和希は廊下を走りながら、携帯電話で石塚を呼び出した。
「石塚! 至急、啓太の現在位置を丹羽君と西園寺君に知らせて啓太を確保させろ! だが、警備の者は絶対に近づかせるな! 啓太が暴走する恐れがある!」
『わ、わかりました!』
 石塚の声が上擦った。暴走……それは和希が最も危惧していたことだった。
 暴走についての記述は過去に幾つかあったが、宿主は百年の間に一人か二人しか現れないので、未だに学術的な検証が成されていなかった。しかし、そこにはある共通点があった。暴走する直前、誰もが人格に何らかの異常を来(きた)していた。
(人格破綻の原因は過ぎた力に意思が堪え切れなくなったからだと考えていた。だが、他の可能性も考慮すべきだった! 啓太は、ウィルスは宿主と意思を共有する、と言った。それが記憶にまで及ぶとしたら! 何らかの理由で記憶の混乱が起こり、異常行動を取っていたとしたら……!)
 所長室に入るや否や、和希は脱ぎ捨てた白衣を椅子の上に放り投げた。机の右の引き出しから黒い箱を取り出し、中身を鷲掴みにする。もし、この推測が正しければ、啓太はかなり危険な状態だった。
(『鈴菱』がウィルスを入手したのは大戦末期のドイツ。恐らく前の宿主はドイツ人か、ドイツ語圏に居住していた可能性が高い。啓太が知らないはずのドイツ語を話したということは、記憶の混乱は既に始まっている!)
「待ってろ、啓太!」
 和希は制服に着替えることも忘れ、急いで部屋を飛び出した。

 木立に隠れていた男は小さく息を呑んだ。啓太がこちらへ近づいて来る。先ほど秘書に現在位置を報告したとき、決して接触するなと厳命された。その指示に従い、直ちにこの場から退避しろと理性が警告している……が、身体が全く動かなかった。
 啓太は艶やかな赤い口唇に微笑を浮かべて、ただ男を見つめていた。
 いつも遠目だったので気づかなかったが、その危うい色香はとても子供のものとは思えなかった。いや、成長途中の今だからこそ持ち得るのかもしれない幽玄の美。しかも、なぜか身体が淡く光って見えた。それが一種の神々しさをも啓太に付与し、男は僅かも視線を逸らすことが出来なかった。やがて……この世の者とは思えない蠱惑的な声が聞こえてくる。
”Küssen Sie mich bitte……”
「……君……」
 男にその言葉は理解出来なかった……が、啓太の口唇が薄く開いたので意味はわかった。キスして下さい……
 啓太はしなやかに男へ腕を伸ばした。優しく胸の線をなぞりながら、両肩に手を置く。ふわっと微笑むと、男の喉が小さく鳴った。啓太はその瞳を捉えたまま、無防備な首を一気に絞め上げようとして――……
「駄目ですよ、伊藤君、見知らぬ人にキスを強請るなんて」
 七条の言葉に身体が凍りついた。続いて中嶋が言う。
「啓太、キスが欲しいならいつでも俺がしてやる」
 ハッと我に返った男は乱暴に啓太の手を振り解くと、慌てて後ろへ下がった。啓太はキッと二人を睨みつけた。お前達は関係ない。邪魔するな!
”Sie sind nicht wichtig.Stören Sie mich nicht!”
 蒼い瞳にチリチリと怒りが燃え上がった。
「やれやれ、困りましたね」
 七条は、ゆっくり啓太の右側へ移動した。
「それで、俺が大人しく引っ込むと思うか?」
 冷たく啓太を見据えながら、中嶋は左へと足を運ぶ。二人に挟まれ、啓太はギリッと奥歯を噛み締めた。
(どうして……どうして邪魔するの? こいつらが俺から和希を奪ったのに!)
 そのとき、啓太の遥か前方から西園寺がこちらへ向かって来るのに気がついた。更に奥には丹羽の姿もある。それを見て、不意に啓太の頭にある考えが閃いた。しかし、それは今まで培ってきた信頼の総てを裏切るものだった。躊躇わずにはいられない。でも……
 啓太は拳を握り締めた。三方を敵に囲まれ、残る唯一の逃げ道も塞がれるのはもう時間の問題だった。俺は……こんな処で捕まる訳にはいかない!
