(何をやっているんだろう、俺は……)
 理事長室の椅子に座って外を眺めながら、和希は深いため息をついた。
 ここ最近は色々忙しくて授業も殆ど出られなかった。啓太を起こす日課だけは何とかこなしているが、ただ……それだけ。おはよう。ごめん。それ以外の言葉を啓太と話した記憶がなかった。そんな状態は決して和希の本意ではないが、責任ある地位にいる者として仕事を疎かにする訳にはいかない。啓太もそんなことは望んでいなかった。だから、和希は悪いと思いつつも無意識に啓太が理解している現状に甘えていた。
 それが啓太にどんな思いを強いているのか……考えもしなかった。
 今朝の啓太は何となく元気がなかった。必死にいつもの様に振舞っているが、元々嘘や演技の苦手な啓太に和希を誤魔化せるはずがない。体調が悪い訳ではなさそうなので何か悩みがあるに違いない、と和希は思った。ドアの前で立ち止まって素早く今日の予定を頭に浮かべる。午後なら時間が取れそうだ。啓太、と和希は不意に振り返った。そして、言葉を失った。
「……!」
 啓太が暗い老成した瞳で和希を見つめていた。
 まだ甘えたり、無邪気に遊びたい年頃なのに、和希と付き合うために啓太は物分かりの良い大人になろうとした。それが啓太の心に多大な負荷を掛け、いつしか本来の煌きに濃い影を落としている。俺は、ずっと啓太にあんな顔をさせていたんだろうか……
(そうだとしたら……恋人失格だな)
 そのとき、ノックがして石塚が入って来た。
「失礼します、和希様、コーヒーをお持ちしました」
「ああ……有難う」
 窓を見つめたまま、ぼんやりと和希は答えた。石塚が机にコーヒー・カップを置いた。
「……?」
 仄かに漂う甘い香りに和希が怪訝そうに石塚を見上げた。
「どうぞ」
 穏やかに石塚は微笑んだ。
 ああ、と和希は頷き、ゆっくりコーヒーを口に含んだ。すると、途端に上品な甘みが舌の上に広がった。砂糖ほど角がなく、丸く優しい。しかも、それは飲み込むと同時に淡雪の様にすっと消え、後にはコーヒーの微かな苦味だけが残った。無意識に和希の表情が和らいだ。不思議そうに石塚に尋ねる。
「何を入れたんだ、石塚?」
「コンフィチュールだよ、和希」
 机の向こう側から、ひょこっと啓太が顔を出した。
「啓太!?」
「和希がいつもミルクだけなのは知ってるけど、甘みは疲労感を取り除くだろう? 実際の疲れは消えなくても、気持ちだけでも楽になった方が良いと思って」
「あまり根を詰めるのも良くありませんので、今日は伊藤君をお呼びしました」
 和希の疑問を先読みして答えながら、石塚はしゃがんでいる啓太に手を差し出した。
「有難うございます、石塚さん」
 啓太はそれに掴まって立ち上がった。
「啓太、コンフィチュールなんていつ買ったんだ?」
「ああ、これ? 貰い物だよ、七条さんから」
 ポスンと啓太はソファーに腰を下ろした。石塚からコーヒーを受け取り、早速、その甘い香りを吸い込む。和希が隣に座ると、嬉しそうに話し始めた。
「一昨日、外出先でコンフィチュールの専門店を見つけて、つい買い過ぎたんだって。俺、ジャムなんてパンか紅茶にしか使わないと思ってたのに、フランスでは砂糖代わりに何にでも入れるらしいよ。俺が貰ったのはミルクのだけど、紅茶にもコーヒーにも良く合うって七条さんが言ってた。だから、石塚さんから電話を貰ったとき、それを思い出して一緒に持って来たんだ」
「そうか……有難う、啓太」
 ふわりと和希は微笑んだ。啓太は少し頬を赤らめると、コクリとコーヒーを飲んだ。
「あっ、美味しい」
「伊藤君のカップには多めに入れておきました」
 和希にコーヒーを渡しながら、石塚が言った。すると、啓太が少し複雑な色彩(いろ)を浮かべた。
「どうしたんだ、啓太?」
「うん……何か最近、俺、色々な人からお土産を貰うんだ。成瀬さんは遠征とかで外に行くと必ず買ってくるから別としても、この間は王様から生キャラメルだろう。その次は西園寺さんのクッキー、昨日は中嶋さんがボンボンをくれた。甘いものは嫌いなはずなのに態々俺のために買ったらしいんだ。俺、そんなに疲れてる様に見えるのかな」
「……」
