二日後、和希が巧く説明してくれたのか、生徒会室に来た啓太に中嶋は何も尋ねなかった。啓太もその話題には敢えて触れず、いつもの様に仕事を始めた。野球部の対外試合の結果を入力して、水泳部の遠征予算の申請書類に不備がないか確認する。
「……!?」
  パラパラと頁を繰った。添付すべきプールの資料がない。提出期限は今日なので、今から差し戻していたら間に合わなかった。啓太はチラッと時計に目を走らせた。
(確か去年の国体と同じ場所だったはず……)
「俺、ちょっと図書室に行ってきます」
「お前は人が良過ぎだ、啓太」
  意図を察した中嶋が呆れた様に呟いた。しかし、それに対する啓太の答えは意外なものだった。
「そうでもないですよ。結構、無能な人には苛々しますから」
「……」
「それじゃ、行ってきます」
  啓太はふわっと微笑んだ。

  図書室へ続く渡り廊下は既に秋風に満ちていた。啓太は向かいにあるサーバー棟を仰ぎ見ながら、一人静かに恋人を想った。
(和希……今頃、何やってるんだろう)
「こんにちは、伊藤君」
「あ……加賀見さん」
  啓太はペコリと頭を下げた。
  新しい副理事長の加賀見はとても人当たりの良い人物だった。元は社長秘書なので和希と啓太の関係を知っているが、いつも偏見なく接する加賀見を啓太は嫌いではなかった。
「生徒会のお仕事ですか? 毎日、忙しそうですな」
「いえ、それほどでもないです。加賀見さんはこれからサーバー棟へ行くんですか?」
「はい、今日は理事長はんがいらはりませんから」
「えっ!? だって、今日は午後から……」
「お見えにならはりましたよ、確かに。ですが、直ぐ研究所の方へ行かれはりました。何でも興味深い結果が上がってきたゆうてはりましたな」
「……そうですか」
  ツキンと胸が痛んだ。
「それじゃ、俺、急ぎますから……」
  啓太は小さくお辞儀をすると、パタパタと図書室に入って行った。それを加賀見は観察する様な冷たい瞳で見ていたが、直ぐにサーバー棟へ向かって歩き出した。
  ……パタン。
  背中でドアを閉めると、啓太は大きく息を吐いた。
(ちょっと不自然過ぎたかな)
  啓太は加賀見に少し悪いことをした気がした。しかし、加賀見には用心しろと和希から強く言われているので、啓太は長話をしない様に気をつけていた。そうでなくとも、考えが直ぐ顔に出てしまう。加賀見は良い人だとは思うが、正直、和希以外の者にまで色々詮索されたくはなかった。
(早く資料を持って帰ろう)
  啓太は書架の間を歩き始めた。以前にもこれと似た調べ物をしたことがあるので、そのときの記憶を頼りに棚を探すとそれは直ぐ見つかった。
「あった……けど、これじゃあ……」
「お困りの様ですね」
  棚を見上げている啓太に七条が声を掛けてきた。啓太は恥ずかしそうに振り返った。
「はい、資料を取りに来たんですけど、ちょっと届かなくて」
「なら、僕が取ってあげますよ。どれですか?」
「有難うございます。あれなんですけど……」
  啓太は一冊の年鑑を指差した。啓太も決して背が低い訳ではないが、ここの本棚は高いので最上段までは手が届かなかった。七条は易々とそれを抜き取り、啓太に差し出した。
「はい、どうぞ」
「有難うございます、七条さん」
「伊藤君、以前、苺のタルトを食べに行こうと約束したのを覚えていますか? 宜しければ、今度の日曜日にでも一緒に行きませんか?」
「日曜、ですか?」
  少しの間、啓太は考えた。最近は日曜日も研究所へ行っているが、今週はまだ和希から何も言われてはいなかった。
(一日くらいなら良いよな。七条さんとは前にした約束があるんだから)
「はい、喜んで」
  啓太は頷いた。良かった、と七条は微笑んだ。
「外出は久しぶりの様ですね?」
「はい、だから、凄く楽しみです。俺が最後にあの橋を渡ったのは……え~と、いつだったかな」
「おやおや、そんな仙人の様な暮らしをしていたんですか? いけませんね。では、その日は二人で思い切り羽を伸ばしましょう。他に何かしたいことはありますか?」
「良いんですか!? なら、俺、行きたい処があるんです! 前に和希と外出したときに……あっ!!」
  いきなり啓太は床に跪くと、下段の端に無造作に置いてある古そうな本を引っ張り出した。啓太は嬉しそうに七条を見上げた。
「俺、この本、探してたんです! 誰かがきちんと元の棚に戻さなかったらしくて。ここ、かなり蔵書量があるから違う場所に置かれるとなかなか出て来ないんですよね。書架整理のある春まで見つからないと半分、諦めてました。良かった。まさかこんな処で見つかるなんて」
「伊藤君は本当に運が良いですね」
「はい」
  にっこりと啓太は笑った。
  カウンターで貸し出し手続きを済ませると、啓太は七条と一緒に図書室を出た。道すがら、二人で週末の計画を色々と話し合った。まだ行ってもいないのに、啓太は随分と楽しそうだった。いけませんね、と七条は思った。
  夏季休暇の間も啓太は自宅に一週間ほど帰っただけで、後は殆ど学園島にいた。勿論、恋人である和希と離れていたくないというのもあるだろう。しかし、それだけではないことに七条は気づいていた。
  三ヶ月前から、学園内の警備体制が格段に強化された。特に啓太の傍にいると、有人・無人を問わず、不躾なほど視線を感じた。以前から多少はあったが、啓太は――本人にその自覚はなくとも――人目を惹くので、七条はその意味をあまり深く考えてはいなかった。じっと啓太を見つめる。
(やはりあの一件が大きく関与しているのは間違いないですね。一体、どんなウィルスなんでしょうか。『鈴菱』ほどの企業がここまで執着するものとは。少し興味をそそられます。ですが、この状態はいけません。伊藤君をここに閉じ込めて、まるで試料の様に観察するのは。研究も大切ですが、遠藤君はもう少し伊藤君の心のケアに気を配る必要がありますね)
「あ……じゃあ、七条さん」
  啓太は曲がり角で立ち止まった。七条は温かく微笑んだ。
「はい、では、日曜日を楽しみにしています」
「俺もです。それじゃ、失礼します」
  そこで二人は左右に分かれた。途中で一度、啓太は振り返って七条に大きく手を振った。その可愛らしい様子に七条は、日曜日は最高の日にしましょう、と心に決めた。