「……っ……!」
 突然、啓太が走り出した。素早くそれに反応する中嶋と七条……が、腕を掴もうとした瞬間、啓太が強く発光した。
「……っ!!」
 思いがけない光に二人は目が眩んだ。その隙に啓太は真っ直ぐ西園寺を目指す。中嶋が叫んだ。
「丹羽!」
「任せろ!」
 既に西園寺の前に立ちはだかっていた丹羽は両手を大きく広げた。すると――……
「にゃあ」
「うわっ!!」
 猫の鳴き真似に怯んだ丹羽の横をすり抜け、啓太は驚く西園寺の背後を取った。左腕を細い首に回して右腕を十字に重ね……緩く絞めつける。
「郁!」
”Nähern Sie sich mir nicht bitte!Nä……”
 啓太は小さく頭を振った。違う! これは俺の言葉じゃない!
「ち、近寄らないで下さい! 近寄らないで……」
「啓太!」
 丹羽が啓太へ手を伸ばした。しかし、途端に啓太の腕に力が加わり、西園寺が苦しそうに顔を顰めた。ピタッと丹羽の動きが止まった。七条が、いつもの様に優しく啓太に話し掛けた。
「伊藤君、落ち着いて下さい。僕達ですよ? わからないんですか?」
「どうして……どうして邪魔するんですか! あいつらが俺から和希を奪ったのに!」
 啓太は今にも泣きそうな顔で叫んだ。西園寺を人質に、じりじりと後ずさる。
「遠藤なら、もう直ぐここに来る! だから、郁ちゃんを放せ、啓太!」
「嘘だっ!!」
 二つの蒼穹に激しい憎悪が浮かび上がった。再び啓太の言葉が混乱してきた。
「なら、あいつらをどうする気だ、啓太? 殺すのか? 先刻の男にしようとした様に」
 中嶋が静かに尋ねた。すると、啓太の口元が妖艶に歪んだ。勿論です。あいつらは俺から和希を奪った。俺はあいつらを絶対に許さない!
”Natürlich.Sie nahmen Kazuki von mir.Ich vergebe ihnen nie!”
「成程……お前にそこまでの覚悟があるなら、啓太、俺が手を貸してやろう。丁度、退屈していたところだ。そいつの代わりに俺を連れて行け」
「やめろ、中嶋! 今の啓太に、正常、な判断……は出来ない。遠藤を待て!」
 西園寺が途切れ途切れに言った……が、中嶋は僅かに口の端を上げただけだった。クスッと啓太が笑った。俺が貴方を信じると思いますか?
”Denken Sie,daß ich an Sie glaube?”
「信じる、信じないはお前の自由だ。だが、そんな体力のない奴を人質にしても足手纏いになるだけだ。逃げられはしない。お前はいずれ必ず奴らに捕まる」
”……”
 確かに今の状況で非協力的な者を連れて逃げるのは厳しかった。たとえ、この場は何とか切り抜けられたとしても、後が続かない。戦力的に考えれば、これは自分にとって有利な申し出と言えた。でも、と啓太は思った。貴方が俺を裏切らないという保障はあるだろうか?
”……Gibt es die Sicherheit,daß Sie mich nicht verraten?”
「そんなものはない……が、敢えてあげるなら、お前の目だ。俺は、お前が俺を退屈させない限り、裏切らない。俺の性格は良く知っているだろう、啓太?」
”……”
 啓太は無言で中嶋を見つめた。やがて西園寺をトンッと向こうへ押しやり、中嶋に手を差し伸べる。一緒に来て下さい。
”Kommen Sie bitte mit mir.”
「良いだろう」
 中嶋は啓太の処へ行くと、直ぐに何かを耳元で囁いた。啓太は小さく頷いた。
「つくづく呆れた人ですね、貴方は」
 七条は少し蒼ざめた西園寺を後ろに庇いながら、中嶋を睨みつけた。中嶋がすっと眼鏡を押し上げた。
「恩を仇で返すとは犬以下だな。貴様の主人を助けてやったのだから感謝くらいしたらどうだ?」
 そして、啓太に目で合図を送った。啓太はタッと走り出した。その背中を護る様に中嶋も後へと続く。丹羽達はその場に留まり、ただ静かに二人を見送った。
 和希が到着したのは、その数分後だった。素早く辺りを見回す。
「啓太は?」
「逃げた。だが、中嶋と一緒だから暫く大丈夫だろう」
 その場を代表して丹羽が答えた。すると、和希は厳しく丹羽を睨みつけた。
「大丈夫な訳ないだろう! 既に人格が綻び始めている! 早く確保しなければ、貴重な身体を失うことになるんだ!」
「お前……!」
 その言葉に丹羽はもう少しで和希を殴りそうになった……が、辛うじて拳を握って堪える。代わりに七条が冷たい声で和希に尋ねた。
「貴重な身体とは伊藤君のことですか?」
「……!」
 ハッと和希は息を呑んだ。今、俺は啓太をそんなふうに呼んだのか……?