 無言で和希はカップに目を落とした。皆、わかっているのだろう。和希に合わせて一生懸命、背伸びをする啓太の危うさに。心の成熟には時間がかかる。無理をすれば、必ずどこかに歪みが生じる。そういえば、最近、啓太の笑顔を見ていなかった……
(仕事に感(かま)けて、俺は今までそんなことにも気づかなかったのか)
 はあ、と和希はため息をついた。啓太が小さく瞳を伏せた。
(こんなこと聞いても、やっぱりつまらないよな。休憩とはいえ、きっと頭の中では仕事のことを考えてるだろうし……俺、邪魔だよな……)
 寂しそうにコーヒー・カップを揺らす啓太を見兼ねた石塚が和希の代わりに答えた、言外にもう一つの意味を漂わせながら。
「そうではありませんよ、伊藤君」
「えっ!?」
「甘いものを食べている伊藤君がとても幸せそうなので、皆さん、つい買ってしまうのだと思いますよ。本当に見ている私達の方まで温かい気持ちになりますから」
「そうなんですか?」
 はい、と石塚は頷いた。啓太は恥ずかしそうに俯くと、またコーヒーを飲んだ。ほうっと感嘆する。七条さんの言う通りだ。ミルクのコンフィチュールってコーヒーと良く合う。
「気に入った様ですね」
「はい、コーヒーに入れるものってシナモンやチョコレートだけではなかったんですね」
「そうですね。色々試してみると面白い発見があるかもしれません。私はよくバターを入れます」
「えっ!? バターですか?」
 啓太が目を丸くした。
「塩分は味を引き立てますから塩でも良いですが、バターを一切れ入れた方がコクが出るので。今日は伊藤君が持って来てくれたコンフィチュールを入れましたが、昨日はそうして飲みました」
「なら、俺も今度、試してみます」
「はい、是非どうぞ」
「そのときは和希も一緒に――……」
 しかし、その言葉は途中で霧散した。和希はコーヒーに浮かぶ波紋を一人見つめて、何かを深く考え込んでいた。
「あっ、ごめん、啓太……何?」
「ううん……何でもない」
 啓太は小さく首を振ると、コーヒーの残りを一気に飲み干した。石塚にカップを返す。
「それじゃ、俺、そろそろ帰るから……石塚さん、有難うございました」
「あ……」
 和希が微かに声を発したが、呼び止めることはしなかった。やがてパタンとドアが閉まった。石塚が静かに言った。
「このまま、伊藤君を帰してしまって宜しいのですか?」
「……啓太が俺の仕事を気遣っているとわかっているのに、何をどう言えば良い? 俺に出来るのは、せめて今ある問題を少しでも早く片づけることだけだ」
「和希様、仕事というものに終わりがあると思いますか? 少なくとも私はこれまで経験したことがありません」
「……」
 無言で和希は再びコーヒーを見つめた。石塚が短く嘆息した。
「お忘れかもしれませんが、和希様、貴方はこの学園島の最高責任者なのですよ」
「……!」
 ハッと和希は息を呑んだ。
 石塚の最も優れている点は秘書としての能力ではない。思考の檻に囚われた和希を解放するために社会規範を臨機応変に持ちいる、この柔軟性にこそあった。
「有難う、石塚」
 さっと立ち上がると、和希は部屋を飛び出した。全速で廊下を走って啓太の後を追う。角を曲がると、エレベーターに乗ろうとする啓太の姿が見えた。そのドアが閉まる直前、和希は中に滑り込んだ。
「和希!?」
 驚く啓太を和希は片手で引き寄せると、勢いのままに口唇を重ねた。その強引さに啓太が無意識に和希の胸を押しやったが、和希は空いている方の手で啓太の右手首を捉えて動けなくしてしまった。
「……待っ……ん……っ……」
 息苦しさに啓太が声を上げると、口中を更に深く貪られた。和希の熱い舌の感触に頭の芯が痺れてくる。身体に力が入らない。いつしか啓太は無心になって和希を受け入れていた。
「……っ……啓太……」
 甘い吐息と共に和希が囁いた。啓太はうっとりと和希を見上げた。
「ごめん、今まで無理をさせて。もう俺の仕事のことは気にしなくて良いから」
「いきなり……何を……?」
 まだぼんやりしている頭で啓太は呟いた。和希は掴んでいた右手を離すと、優しく啓太の頬を撫ぜた。
「寂しかっただろう、啓太? 俺は啓太にあんな顔をさせてまで仕事はしたくない。だから、もう啓太は俺の仕事に気を使わなくても良い。もっと俺に我儘を言って良いから」
