翌日、まだ啓太が寝ている間に和希は七条にさっさと断りの電話を入れてしまった。それを知った啓太は、起こしてくれれば良かったのに、と剥れた。和希がふわふわと頭を撫でた。
「良く眠っていたからな。大丈夫。俺が丁寧に謝っておいたよ」
「……有難う……」
「啓太、暫く会計室に行ったら駄目だよ。また別の約束をさせられるかもしれないからな」
「……うん……」
  啓太は小さく頷いた。
  それは暗に、七条とは話すな、という意味だった。一方的に約束を反故にしておいて自分から何も言わないのは良心が咎める。しかし、嫌な役回りを務めた和希はもっと辛かったはずだから、と啓太は我慢することにした。
(本はと言えば、気が利かなかった俺が悪いんだ)
  そして、七条と約束をした日曜日……啓太は和希と一緒に研究所へと向かった。

「う~、何だかネクタイが曲がってる気がする」
  研究所の廊下を歩きながら、啓太が唸った。和希がクスッと笑った。
「大丈夫だよ、啓太、そんなに緊張しないで。本当に、いつまで経っても啓太はここの雰囲気に慣れないな」
  だって……と啓太は口籠もった。
  研究所にいるのは、当たり前だが、大人ばかりだった。その中で、まだ子供の域を脱し切れない啓太の存在は酷く浮いていた。せめて一緒にいる和希が恥をかかない様に服装だけはきちんとしようと思い、私服ではなく制服を着ているが、あまり効果はなかった。それに……
  啓太はそっと和希を見上げた。白衣を着た和希は背広姿とはまた違う、知的な雰囲気を醸し出していた。理事長室にいるときも格好良いけどさ……
  つい見惚れてしまった啓太の耳元で和希が低く囁いた。
「啓太、そんな瞳で見つめられると俺の理性が持たないんだけど?」
「……!」
  ポンッと啓太は赤くなって立ち止まった。
  和希は悪戯っぽい微笑を浮かべながら、制御室の入口近くにある生体認証識別装置に右手をかざした。ここは掌の静脈が鍵となっている。暫くして、ドア・ロック解除の緑のランプが点灯した。啓太、と軽く振り返る。
「あ……うん」
  気を取り直した啓太も和希の後に続いて認証を得た。そして、二人は中へ入った。
  そこは大きな機材と沢山のモニターがある部屋だった。既に数名の技術者が何かの作業をしている。彼らは二人を見ると、小さく会釈した。和希は軽く頷き、啓太はペコリと頭を下げた。直ぐにどこからか男が現れて和希にファイルを渡すと、小声で何かを話し始めた。啓太には見向きもしない。啓太は会話の邪魔にならない様に少し和希から離れた。
「……」
  チラッと啓太は左にある金属製のドアに視線を走らせた。
  その奥には外部磁場を完全に遮断する特殊な実験室があった。最近、啓太はその中で過ごすことが多かった。読書をしたり、ゲームをしたり、食事をしたり。提出課題をしたこともあった。日常生活における様々な状況を再現して、その際の啓太の精神状態と身体から発する電磁波を記録する。和希は生物・科学双方から調べることで宿主とは何かを徹底的に解明する気のようだった。
(またあそこに入るのかな)
  啓太は和希の言葉にいつも素直に従ったが、小さな窓さえないあの部屋の中にずっと一人でいるのは本当は嫌だった。寂しいし、何だか息が詰まる。尤も、閉じ込められている訳ではないので休憩や昼食などで外に出て来るのは自由だった。しかし、研究員達は啓太と過度の接触は禁じられていた。和希はこの制御室と地下の生物ラボとの間を行き来しているので、タイミングが合わなければ帰寮するときまで誰とも口をきくこともない。人懐こい啓太には、それが最も応えた。
(だからって、いつまでも和希に甘えてたら駄目だ。これは総て俺のためなんだから……!)