 一瞬、胸の奥を動揺が駆け抜けた。しかし、続く七条の言葉に和希は直ぐにいつもの冷静さを取り戻した。
「伊藤君がかなり特殊なウィルスに感染していることは知っています。それについて詳しく詮索する気はありません。でも、伊藤君は貴方の恋人でしょう。その人を、いつから貴方は研究試料の様に扱っているんですか?」
「俺は啓太をそんなふうに扱ってはいない。確かに啓太を研究はしている。だが、それは啓太を愛しているからこそ、啓太を護るためにしていることだ。啓太の置かれている状況は君達が想像する以上に、日々深刻になっている。だから、俺は啓太が学園島にいられる内に少しでも研究を進めなければならない。延いてはそれが啓太のためになると信じている。啓太に多少の無理を強いることは俺もわかっている……が、情に流されて、この機を無駄にすることは絶対に出来ない」
「貴方は、まだそんな――……」
「そこまでだ!」
 二人の間に丹羽が割り込んだ。今はそんなこと言い争ってる場合じゃねえだろう、と七条を窘める。
「おい、遠藤、今の啓太の状態を話せる範囲で良いから教えてくれ。先刻、中嶋が言ってた。啓太が人を殺そうとしたってな。もう啓太には善悪の区別もつかねえのか?」
「啓太が人を……!」
 思わず、和希は言葉を失った。七条が小さく頷いた。
「僕とあの人が駆けつけるのがもう少し遅ければ、伊藤君は間違いなく相手の首を絞めていました。それに、郁も」
「臣……あれは啓太の本意ではない……丹羽が啓太を……追い詰めたからだ」
「ええ、郁、わかっています。後日、丹羽会長にはきちんとこの責任を取って貰います。ですが、やはり伊藤君は早めに取り押さえるべきでしょう。あの人と一緒では心配ですから」
「……で、どうなんだ?」
 丹羽が答えを促した。しかし、和希は首を横に振った。
「君達に話すことは何もない。だが、今は一刻も早く啓太の状態を確認したい。これは啓太の生命に係わる問題だ。中嶋君は啓太をどこへ連れて行った?」
 和希は三人をぐるっと見回した。少し間を置いて、丹羽が短く答えた。
「……多分、理事長室だ」
「……!」
 思わず、和希は声を荒げた。
「一体、何を考えているんだ! 啓太の認証は、まだ生きているんだ!」
 石塚にサーバー棟を緊急封鎖させようと、和希は携帯電話を取り出した。すると、その胸倉をガシッと丹羽が鷲掴みにした。怒気の籠もった瞳で鋭く和希を見下ろす。
「わからねえのか、遠藤! 中嶋が啓太を理事長室へ連れて行く理由が! あそこはお前の匂いがするだろう! つまり、啓太はそれほどまでにお前を求めてるんだ! そんなこともわからねえから、啓太がこうなったんじゃねえのか!」
「……」
 和希は無言で丹羽を見返した。所詮、部外者の君達には理解出来ない。その瞳は傲慢にそう言っていた。ちっ、と丹羽は短く舌打ちすると、和希を突き放した。
「取り敢えず、俺達もサーバー棟へ行くぜ。もう警備の連中は役に立たねえ。手当たり次第に、中嶋が片づけてくからな。今、あの中には何人くらいいるんだ、遠藤?」
「システム担当の者が十数名だ。他は石塚と――……」
 しまった、と和希がサーバー棟を仰いだ。あそこには、加賀見がいる……!
 温和な表情と柔らかい言葉遣いで和希に仕えながら、その向こうにいる父・鈴菱に従っている男が今の啓太と会えば何を考えるか。それは火を見るよりも明らかだった。
「啓太……!」
 和希のその声は爽やかな秋晴れの空に全く似つかわしくない、苦悩と緊迫に満ちていた。



2008.10.31
ドイツ語の意味は文中に織り交ぜたので、
少しくどくなってしまいました。
中嶋さんと啓太の愛の逃避行……とはなりませんが、
わからずやの和希にはパンチです。

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Café Grace
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