夜の梅雨空を眺めながら、傘を広げようとした啓太は不意に背後から声を掛けられた。
「よう、啓太! お前も今、帰りか?」
「あっ、王様、中嶋さん」
 振り向いて、啓太は小さく頷いた。
 ほぼ毎日、生徒会室へ手伝いに行っているが、未だ正式な役員ではないので今日の放課後は会計室へと出向いていた。丹羽や中嶋からは再三の様に生徒会に入れと言われ、啓太自身もそろそろ腰を落ち着けようとは思っていた。しかし、二人を間近で見ていると、どうしても自分との差を強く感じてしまって躊躇わずにはいられなかった。
「珍しいな。郁ちゃんとこがこんな時間まで仕事するなんてよ」
「あっ、いえ……お茶してたら、いつの間にか、こんなに遅くなってしまったんです」
「へえ~、優雅で羨ましいぜ、全く……で、郁ちゃん達はどうしたんだ? 一緒じゃねえのか?」
「はい、三人で帰るはずだったんですけど、水泳部の人が予算の陳情に来て長くなりそうだから俺だけ先に帰るようにって七条さんが――……」
 ハッと啓太は口を噤んだ。一瞬、気まずい沈黙が流れる。中嶋が軽く眼鏡を押し上げた。
「だから、早く役員になれと言っている。そうすれば、あんな奴の相手をしなくても済む」
「あ、の……えっと……」
 返事に窮した啓太の背中を丹羽がバンッと叩いた。
「啓太はちゃんとわかってるよな! さっ、もたもたしてねえで帰ろうぜ」
「あっ、はい……あれ? 王様、傘はどうしたんですか?」
 雨が降っているのに、丹羽は鞄しか持ってなかった。啓太が不思議そうに尋ねると、丹羽は豪快に言い放った。
「ああ、置いてきたんだ。五月雨だろう? 濡れてくのが粋ってもんだぜ。一緒に行くか、啓太?」
「えっ!? でも……」
 啓太は外に瞳を流した。さらさら、さらさら……まるで絹の様に細い雨が降っていた。寮まではそう大した距離ではないが、向こうに着く頃には確実に濡れ鼠になっているだろう。正直、それはどうかと思った。風邪を引くのは嫌だしな、俺……
 悩む啓太に中嶋の呆れ声が聞こえる。
「啓太、馬鹿に付き合うことはない」
「おい、ヒデ! 馬鹿とは何だ! 馬鹿とは!」
「事実、そうだろう。態々濡れて帰る必要がどこにある? 行くぞ、啓太」
 そう言うと、中嶋はさっさと傘を開いて歩き出した。はい、と啓太もその後を追った。丹羽は軽く肩を竦めた。
(やれやれ。どうしてこの良さがわからねえのかね)
 鞄を小脇に抱え、丹羽は雨の中を進み始めた。
 思った通り、夜道を濡れてゆくのは風情があった。見慣れた景色が幻想的に変わる。細かな雨が丹羽の濃い色の髪を湿らせ、額に落ちてくることにさえ趣が感じられた、丹羽はそれをかき上げもぜず、上機嫌に鼻歌を口ずさんでいた。すると、突然、前にいた啓太が立ち止まった。
「うん? どうした、啓太?」
「……」
 振り返った啓太は丹羽の頭上に自分の傘を差し出した。ふわりと微笑む。
「王様、やっぱり濡れるとまだ寒いですよ。粋も良いですが、風邪を引いたら元も子もないです」
「あ、ああ……」
 丹羽は小さく唸った。
 時折、啓太はドキッとする表情を見せることがあった。そのときに感じる気持ちを丹羽は敢えて突き詰めはしないが、和希が惚れ込むのも何となくわかる気がした。そんな啓太に諭されて、丹羽が抗えるはずがなかった。そうだな、と呟くと、啓太の手からひょいと傘を抜き取った。
「それじゃ、今度は相合傘といくか。ぴったり俺にくっついてろよ、啓太」
「ぴったりって言われても……」
 啓太は困った様に丹羽を見上げた。体格の良い丹羽と一つの傘に収まること自体、無謀なことだった。まあ、予備の制服があるから良いけど。帰ったら、これはクリーニングかな、と啓太は思った。

