、という看板が傍の電柱に掛かっていた。まさか自分がそれに遭うとは。運だけは自信があったのにな、俺……
 そのとき、ふとあることに気がついた。顔を上げ、キョロキョロと辺りを見回す。
「……ここ……どこ?」
 啓太は犯人を夢中で探し回っている内に、いつの間にか、全く知らない場所に辿り着いていた。ここでの生活に慣れたとはいえ、普段は学園島にいる啓太はまだ周辺地理に疎かった。
「とにかく、大通りに出よう。そこまで行けば何とかバスで――……」
 ハッと息を呑んだ。そうだ。俺、あの中に財布を入れてたんだ……!
「なら、和希に連絡……あっ!!」
(携帯もだ……)
 日曜日の昼下がりに、こんな住宅街を通る人影は全くなかった。どうしよう。啓太は呆然と呟いた。

(啓太かな)
 携帯電話が振動を始めると、和希は仕事の手を止めた。着信欄には、案の定、啓太の名前が表示されていた。嬉しそうにメールを読む。
(ふ~ん、ケーキか。昨日、成瀬さんが野菜のケーキの話をしていたからな。多分、それだな)
 クスッと和希は笑った。啓太がかなり興味を引かれていたので、仕事が終わったら和希もこっそり買いに行こうと思っていた。しかし、どうやら先を越されてしまったらしい。
「……」
 時計を見ると、まだ正午を少し過ぎたばかりだった。和希は内線で石塚を呼び出した。
『はい、何でしょうか?』
「石塚、あとどのくらい残っている?」
『先ほどの書類が最後です』
「そうか。なら、コーヒーを淹れておいてくれ。啓太がケーキを買ってくる」
『わかりました』
 石塚が楽しそうに言った。
 ふっ、と和希は苦笑した。この有能で苦労性な秘書も啓太のことは気に入っていた。啓太が誰からも好かれるのは嬉しいことだが、恋人としては少々気が気でなかった。学園内には未だ啓太を諦めていない輩がうようよしていた。その上、ここにも予備軍がいる。
(俺も、うかうかしていられないな)
 和希は携帯電話から啓太の番号へ発信した……が、誰も出ない。
(おかしいな。コンビニにでも入ったのか?)
 そこで十分ほど待ってから、もう一度、掛け直した。すると、暫く呼び出し音が続いた後……相手が出た。
「啓太? 今、どこにいるんだ? 仕事はもう終わったから……誰ですか、貴方は? ……警察!? まさか啓太の身に何か……!」
 真っ青になって和希は立ち上がった。

 車の走る音を頼りに啓太は何とか大通りに出ることが出来た。しかし……
「……」
 やはりそこは全く見覚えのない風景だった。どうやらかなり遠くまで来てしまったらしい。学園島に帰る大まかな方向さえわからなかった。しかも、走っている間は気づかなかったが、左の肘がズキズキと痛んだ。啓太は腕を庇う様に抱き締めた。あのとき、急に強く引っ張られたので、どこかの筋を痛めたのかもしれない。心細さと相俟って、全く……泣きたい気分だった。取り敢えず、通行人の誰かから交番の位置を聞こう、と思った。そこで事情を説明して、電話を借りて、和希に連絡しよう。今はそれだけ考えよう……
 疲れた身体に鞭打って啓太はとぼとぼ歩き出した。すると、背後から耳慣れた良く通る低音の声が聞こえた。
「啓太、こんな処で何をしている?」
「……!?」
 さっと振り向くと、そこには中嶋が立っていた。
「中嶋、さん……」
 啓太は胸が詰まり、それ以上は言葉が続かなかった。ただならぬ様子の啓太に中嶋は僅かに柳眉を上げた。
「その腕はどうした?」
「……」
 啓太は小さく俯き、引ったくりに遭った、と短く答えた。それを聞いた中嶋は何も言わず、直ぐにタクシーを止めた。
「乗れ。帰るぞ」
「でも、俺、交番に行かないと……」
「帰りたくないのか?」
「そんなことは……」
 頭に和希の顔が浮かんだ。本当は今直ぐにでも和希に逢いたかった。逢って……謝りたかった。なら、早く乗れ、と中嶋が啓太を促した。二人が乗り込むと、車は滑る様に走り出した。
「……あの……中嶋さんも買い物だったんですか?」
 何となく重い雰囲気を和らげようと啓太は左に座っている中嶋に尋ねた。いや、と中嶋は呟いた。
「俺は先週、丹羽が壊した生徒会長印の印稿の確認に来ただけだ」
「印稿?」
「印の下書きだ。メールでも良いが、やはり自分の目で確かめておかないと気が済まないからな」