「今日は何をするんだ、和希?」
  二人の話が終わったので、啓太は明るく和希に尋ねた。和希は受け取ったファイルを開くと、僅かに顔を顰めた。
「あ……まずは定期検査かな」
  それは心電図検査と採血を意味していた。
  Kウィルスが活性化する際、啓太は強度の貧血状態に陥った。それは感染の初期症状と一緒だが、和希の推測によると、宿主の身体を死に近づけることによって同化し易くするためだった。しかし、それは同時に心臓に大きな負担を掛けた。その後、更に和希への直接輸血や抗血清を合成するための採血が追い討ちをかけ、とうとう啓太は心原性ショックを起こしてしまった。あれから三ヶ月近くが経ったとはいえ、啓太の循環動態はまだ不安定な恐れがあった。そのため、二週間に一回、これらの検査を行っていた。
  わかった、と啓太は頷いた。内心、少し嬉しかった。今日はもう暫く和希と一緒にいられる……!
  二人は右にある小さな別室へと移動した。
  そこには既に医師と看護師が待機していた。手短に挨拶を済ませると、早速、啓太はベッドに腰を下ろした。和希はいつもの様に入口近くの壁に寄り掛かる。
「……」
  実は和希はこの心電図検査が嫌で嫌で堪らなかった。生物学的な知識はあるが、医療行為は自分には許されない。その歯痒さをこのときほど痛感させられることはなかった。
  啓太がシャツのボタンを外し、白い胸も露にベッドに横たわった。すると、看護師が電流を計り易くするためのクリームを直ぐに塗り始めた。啓太の敏感な肌を女の濡れた手が撫で回す。心臓のある左胸を中心に指が小さな飾りを軽く掠めたり、掌全体で触れてゆく。啓太は無表情を装っているが、何かを感じるのだろう。時折、微妙な表情を浮かべた。それが酷く和希を苛立たせた。穏やかな瞳に徐々に嫉妬と怒りが入り混じってくる。
(医師免許を取らなかったのは失敗だった! そうすれば、誰にも啓太の肌に触れさせはしなかった!)
  看護師に他意がないのはわかっているが、我知らず、和希は拳をきつく握り締めていた。
  啓太は胸部に六個の丸い吸盤状の、両手首と両足首に大きなクリップ状の電極をつけられた。そして、三十秒ほど心電図を記録すると電極は外され、クリームはまた看護師の手によって丁寧に拭き取られた。啓太が身を起こしてボタンを掛けると、漸く和希の腕から力が抜けた。
(啓太に関しては心が狭くなると自覚はしていたが、これはもう重症だな)
  和希は密かに自嘲すると、心電図の波形を見ている医師に目を向けた。
「状態は?」
「特に異常は見られません」
「そうか……」
  和希は、ほっと胸を撫で下ろした。そろそろ月に一回の検査でも良いのでは、と医師が提案した。しかし、和希は首を横に振った。
「駄目だ。時間の制約上、今は最低限の検査しか出来ない。その回数まで減らして、もし、啓太の身に万が一のことが起きたら、取り返しがつかない。もう暫くこのままでいく」
「わかりました」
  医師は頷いた。二人は血液検査の結果を見ながら、更に今後の検査方針について話し合い始めた。
  一方、啓太は左袖を捲り上げると、採血道具が置いてある机の前の椅子に座った。看護師が啓太の上腕部に駆血帯を巻くために少し身を乗り出した。一瞬、二人の目が合う。啓太は先刻の心電図検査を思い出したのか、照れた様に微笑んだ。さっと彼女は頬を赤らめた。看護師にとって、あれは日常業務の一環に過ぎなかったが、相手に変に意識されると何だか自分まで恥ずかしくなってくる。彼女は慌てて顔を逸らすと、肘の内側をアルコール綿で素早く消毒した。皮膚を軽く手前に引いて伸展させ、静脈を動き難くしてから採血針を穿刺(せんし)する……が、その途端、啓太の顔が苦痛に歪んだ。