 和希は寮の玄関先を行ったり、来たりしていた。
 仕事を終えた和希はまずは一緒に夕食をと恋人の部屋を訪ねたが、啓太はまだ戻っていなかった。今日は会計室のはずなのにおかしいな。そう思って、すぐさま啓太の携帯電話に掛けてみた。しかし、電源が切られているのか、応答がない。和希は心配で居ても立ってもいられなくなった。
 丹羽達と比べ、西園寺と七条は何者かが武力行使に及んだ場合は必ずしも頼りになるとは言えなかった。確かにこれまで会計部が狙われたという話は聞いたことがない……が、それが今後も続く保障はどこにもなかった。ましてや、日頃から生徒会室を頻繁に出入りする啓太は反生徒会連合に目をつけられる危険があった。雨で視界も悪く、相手も力で与し易い今日、襲われる可能性は充分にある。しかも、敵はそれだけではなかった。理事長の正体を知る者が二人の関係を掴み、和希に何らかの圧力を加えるために啓太を捕えようとすることも考えられた。あるいはまた……
(あと五分だ。それでも啓太が戻って来なかったら――……)
 様々な不安に苛まれていた和希の耳に愛しい声が聞こえた。
「あっ、和希~」
「……!?」
 慌てて和希は雨だれの奥に目を凝らした。すると、丹羽と中嶋に挟まれた啓太が遠くから手を振っていた。良かった、と和希は大きく胸を撫で下ろした。しかし、次の瞬間、我が目を疑った。
(なぜ、啓太が王様と相合傘をしているんだ!?)
 三人は和希の前で立ち止まって、それぞれ傘を閉じた。丹羽は軽く水気を振り払い、サンキュー、と啓太に傘を返した。
「王様、寒くないですか? 結局、殆ど俺の方にばっかり差してたじゃないですか?」
「心配ねえよ。頭は濡れなかっただろう?」
「でも……」
 なおも言葉を募る啓太に中嶋が言った。
「問題ない。元々こいつは濡れて帰るつもりだったからな」
「そういうこと。じゃあな、啓太!」
 丹羽はニカッと笑うと、鼻歌混じりに去って行った。中嶋もその後に続く。啓太は軽く頭を下げた。和希は一連の流れをただ呆然と眺めていた……が、やがてハッと我に返った。
「一体、どういうことなんだ、啓太!」
「えっ!? 何が?」
「なぜ、啓太が王様と相合傘をして……あっ、いや、そうではなくて、携帯も繋がらないから心配したんだぞ! 今日は会計室に行ったはずだろう? それが、なぜ、あの二人と一緒に帰って来るんだ!?」
「あ……うん……こめん、和希」
 和希の剣幕に啓太は少し驚いた。しかし、その分だけ和希を心配させてしまったんだと思い、直ぐに訳を説明した。
「夕方、携帯の充電が切れちゃったんだ。それに……」
 啓太は丹羽達と合流した経緯を和希に話した。それを聞いて漸く和希は納得したものの、胸の奥に何か釈然としないものが残った。
 この雨の中を濡れて歩く人がいれば、啓太なら傘を差し出すだろう。それは啓太の自然な反応であり、優しさの表れだった。だから、結果的に相合傘となっただけで和希はそれをとやかく責めるつもりはなかった。また、丹羽も態と傘を置いてきたとはいえ、啓太と会ったのは単なる偶然に過ぎなかった。初めからそれを狙っていた訳ではない。つまり、丹羽に腹を立てるのもお門違いだった。
(なら、この胸のもやもやした感じは何だ? 頭ではきちんと状況を理解しているのに、思わず、啓太に八つ当たりしてしまいそうになる……)
「……」
 無言の和希を啓太は不思議そうに見つめた。和希……?
「ああ……ごめん、啓太」
 和希は優しく微笑むと、その不可解な感情を抱えたまま、啓太と共に部屋へ向かった。

