啓太は脚立の上に立って蛍光灯を取り替えていた。
 放課後、いつもの様に生徒会室へ行くと、入れ替わりに中から出て来た中嶋に、煩いので取り換えておいてくれ、と頼まれてしまった。見ると、部屋の中ほどにある一本がチカチカと点滅を繰り返している。啓太は、わかりました、と素直に頷いた。そして、資料保管室の奥から新しい蛍光灯を持って来て、早速、作業に取り掛かった。
 天上が高いせいか、啓太の身長では脚立に登っても少し背伸びをしないと届かなかった。足場の悪い処で長い蛍光灯を一人で替えるのは結構、骨が折れる。漸く交換し終えた頃には、ずっと上を向いていたせいで首が痛くなってしまった。
(あ~、疲れた)
 啓太は目を閉じると、頭をくるくる回して緊張している筋肉を解した。えっと……今日、提出期限のものって何だったかな。そんなことを考えながら、パチッと瞼を開けた。すると、思いもしない高さがそこにあった。
(わっ……!)
 動揺のあまり、咄嗟に状況が掴めなかった。
 啓太の身体はバランスを崩し、宙に舞った。落ちるということさえわからない。ただ辺りが真っ暗になって意識が飛んだ――……
「……太……」
 誰かが呼んだ。朧に目を開けると、良く知った明るい鳶色の髪が見える。
「……」
「啓太!」
「……和希……」
 啓太はふわりと微笑んだ。和希が不安そうに尋ねた。
「啓太、どこか痛むところはあるか?」
「……大、丈夫……」
 ぼんやりと啓太は答えた。すると、真上からすっと丹羽の顔が現れた。
「全く……驚かすなよな、啓太」
「……王様?」
 気がつけば、啓太は丹羽の腕に抱き抱えられていた。
「あれ? 一体、どうして……?」
「俺達がドアを開けたら、丁度、落ちるとこだったんだよ。お前、俺があと一歩でも遅かったら床に激突してたぞ」
「あ、有難うございます」
「まっ、怪我もしてねえ様だし、良かったな」
 そう言うと、丹羽はそっと啓太を下ろした。すかさず和希が啓太の手を取り、近くのソファーに座らせた。
「本当に心臓が止まるかと思ったよ」
「ごめん、和希、ちょっと眩暈がして……」
「……!」
 途端に和希の顔色が変わった。啓太の額や首筋に手を当て、熱を計る。
「風邪……ではないな。明日、一緒に病院へ行こう。まずはMRIで検査をして――……」
「えっ!? そんな必要ないよ、和希!」
「啓太、眩暈を軽く考えたら駄目だ。その裏には悪性の病気が隠れていることが往々にあるんだ。だから、原因はきちんと調べておいた方が良い」
「病気なんかじゃないよ、これは……」
 啓太は語尾を濁した。和希が瞳で続きを促した。これは……?
「その……俺、上ばかり見てて……急に下を向いたら、高かったから……」
「何だ、啓太……お前、高所恐怖症か?」
 丹羽が口を挟んだ。啓太は首を振った。
「違います。ただ、自分が脚立の上にいるってこと忘れてて……」
「それで、驚いて目が眩んだのか? 本当に?」
 啓太の顔を和希はじっと覗き込んだ。啓太は小さく頷いた。すると、漸く和希の肩から力が抜けた。
「そうか……なら、良いんだ」
「ごめん、心配させて」
「もう良いよ。啓太が無事だったんだから」
 和希は優しく啓太の頬を撫でた。本当に良かった。心から、そう思った。

 その夜、和希は時計を見て何度もため息をついていた。
 実は、今日は和希の誕生日だった。啓太に年齢を伏せているので今までそこに触れなかったが、放課後、折を見て話そうと思っていた。もっと早く言わなかったことに恐らく啓太は少し怒って……それから、落ち込むだろう。プレゼントを何も用意していないから。しかし、和希は啓太が傍にいてくれるだけで充分だった。だから、啓太が余計な気を使わないようぎりぎりまで黙っていることにした。それが徒になった。
 あの一件で、啓太に言う機会を逸してしまった。