「……」
(中嶋さんが使う訳でもないのに。やっぱり中嶋さんって優しいよな)
 啓太がそう思ったとき、急に車が止まり、身体が大きく前へ傾いた。
「わっ……!」
 ぶつかる、と思った瞬間、中嶋が啓太の身体を後ろへ引き寄せた。図らずも肩を抱かれる格好になった啓太は頬を赤く染めながら、有難うございます、と言った。中嶋がじっと啓太を見つめた。
「痛むか?」
「あ……はい……でも、大丈夫です」
「恐らく筋を痛めたのだろう。気が落ち着いたら、医者に診て貰え」
「えっ!? 落ち着いたらって……」
「お前……今、自分がどういう顔をしているかわかるか?」
「どういうって……」
 言い淀む啓太に中嶋はそっと囁いた。
「こんなに顔を赤くして、瞳を潤ませて……誘っているのか、俺を?」
「中嶋さん!」
 啓太はバッと中嶋を突き放した。中嶋はクッと口の端を上げた。
「それにしても、怪我までするとはお前はやはり運が良い」
「えっ!? どうしてですか?」
 コクンと啓太は首を傾げた。普通は逆じゃないのかな……?
「引ったくりなら単なる窃盗罪だが、相手に怪我をさせたとなると窃盗罪と傷害罪の観念的競合となる。お前がもう少し抵抗していれば強盗致傷罪が成立し、更に重い刑事責任を科せられたが……惜しかったな」
「中嶋さん、何てこと言うんですか!? 人の罪を重くして悦ぶなんて……!」
「自業自得だ。お前の物を奪った代償が十年以下の懲役では軽過ぎるくらいだ。恐らく遠藤も俺と同じ意見だろう」
「……!」
 中嶋の瞳の奥に、静かに蒼い炎が燃え上がった。確かに中嶋は冷酷な一面があるが、隠れた優しさも持ち合わせていると啓太は知っていた。そして、そんな中嶋に自分はとても大切にされていることも……
「中嶋さん、俺――……」
 しかし、中嶋は不意に視線を逸らすと、携帯電話を取り出した。啓太は口を噤んだ。中嶋はピッと発信ボタンを押した。
「……俺だ……ああ、知っている。ここにいるからな……今はタクシーの中だ……ああ、だが、医者の手配をしておけ。左の肘を痛めている……ああ……」
 啓太、と中嶋は携帯電話を差し出した。会話の内容から相手は直ぐに察しがついた。啓太は右手でそれを受け取り、そっと耳に押し当てた。すると、緊迫した和希の声が聞こえた。
『啓太!? そこにいるのか、啓太!?』
「……和希……」
『啓太! 良かった。無事だったんだな、啓太!』
「……うん……」
 コクンと啓太は頷いた。電話の向こうで和希が大きく息を吐いた。
『そうか。本当に良かった。今、啓太を探しに行こうとしていたんだ』
「探すって……和希、どうして知って……」
 啓太は語尾を濁した。ケーキのことを思い出したら、また泣きたくなってきた。
『メールをくれただろう? それで、折り返し電話をしたら警官が出たんだ。ケーキの箱をバタバタしてスクーターに乗っていれば、不審がられるのは当然だよ。最近、その辺りは引ったくり事件が多発して警察も警戒していたそうだ。どうやらその男が犯人だったらしい』
「うん……」
 涙を堪えて啓太は呟いた。
 跳ね橋を渡った処で車が止まった。中嶋が清算を済ませた後、二人はタクシーを降りた。
「啓太!」
「……和希」
 道路の向こうに、背広を着た和希が立っていた。啓太は転がる様に駆け出すと、和希の胸に飛び込んだ。それと同時に堪えていた涙がポロポロと零れ落ちる。
「ごめん、和希、ごめん……折角、一緒に食べようと思ったのに……!」
「啓太のせいではないだろう? ケーキはまた買えば良い。それよりも、啓太が無事に帰って来られて本当に良かった」
「うん……偶然、中嶋さんに会ったから……」
「そうだな……中嶋さん、有難うございました」
 啓太を抱き締めたまま、和希は小さく頭を下げた。中嶋は、すっと眼鏡を押し上げた。
「一つ貸しだ。ところで、遠藤、医者の手配はしたのか?」
「はい、既に待機しています。痛い、啓太?」
 和希は心配そうに啓太を窺った。
 啓太は顔を上げずに首だけ横に振った。しかし、左腕がだらんと横に下がっている。それを見た和希は冷たく目を眇めた。中嶋が低い声で言った。
「診断書を忘れるなよ」
「勿論です」
(どんな手を使っても、犯人は必ず強盗致傷で服役させてやる。啓太を傷つけた罪としては、それでも軽過ぎる!)
