会計室でお茶を飲みながら、啓太は静かに音楽を聞いていた。冒頭からピアノの凄まじい三連音符が連なり、闇夜を疾走する馬蹄の音を鮮やかに描いてゆく。やがて響く重厚な父の声と甘く蠱惑的な魔王の囁き。そして、鋭い不協和音に彩られた子供の恐怖の叫びへと続く。転調に次ぐ転調で、一人で三様に歌い分けられる展開は劇的に盛り上がり、最後は静かに……ぷっつりと終わった。
 西園寺は閉じていた目をゆっくりと開いた。
「どうだ、啓太、見事な歌声だろう?」
「はい……情景の変化や感情の起伏が凄く伝わってきました。これが有名な『魔王』なんですね?」
「ああ、シューベルトは『ドイツ・リートの父』と呼ばれているが、この『魔王』は特に有名だ。まさにゲーテ歌曲の頂点だな」
「あの……俺、まだドイツ・リートが良くわからないんですが、ゲーテって詩人ですよね? なら、歌詞は元は詩なんですか?」
「そうだ。シューベルトは様々な詩を題材にして曲をつけていった。ドイツ語でLied(リート)とは歌という意味だが、詩もまたLied(リート)と呼ぶ。つまり、ドイツ・リートとはドイツの旋律を持ったドイツの美意識で歌われる詩のことだ」
「フランスのシャンソンやイタリアのカンツォーネの様なものと考えたらどうですか?」
 七条が助け舟を出した。う~ん、と啓太は首を捻った。わかった様な、わからない様な……
「そういえば、丹羽会長は演歌だと言ってましたね」
「あっ、成程……!」
「……臣」
 西園寺が渋い顔をした。
「確かにそう捉えられなくもないが、ものには言い様がある。それでは丹羽と私の趣味が同類項で括られることになってしまうだろう。私をあんながさつな奴と一緒にするな」
「すみません、郁」
 七条が微笑を浮かべながら、西園寺に新しい紅茶を差し出した。啓太がクスクスと笑った。
「でも、ドイツ語では歌詞の意味がわからないですよね。ちょっと知りたかったな、俺」
「なら、僕が教えてあげますよ」
「えっ!? 七条さん、ドイツ語もわかるんですか?」
 啓太は驚いて七条を見つめた。七条は小さく頷いた。
「フランス語ほどではありませんが、簡単な会話程度でしたら。郁や丹羽会長達もそうですよ。それに、この詩は有名ですから」
「だが、これを聞いたら今夜は眠れないぞ。遠藤を呼ばなくて良いのか、啓太?」
 西園寺が揶揄する様に言った。そんな大袈裟な、と啓太は笑った。
「確かに俺は怪談などは苦手ですが、歌詞を聞いただけで眠れなくなるほど、臆病でも子供でもありませんよ、西園寺さん」
「ならば、安心だな……臣」
「……では」
 コホンと七条が咳払いをした。
「これは夜の闇をついて馬を駆る父親と、その腕に抱いた子供の描写から始まります……」

(ど、どうしよう……)
 啓太はベッドの中で小さくなっていた。
 そろそろ梅雨も終わりに近づいたせいか、今夜は酷く天気が荒れていた。普段ならその程度で睡眠を妨げられはしない。しかし、認めたくはないが……啓太は臆病な子供だった。会計室で聞いた『魔王』の歌詞と外の光景が重なり、怖くてまだ一睡も出来ずにいた。七条の力強い声が聞こえてくる。
『……坊や、どうしてそんなに怖がって顔を隠すんだい……』
『……お父さんには魔王が見えないの……』
『……坊や、あれは棚引く霧だよ……』
 不意に風がベランダの引き戸をガタガタと揺らした。慌てて啓太は耳を塞いだ。
『……可愛い坊や、私と一緒においで……』
『……お父さん、聞こえないの? 魔王がこっそり囁くよ……』
『……坊や、木の葉が風に鳴る音だよ……』
 カーテンの隙間から、ピカッと閃光が差し込んだ。思わず、啓太はキュッと目を瞑った。
『……可愛い坊や、一緒に行こう。私の娘達がお前を待っているよ……』
『……お父さん、お父さん、見えないの? 魔王の娘達が……』
『……坊や、あれは古いしな垂れ柳がどんよりとしているんだよ……』
 一際、激しい風雨が硝子や壁をバシバシと強く叩いた。啓太は小さな悲鳴を上げて頭から布団をすっぽりと被った。乱暴な光と音の狂騒に無意識に身体が竦んでしまう。そうでなくとも、雷は好きではなかった。西園寺の忠告に素直に従えば良かった。今夜、啓太は何度もそう後悔した……が、もう遅い。魔王の白い手が伸びてくる――……
『……私はお前が好きだ。可愛い様子が気に入った。一緒に来ないなら、力ずくで連れて行く……』
 その瞬間、ベッドが小さく軋んだ。混乱した啓太は無意識に呟いた。
「助けて、和希……!」
 すると、真上から意外な声が降ってきた。
「啓太?」
「……!」
 ハッと啓太は目を開け、布団の下から顔を覗かせた。枕元に背広姿の和希が腰掛けている。
「和、希……?」
「ごめん、こんな時間に。別に驚かすつもりはなかっ――……」
「和希!」
 ガバッと起き上がると、啓太は和希にしがみついた。漸く緊張から解放されて安堵の涙が目尻に浮かんだ。驚いた和希が心配そうに尋ねた。
「俺がいない間に何かあったのか、啓太?」
「……違、う……そうじゃ、ない……」
「そうか。啓太は昔から雷が苦手だったな」
 和希があやす様に背中を優しく撫でた。しかし、啓太は首を横に振った。
「それも……ある、けど……魔王が……」
「魔王?」
 不思議そうに和希は首を傾げた。啓太は小さく頷くと、会計室でのことをゆっくり話し始めた……