 和希は既に社会人でもあるので、祝って欲しいとは思わない……が、なぜか今夜は独り寝の寂しさを感じた。今から啓太の部屋へ行けば、必然的にベッドに雪崩込むことになる。初めて啓太と過ごす自分の誕生日。日頃は未成熟な啓太の身体への配慮から抑える様にしているが、今夜はその歯止めが利かなくなりそうだった。それは何も知らない啓太にはあまりに酷だろう。
(ここで大人しくしていた方が良いな)
 ふっ、と寂しげな微笑を浮かべると、和希は机に向かった。持ち帰った書類に目を通し始める。別に急ぎの仕事という訳ではないが、気を紛らわすには最適だった。そうしてどのくらい時間が経っただろうか。不意に小さなノックが和希の集中を遮った。
「……?」
 和希は顔を上げた。点呼は既に終わっていた。一体、誰だ……こんな時間に……
 訝しみながら、和希はドアを開けた。すると――……
「早く中に入れて、和希、篠宮さんに見つかっちゃうだろう?」
「啓太!?」
 反射的に和希は脇へ退いた。啓太が中に飛び込むと、和希はなるべく音を立てない様にまた鍵を掛けた。怪訝そうに啓太を振り返る。
「啓太、こんな時間にどう――……」
「誕生日おめでとう、和希」
 突然、啓太が首に抱きついてきた。和希は僅かに目を瞠った。
「知っていたのか、啓太?」
「うん、前に石塚さんから聞いたんだ。それで、和希を驚かそうと思って、ずっと知らない振りをしてた。ごめん。怒った?」
「まさか。嬉しいよ、啓太……有難う」
 和希は啓太をキュッと抱き締めた。啓太は嬉しそうに微笑んだ。
「でも、どうして合鍵を使わなかったんだ? 篠宮さんはまだ点呼を兼ねて見回りをしているから、ノックなどしたら危ないだろう?」
「両手が一杯でさ……」
 啓太はチラッと後ろへ視線を流した。和希もそれを追う。すると、机の上に先刻まではなかった細い瓶と白い箱が置いてあった。啓太が恥ずかしそうに言った。
「何をプレゼントしたら良いかわからなくてさ……ずっと考えてたんだけど、やっぱりわからなくて……だから、素直に和希の誕生日を祝おうっていう気持ちをあげることにしたんだ。でも、それじゃ少し寂しいだろう? だから、あれを買ってきた。シャンパーニュ……ハーフ・ボトルだけどな。俺、あんまり飲めないから」
「……それで充分だよ」
 和希は小さく囁いた。今まで色々な物を貰ったが、こんなに嬉しかったことはない。恋人が人目を忍んで逢いに来てくれた、精一杯の心を籠めて。これ以上の贈り物が他に望めるだろうか。
「お祝いには、やっぱりシャンパーニュだよな」
 啓太が独り言の様に呟いた。
「啓太はシャンパンでなくシャンパーニュって言うんだな」
「うん、西園寺さん達から教わったんだ。フランスではシャンパーニュでないと通じないって。それにハーフ・ボトルのこととか」
「成程ね」
(あの二人は啓太を気に入っているからな……相当に)
 そのとき、和希はあることに気がついた。ここにはグラスがなかった。一応、マグカップくらいは置いてあるが、それでは折角の雰囲気に水を差す。どうしたものか、と思ってもう一つの箱の存在を思い出した。中身は直ぐ察しがついたが、一応、訊いてみる。
「啓太、あの箱は?」
「ああ、あれ? フルート・グラスだよ。さすがにグラスまで買う訳にはいかなかったから、王様達から借りたんだ」
 さらっと啓太は答えた。
 会計室と比べると遥かにがさつに見える生徒会室だが、来賓を持て成すことも多いため意外にこういう品を数多く取り揃えていた。しかし、それを人に貸したという話は今まで聞いたことがなかった。
(啓太だから、か。あの二人も要注意だな)
 和希は、じっと啓太を見つめた。啓太は本当に周囲の者から愛されていた。そんな啓太に自分は愛されている……唯一の恋人として。その幸せを和希は改めて噛み締めた。
「乾杯しよう、和希」
「ああ」
 啓太の腰を抱きながら、和希は机へと向かった。啓太は箱からグラスを二つ取り出した。