 啓太は学食で和希と遅い夕食と取りながら、密かに首を捻っていた。先刻から和希の様子が明らかにおかしかった。
(俺が連絡もしなかったから怒ってるって訳ではない。でも、話し掛けても上の空で、何か浮かない表情をしてる。仕事上の問題を引きずるなんて和希らしくないし……一体、どうしたんだろう?)
 和希は食事もそこそこに、憂えた顔でぼんやり窓の外を見つめていた。啓太もその視線を追う。雨はまだしとしと降り続いていた。王様……風邪、引かないと良いけど。そう思った途端――……
(あっ……!)
 答えが閃いた。もしかして、和希……焼き餅、焼いてる?
 啓太は恋愛の機微には疎いが、和希のことなら良く知っていた。強くて、優しくて、しっかりしていて、頼り甲斐があって、格好良くて……だけど、弱くて、脆くて、繊細な人。大人であるが故に自分の気持ちを持て余しているのだろう。それが何だか可愛いく思えて啓太はクスクスと笑った。和希の視線がすっと動く。
「啓太……?」
「和希、それは焼き餅って言うんだよ」
「……!」
 和希は僅かに目を瞠った。王様に焼き餅? 俺が?
 しかし、そう考えると総てがしっくりと収まった。和希は何でもそつなくこなし、しかも鈴菱という名まで持っているため、今まで嫉妬されたことはあってもしたことはなかった。これは、和希でさえ未だしていない啓太と相合傘をした丹羽に対する、羨望にも似た嫉妬だった。
「和希にもわからないことがあるんだな」
「まあ、俺も万能ではないからな」
 気まずそうに和希は頬を掻いた。
「そんなことないよ。俺はいつだって和希は凄いって思ってるよ」
「有難う、啓太」
 和希は優しく微笑んだ。すると、啓太が小さく俯いた。
「ごめん、和希……俺、王様を傘に入れる前にもっと和希の気持ちを考えるべきだった」
「良いんだ。あれが啓太の優しさだってことはわかっているから。ただ、俺は啓太に関しては少しばかり心が狭くなってしまうんだ。ごめんな。啓太に余計な気を使わせて」
「それは和希だけじゃないよ。俺だって和希が誰かと相合傘してるとこなんか見たら、きっと嫌な気分になる。嫉妬くらいするよ」
「なら、俺も気をつけないとな。啓太の瞳を緑色にしない様に」
「うん、俺も」
 そして、二人は互いにクスッと笑い合った。

「……そうだ、和希」
 入浴後、和希の部屋で数学の宿題をしながら、啓太が呟いた。
「俺、生徒会に入ることにするよ」
「ああ、俺もそれが良いと思うな。でも、どういう心境の変化だ、啓太? 王様達から何度も誘われたのに、ずっと渋っていただろう?」
「うん、今夜の和希を見てたら何となく吹っ切れたんだ。人と比べても意味がないって。俺は俺なりに頑張るしかないんだって」
「そうか」
 和希は密かに苦笑した。多分、啓太は一生、嫉妬なんかしないだろうな……
「ねえ、啓太……明日は傘を持って来ないで?」
「良いけど、どうし、て……!」
 問題を解く啓太の手がピタリと止まった。恐る恐る顔を上げる。頬杖をついた和希がにっこりと言った。
「相合傘をしよう」
「でも、あれは態とじゃなくて偶然で……」
「わかっているよ。だから、今度は初めからそのつもりでやるんだ」
「でも、俺……傘、あるし……」
「壊れたことにすれば良い」
「でも、明日も雨かどうかわからないし……」
「啓太は、俺と相合傘をするのは嫌?」
 和希が啓太の瞳を覗き込んだ。
「……!」
 咄嗟に啓太は目を逸らした。勿論、嫌ではなかった。丹羽と並んで歩きながら、これが和希とだったらどんなに良いだろうと思った。でも、現実にそんなことしたら……恥ずかしいじゃないか!
 真っ赤になった啓太の顔から内心の葛藤を読み取った和希は嬉しそうに微笑んだ。
「良かった。これで、もう大丈夫だ。啓太も望んでいるんだから、明日は必ず朝から雨だよ。ああ、心配しなくても二人が入っても濡れない様に大きな傘を用意するよ。あっ、でも、それだと啓太とくっついていられないか。なら、小さめの方が良いな。この際だから、啓太の腰を抱いて歩いて皆に見せつけてやろう。校舎まで俺がしっかりエスコートしてあげるよ……ああ、皆の驚く顔が目に浮かぶ。今から明日が待ち遠しいよ、啓太」
「……」
 楽しそうに語る和希の声を聞きながら、啓太は心に誓った。もう二度と和希に焼き餅を焼かせる様な真似はしない。そして、どうか明日は晴れますように、と願った。
 そんな啓太の複雑な思いが通じたのか、翌朝は見事なまでに雨だった……


2008.5.30
緑は嫉妬と羨望の象徴です。
シェークスピアの『オセロウ』や『ヴェニスの商人』が発端です。
和希が緑の瞳の怪物にならない様に、
啓太は言動に注意しないと。

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Café Grace
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