「……そういう訳にはいかないだろう? 和希はここの理事長で……研究所長でもあるんだから」
「ああ……でも、だからこそ、俺にはそれが出来るんだ。俺はこの学園島の最高責任者だから、自分で総ての責任を取る覚悟さえあれば何でも自由なんだ。今日の予定は総てキャンセルした。これからずっと……明日の朝まで一緒にいよう、啓太」
「駄目だよ、和希」
 啓太は小さく首を振った。
「そんなことしたら石塚さんが困るだろう?」
「これは石塚が言ったことなんだ。石塚は先の見通しが立たないことを口にしたりはしない。俺が半日、休んでも問題ないと判断したからそう言ったんだ」
「でも、そんなことしたら今度は和希が困るだろう? また仕事を溜めることになるんだから……」
「確かにね。でも、先刻も言っただろう? 責任を取る覚悟さえあれば、俺は何でも自由に出来るんだ。俺には啓太以上に大切なものは存在しない。啓太の笑顔を護るためなら、何を犠牲にしても構わない。それで生じた結果なら、俺は喜んで受け入れる。だから、もう啓太は無理をしなくて良い。もっと俺に甘えて良いんだ」
「……和希……」
 大きな二つの蒼穹が潤んだ様に揺れた。啓太は和希の胸にコツンと額を当てた。
「有難う、和希……でも、和希は間違ってる」
「えっ!?」
 啓太を抱き締めようとした和希の動きが止まった。啓太は真っ直ぐな瞳で和希を見上げた。そこには一点の曇りもない。
「自由なのは誰でも一緒だよ。和希だけじゃない。俺も、王様も、西園寺さんも、誰でも皆、自由に何でも出来る。でも、それは決して無軌道に振舞っても良いってことじゃない。自由である代わりに俺達の行動にはいつも責任がついて回る。確かにその結果に束縛されることもあるけど、責任を放棄したら、それはもう自由じゃない。和希は、ここの最高責任者だろう? だったら、自由の意味を取り違えたら駄目だ。俺は、そんなことは望んでない」
「……啓太……」
 そうだった、と和希は思い出した。啓太は昔から物事の本質を知っていた。だから、強い。何があろうとも、その啓太が歪むことなどあり得なかった。
(一体、俺はどこまで啓太に甘えているんだろう。啓太がいなくなったら、俺は本当に駄目になってしまう)
「ごめん、啓太」
 和希は素直に謝った。うん、と啓太は言った。
「でも、俺、嬉しかった。和希の言う通りだから……ずっと寂しかった」
「啓太……」
「俺がもっとしっかりしてれば和希を心配させなくて済むけど、俺、まだ和希が傍にいないと駄目だから」
「それは俺も同じだよ、啓太」
 優しく微笑む和希に啓太が嬉しそうに身を寄せた。
「仕事……あとどのくらい掛かるんだ?」
「う~ん、そうだな……今のペースでいけば、週末には一息つけると思うよ」
「なら、それまで待ってる……バター入りのコーヒーを用意しておくから」
「ああ、楽しみにしているよ。それまで俺は啓太の持って来たコンフィチュールの香りに癒して貰うよ」
「うん」
 健気に啓太は頷いた。それから……躊躇いがちに小さく尋ねた。
「和希……まだ時間ある?」
「ああ」
「なら……下まで送って」
「勿論、そのつもりだよ。他に俺にして欲しいことはある、啓太?」
 和希がそう訊くと、啓太はさっと目を逸らした……が、耳が赤くなっているので何を考えているかは火を見るよりも明らかだった。クスッと和希が笑った。
「啓太……言ってくれないと、わからないよ?」
「……」
 恥ずかしそうに啓太は恋人を見つめた。和希がゆっくり顔を寄せると、誘う様に瞳が閉じられた。消え入りそうな声で囁く。
「……もう一度……キスして」
「喜んで……」
 そして、和希は啓太に口づけた。

 あのときの気持ちを忘れなければ良かった。そうしたら、きっとこんなことには――……



2008.8.15
コンフィチュールとはフランス語でジャムのことです。
たまには気分を変えて、
こんなコーヒーの飲み方も楽しいです。
ミルクと砂糖はお好みでどうぞ。

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Café Grace
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