 それは微かに丸みを帯びているが、すらっと細長く余計な装飾の全くない簡素なデザインだった。機能美にのみ徹した、職人の手作りによる最高のグラス。思わず、啓太は感嘆した。それを見た和希は優しく微笑み、ハーフ・ボトルを手に取った。
「……これは啓太が選んだのか?」
「うん……何となくだけど、それが良いなって思ったんだ。おかしかった?」
「いや、俺達にぴったりだなって思っただけだよ」
「……?」
 コクンと啓太は首を傾げた。
 啓太が買ってきたのはモエ・エ・シャンドンのロゼだった。ここのシャンパーニュはドン・ペリニョンが有名だが、モエはコスト・パフォーマンスに優れ、ロゼ・シャンパーニュ入門としては最適な一品だった。恋人同士としてはまだ始まったばかりの二人にはまさに相応しい。そして、今夜にも……
 和希は跳ねない様に慎重に栓を抜くと、グラスの膨らみの頂の少し手前まで注ぎ入れた。途端に啓太の瞳がキラキラと光った。
「綺麗なピンク色だな」
「ああ、ここのロゼは特にそうだな」
 二人はグラスを手に取った。一瞬、黙って見つめ合う。
「和希……誕生日おめでとう」
「有難う、啓太」
 軽くグラスを掲げると、二人はゆっくりと極薄の淵に口をつけた。それは力強い存在感のある深い味わいのシャンパーニュだった。美味しい、と啓太が尋ねた。
「勿論。啓太は?」
「俺? 俺は……う~ん、ちょっと辛いかな。でも、何となく苺みたいな香りがするから、結構、気に入ったよ」
 啓太はまだグラスに残っているシャンパーニュから立ち上る泡を無邪気に眺めた。良かった、と和希は呟いた。静かにグラスを置く。
「ところで、啓太、ロゼ・シャンパーニュには特別な意味が籠められているんだ」
「ふ~ん、どんな?」
 あまり深く考えずに啓太は訊き返した。すると、和希の口の端が意味ありげに上がった。
「ロゼ・シャンパーニュに籠められた意味はね、啓太……今日は二人で夜を過ごそう、だよ」
「……!」
 ポンッと啓太が赤くなった。
 和希の言葉が暗に何を指しているのかくらい直ぐにわかった。啓太も半分は、否、殆どそのつもりでここへ来た。しかし、それはあくまでもその場の雰囲気で決まるべきものだった。これでは、まるで自分から誘っている様に見える。いや、実際はそうなのかもしれないが……
 戸惑う啓太の顎を、すっと和希の指がすくった。
「祝ってくれるんだろう、啓太?」
「……うん」
 啓太は恥ずかしそうに呟いた。和希は優しく微笑み、啓太に顔を寄せて……ふと止まった。どうしたんだ、と啓太が瞳で訊いた。
「ごめん、啓太……今夜は抑えられないかもしれない」
「……うん……わかってる。でも、俺なら大丈夫だから……だから……一杯して」
 最後の言葉は殆ど聞こえないくらい微かなものだった。
 その瞬間、和希は情欲のままに啓太の口唇を奪った。静から動への突然の変化に驚いた啓太が声を上げると、更に開かれた口中に和希が素早く潜り込む。啓太の舌は、あっさり絡め取られてしまった。
「……っ……はあ……んっ……」
 僅かな隙間から零れる吐息が濡れた。
 今夜は和希を受け止め切れないかもしれない、と啓太は思った。こんな嵐の様な和希は知らないから。しかし、いつも啓太の身を第一に考える和希が初めて自分の欲望を素直にぶつけてくるのが、啓太はとても嬉しかった。だから、きっと大丈夫……
(誕生日おめでとう、和希……愛してる……)
 啓太は和希の首にそっと両腕を回した。そして、自ら総てを和希に委ねた。



2008.6.6
’08 和希BD記念作品です。
フルート・グラスはリーデルを参考にしました。
モエのロゼは手軽に買えるので、
特別な日に是非どうぞ。

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Café Grace
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