  その晩、啓太は初めて和希と口論になった。
「駄目だよ、啓太、日曜日は研究所へ行かないといけないんだから」
  困ったな、と和希は頬を掻いた。それまでベッドに座って楽しそうに話をしていた啓太は、途端に表情を曇らせた。
「でも、今まで何も言わなかったじゃないか、和希」
「言わなくてもわかると思ったんだ。ここ最近、ずっと向こうへ行っているから。仕方ない。七条さんには俺から断っておくよ」
「どうして……どうして断らないといけないんだ! 七条さんとは三ヶ月も前から約束してたのに!」
「覚えているよ。俺もその場にいたからね。でも、そんなことよりこれの方が大事なのは啓太にもわかるだろう? 苺のタルトなら俺が用意しておくから。ねっ、啓太?」
  和希は啓太に近寄り、頭を撫でようとした。しかし、その手を啓太はパシッと払った。痛そうな顔で和希を見上げる。
「違う! 俺はそんなのが欲しいんじゃない!」
「わかっているよ、啓太……でも、今は辛くとも我慢して欲しいんだ。時間なんて、あっと言う間に過ぎてしまうんだよ。啓太がこの学園を卒業したら、こうは出来ない。同じ敷地内に学校と寮と研究所がある場所なんて他にはないんだ。研究は今がまさに最良の時期なんだよ。それは、啓太もわかっているだろう?」
「だけど……!」
  啓太はキュッと掌を握り締めた。
  確かに自分の置かれた状況を考えれば、遊びに行きたいと我侭を言って時間を浪費すべきではなかった。しかし、和希の言葉は啓太の思う意味とは少し違う気がした。それが啓太には納得出来なかった。
  和希は啓太を優しく抱き寄せ、噛んで含める様に更に言い聞かせた。
「俺も啓太に七条さんとの約束を反故にはさせたくない。でも、これは啓太を護るために必要なことなんだ。いつ、何が起こるかわからないだろう? 俺は、もうあんなふうに苦しむ啓太を見たくない。だから、その前に少しでも多くの情報が欲しいんだ。身勝手な理由かもしれないけれど、俺は啓太を愛しているからこそ、宿主の何たるかを知りたい。いや、愛しているからこそ、知らなくてはならならないんだ。それをわかって欲しい、啓太……愛しているんだ」
「……わかったよ、和希……」
  それは今にも消えそうな声だった。和希は満足げな微笑を浮かべると、静かに啓太をベッドに押し倒した。軽く口唇を重ねる。
「有難う、啓太、愛しているよ」
「……俺も……愛してるよ、和希……」
  そして、啓太は瞼を閉じた。

  月明かりの中で啓太の白い肌を愛撫しながら、和希は今後の研究に思いを馳せていた。
  この三ヶ月間の観察結果を見る限り、啓太には過去の宿主が持っていた強烈なカリスマ性の発現はなかった。確かに啓太は無意識に人を惹きつけるが、それは啓太の人となりによるものだった。啓太の傍はとても居心地が良い。安らげる。だから、常に華のある生徒達に囲まれ、それが結果的に啓太を光の中心に据えていた。
  しかし、新しく出た検査結果がそこに一つの疑問を投げ掛けた。
  固有振動数がテラヘルツ光の領域にまで達しているということは、啓太は身体から常に電磁波を発していることを意味していた。生命活動を行うということは即ち、振動していることだから。テラヘルツ光はX線などと比べて生体へ与える影響は遥かに小さいが、磁気や電磁波がそれを構成する物質の分子や原子の状態に変化を与えることは科学的にも明らかだった。
  誰もが啓太に惹かれることと、啓太が宿主であることは全く関連がない……和希には、もうそうとは言い切れなかった。
「……」
  淡く光を放つ綺麗な身体を、改めて和希は見つめた。
  生命活動と精神現象における磁気や電磁波の関与を解明することは、現代科学の最終到達点の一つでもあった。その鍵となるかもしれない存在が、今、ここにいた。自分の腕の中に。それを思うと、和希の内に快感にも似た強い興奮が湧き上がってきた。
(全く……これでは幾ら時間があっても足りないな)
  啓太の首筋に顔を沈めながら、和希は密かに微笑を深めた。啓太が呟いた。
「和希……」
「何、啓太?」
「……ううん、何でもない……」
  和希の背に細い腕を回して、啓太はキュッとしがみついた。愛しているよ、と和希が耳元で囁いた。うん、と啓太は頷いた。
(わかってるよ、和希、わかってる……でも、遠いよ……和希は、こんなにも俺の傍にいるのに……)
  すっと涙が頬を伝った。しかし、それはすぐさま喜悦の声と混ざって和希の目には留まらなかった。


2008.9.19
加賀見の京都弁は
滝の関西弁同様に良くわかりません。
ちなみに、加賀見が標準語で話すのは和希パパだけです。
ああ、この二人の関係って……

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Café Grace
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