「……!」
  指先から伝わる拍動にハッとして、看護師は急いで針を引き抜いた。すると、啓太の腕から鮮血が噴き出した。
「君!」
「啓太っ!!」
  医師と和希が同時に叫んだ。すぐさま医師が駆け寄り、止血処置を施す。看護師が、申し訳ありません、と頭を下げた。しかし、和希はまだ燻っていた嫉妬と相俟って彼女に怒りを爆発させた。
「君は動脈と静脈の区別もつかないのか! もし、誤って正中神経を傷つけていたら、どうする!」
「も、申し訳ありません」
「和希、俺なら大丈夫だから」
  咄嗟に啓太は和希を宥めようとした……が、それは返って逆効果だった。彼女を庇う様に見える啓太の言動に和希の瞳は更に深い緑に染まった。
「大丈夫な訳ないだろう! 啓太は世界に一人しかいない、貴重な身体なんだ! これが元で感染症にでも罹ったら、どれほどの時間を失うと思うんだ! 今後の研究への影響も計り知れない! たかが血液検査にそこまでのリスクは絶対に懸けられないんだ! そんなことは、もう言わなくてもわかるだろう、啓太!」
「……うん……」
  啓太は小さく瞳を伏せた。心なし、泣きそうに見える。そんな啓太を見て、漸く和希はいつもの冷静さを取り戻した。はあ、と深い息を吐く。
「……ごめん。強く言い過ぎた。啓太は何も悪くないのにな。痛むか?」
「……大丈夫……」
「良かった」
  和希は微笑んだ。そして、啓太の髪を撫でながら、優しく教え諭す様に言った。
「啓太は絶対に怪我も病気もしては駄目だよ」
  うん、と啓太は呟いた。やがて手当てを終えた医師が和希の方を向いた。
「和希様、動脈を損傷していますので血腫が出来るかもしれません。今日の採血は午後の方が宜しいかと。その際に、もう一度、傷の様子を診たいと思います」
「ああ、そうしてくれ」
  和希もそれに同意した。看護師がまた頭を下げた。
「和希様、申し訳ありません」
「……いや、私も少し大人げなかった。午後はしっかりと頼む」
「はい」
  医師と看護師は目礼すると、静かに部屋から出て行った。
「……」
  啓太は無言で和希を見上げた。いつも和希の瞳は深い海の様に啓太を包み込み、安らぎを与えてくれた。しかし、今はそこに温もりを感じられなかった。先刻の言葉が心に浮かぶ。
「……啓太は世界に一人しかいない、貴重な身体なんだ……』
(だから、俺は怪我も病気もしたら駄目なんだ……宿主だから……)
  視線に気づいた和希が首を傾げた。
「何、啓太?」
「和希……俺のこと、好き?」
「ああ、勿論、好きだよ。今、この瞬間も俺は啓太を愛している」
「……」
「啓太、俺が必ず宿主の総てを明らかにしてあげる。だから、啓太は何も心配しなくて良い。でも、そのためにはどうしても啓太の協力が必要なんだ」
「……うん……わかってるよ、和希……」
(俺は世界に一人しかいない、貴重な宿主だから……)
  そのとき、啓太の何かが揺らいだ。まるで古いレコードにそっと針を置いた様な温かい沈黙が頭の中に満ちてゆく。その心地良い流れに身を任せて啓太は瞳を閉じた。和希の手が優しく啓太の顎を捉える。
「愛しているよ、啓太」
「……」
  啓太は何も答えなかった。ただ……静かに和希の口唇を受け入れた。


2008.10.3
黒くなるにつれて嫉妬も強くなってしまった和希。
もう……馬鹿って感じです。
ところで、和希の専門は何かな。
免疫学辺りが無難だと思いますが。

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Café Grace
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