「ふっ……」
 和希の内心を察した中嶋は意味ありげな微笑を浮かべると、その場から去って行った。和希がふわふわと啓太の頭を撫ぜた。
「それにしても、啓太は本当に運が良いな」
「……そんなことないよ。本当に運が良かったら、こんな目には遭わない。あっ、もしかして、和希も中嶋さんと同じこと思ってるのか? 人の罪、重くして悦ぶなよ、和希」
 すぐさま啓太は和希を窘めた。ドキッとした和希は慌てて言った。
「えっ!? そんなことは考えていないよ、勿論」
 しかし、和希の指が頬を掻くのを見て啓太はじと~っと目を細めた。
「違うよ、啓太、俺が言いたいのは犯人が直ぐに捕まったことだよ。お陰で、財布も携帯も無事だっただろう? 犯人が啓太のケーキを持っていたから警察の目に留まったんだよ。それに、中嶋さんと会えて、こうして帰っても来れた。確かに啓太個人としてはケーキは駄目になったし、怪我もして不運だったけれど、これで誰もが安心してあそこで買い物が出来るよ。たまには、こういう幸運の使い方も良いと思わないか?」
「うん……そうだな。俺、自分のことしか考えてなかった。和希の言う通りだ。皆が幸せにならなければ意味がないよ。やっぱり和希って凄いな」
 漸く啓太に笑顔が戻った。
 和希は小さく微笑んだ。それは嘘ではないが半分は咄嗟に閃いたことであり、初めから思っていた訳ではなかった。和希としては、あくまでも啓太一人が大切であり、その他のことは総て二の次、三の次だった。
(心から、そう思える啓太の方がもっと凄いよ)
 和希は啓太の髪に口づけた。
「啓太、取り敢えず、医務室に行こう。まずはその肘を診て貰わないと」
「えっ!? 態々呼んだのか、和希?」
「違うよ。テニス部員の一人が怪我をして、その往診に来ていたのを引き止めておいたんだ」
「そっか。今日は日曜で病院も休みだしな」
「ああ、診察が済んだら、生徒会室に寄ってからサーバー棟へ行こう。石塚も心配していたからな。一度、顔を見せておかないと」
「どうして生徒会室に……あっ、携帯!」
 ハッと啓太は右手に視線を落とした。そこには、まだしっかりと中嶋の携帯電話が握られていた。慌てふためく啓太を和希は眩しそうに見つめた。
(中嶋さんが携帯を預けるとは、よほど信頼されているんだな、啓太……いや、それ以上か。本当に俺もうかうかしていられないな)
「中嶋さんのことだから、それに託(かこつ)けて色々用事を言いつけてくるかもな」
「えっ!? どうしよう、和希?」
「さあ、こればかりは俺でもどうにも出来ないな。自分でなんとかするしかないだろう、啓太?」
「う~、俺、やっぱり幸運は自分のために使いた~い!」
 一際、大きい声が辺りに木霊した。和希のクスクスと笑う声に啓太の文句が混ざる。そんな二人を優しい光が包み込みんだ。そして――……
「和希の馬鹿」
「あっ、啓太~」
 怒って走り出した啓太を追って、和希もまた学園の中へと消えていった。


2008.3.14
黄金の右手を使ってタクシーに乗ったら、
着払いで帰ることも可能です。
運転手さんに訊いてみましょう。

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Café Grace
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