 翌日、和希と一緒に食堂へ向かいながら、啓太は大いに剥れていた。
「もう笑うなよ、和希」
「ごめん……でも、歌詞と現実を混同するなんて何か可愛いなと思って」
「仕方ないだろう。あんなに怖い歌詞だなんて知らなかったんだから……」
「そもそも、七条さんから聞いたのが間違いだったな」
 和希は同情に満ちた眼差しで啓太を見つめた。啓太はぶるっと身を震わせた。
「……うん……凄い迫力だったよ、七条さん……」
「子供の訴えを父親は全く信じなくて漸く彼が異変に気づいたときは子供は死んでしまうという詩だからな。啓太には少しきつかったかもな」
 ポンポンと和希は啓太の頭を叩いた。啓太は、むっと眉をひそめた。
「どうせ俺はまだ子供だよ」
「そんなことは言ってないだろう?」
「じゃあ、そのふやけた顔は何?」
「いや……昨夜のことを思い出したら、ほら……その後のことも、ね」
「……っ……!」
 ポンッと啓太が沸騰した。結局、あれから朝まで和希に付き添って貰ったが、恋人は啓太と違って大人だった……その対応の仕方まで。
「怖くて眠れないと言ったのは啓太だろう?」
 和希が小さく口の端を上げた。
 啓太は、じと~っと和希を睨んだ。お陰で、外の様子が……というより、何もかもわからなくなるまで啓太は散々和希に焦らされ、啼かされてしまった。そして、気がついたら朝になっていた。
「……大人ってずるい」
「啓太も充分、大人だったよ」
「そ、そんなこ――……」
「昨夜は随分、お楽しみだった様だな、啓太」
「わっ!!」
 その言葉に啓太の心臓が跳ね上がった。立ち止まってパッと振り返ると、真後ろに意味ありげな微笑を湛えた中嶋がいた。
「な、何のことですか?」
 出来るだけ平静を装いながら、啓太は返した。中嶋は無言で首の後ろを指差した。啓太は埃でもついているのかと、パタパタと手で襟元を払った。
「その程度で取れる訳がないだろう」
「えっ!? そんなにしっかり付いてるんですか?」
「ああ」
「ごめん、和希、ちょっと取ってくれる?」
 くるっと啓太は背を向けると、深く俯いた。
「……」
 そこを見た和希は気まずそうに頬を掻いた。啓太の白い項に小さな赤い印がついている。そういえば、と和希は思い出した。昨夜、乱れる啓太を背後から抱き締めたとき、愛しさのあまり、そこに強く口づけてしまった。恐らくそのときの痕に違いない。
「啓太、あのさ……」
「うん? 取れた?」
「いや……まだ……」
 中嶋が口を挟む。
「啓太、それは時間が経たないと取れないぞ……キス・マークだからな」
「……!」
 ピキンッと啓太が固まった。
 中嶋は満足げに喉の奥で笑うと、その場から去って行った。硬直して動かない啓太に、和希は恐る恐る声を掛けた。
「啓太……?」
 すると、真っ赤な顔をした啓太がウルウルした瞳で和希を見上げてきた。
「……和希の馬鹿。思い切り中嶋さんに見られたじゃないか。俺、もう恥ずかしくて生徒会室に行けない」
「あ~、いや、別に大丈夫だよ。あの二人は俺達のことを知っているから、そこまで気に――……」
 突然、啓太が和希の右手を掴んだ。素早く袖のカフスを押し上げ、手首の内側の少し柔らかい部分に強く口唇を押し当てる。和希が呆然とそれを眺めていると、やがてチュッと小さな音がして啓太が上目遣いで呟いた。
「なら、和希にも俺と同じ思いを味合わせてやる」
「……」
「和希も恥ずかしがれ」
 してやったりとばかりに啓太は笑うと、パタパタと先に走って行ってしまった。後に一人残された和希は、そっと手首に視線を落とした。はあ、とため息が零れる。
「これは仕返しにならないよ、啓太」
 和希はゆっくり右手を上げると、啓太のつけた痕に嬉しそうに口づけた。可愛い恋人の温もりがまだそこに残っている気がした。
(啓太のお陰で、今日は良い一日になりそうだよ。だから、このお礼はしっかりさせて貰わないとな)
 ゆっくりと……和希は廊下を歩き出した。口元にただならぬ微笑が浮かんでいる。今夜が楽しみで仕方がなかった。まずは午後の予定を変更するよう石塚に連絡しよう。それから、二人分の外泊届けを提出して……

 梅雨も明け、外には雲一つない青空が広がっていた……が、今夜は別の嵐が吹き荒れそうだった。そして、その真っ只中にいる啓太はそんな大人の思惑など露ほども知らず、暢気に食堂の入口で和希を待っていた。



2008.7.4
可愛い啓太を目指しました。
無邪気なのも良いですが、
そろそろ煽るということも学ばないと和希の身が持ちません。

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Café Grace
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