サーバー棟の廊下を歩きながら、中嶋は喉の奥で低く笑っていた。
  玄関付近にいた警備員は総て眠らせた。日頃は生徒相手なので力を加減しているが、本職相手にそんな遠慮は全く必要ない。お陰で、丁度良い憂さ晴らしになった。本当は啓太にいつも付き纏っていた連中も一緒に片づけたかったが、どうやら退避命令が出たらしい。一人の姿も見掛けなかった。仕方ないので警備員室にいた者達を気絶させ、そこにある監視モニターの電源を破壊しておいた。これで、邪魔者に煩わされずに済むだろう。中嶋はチラッと隣に目を走らせた。
  啓太は無邪気にドイツ・リートを口ずさんでいた。
  中嶋は簡単な会話程度のドイツ語なら理解出来るが、英語ほど堪能ではなかった。自分の真横で自分のわからない言葉で歌われると少し苛々した。
「啓太、日本語を話せ」
”……?”
  キョトンと啓太は中嶋を見上げた。
「……もう良い」
  中嶋は小さくため息をついた。
  啓太の状態には波があった。酷く攻撃的になったかと思えば、急に大人しくなる。今は後者らしい。言葉も何ヶ国語かが混在し、ときには日本語さえ通じなくなった。中嶋にその原因はわからなかったが、最早、それは健全な精神状態と呼べないことだけは確かだった。速やかに専門医に診せるべきだろう。
(尤も、これが病気ならばの話だが)
  三ヶ月前のウィルス事件以来、なぜ、『鈴菱』ほどの企業がここまで啓太に固執するのか中嶋はずっと不思議だった。正直、その秘密を暴くのはとても面白そうに思えた……が、やめた。啓太がそれを受け入れていたから。なら、余計な波風は立てたくなかった。そんな自分に少し驚きと戸惑いを覚えるが……
(人質になった分の元は取れた。後はこいつを遠藤に引き渡すだけだ)
  エレベーターに乗ると、中嶋は最上階のボタンを押した。その隣で、啓太は急かす様にそわそわと身体を動かしていた。暫くして、柔らかい音と共に目的の階で扉が開くと、啓太は真っ直ぐ理事長室へ向かって走り出した。バンッとドアを開けて叫ぶ。
”Kazuki!”
  しかし、そこにいたのは――……
「やはりここに来ましたな」
”……!”
  啓太の瞳が怒りで赤く燃え上がった。加賀見は和希の重厚な机に軽く腰掛けていた。なぜ、貴方がそこにいるの? そこは和希の場所なのに……
”Warum sind Sie dort? Das ist eine Stelle von Kazuki……”
「怖い顔ですな。石塚はんから聞いたときはまさか思いましたが、ようもそんな状態でここまで……人格破綻もかなり進んで、最早、暴走するは時間の問題。和希はんはこの責任、どう取りはる――……」
「暴走とは何のことだ?」
  中嶋が啓太の横に現れた。加賀見が眉を吊り上げた。
「君は確か生徒会の副会長でしたな? サーバー棟は生徒の立ち入りは禁止のはずです」
「俺はこいつの人質だ」
「面白いことを言いはりますな……が、これで納得しました。伊藤君が暴走しなかったんは、少なからず信頼してはる君が傍にいたお陰ですな。その功績に免じて、今回の侵入は大目に見ます。さあ、戻りなさい」
「ふっ、それは俺の決めることではない」
  僅かに中嶋の口唇が歪んだ。
  成程、と加賀見は呟いた。ここから立ち去る気はない様ですな。加賀見は内線ボタンを押して警備員室を呼び出した……が、応答がない。はあ、と短く嘆息した。
(全滅とは……たかが生徒相手に不甲斐ない)
  そのとき、突然、啓太が机に向かって突進した。そこにあった銀のベーパー・ナイフを掴み、加賀見を刺そうと腕を突き出す。しかし、その切先を加賀見は易々とかわした。片手で啓太の手首を捉えて、クイッと反対側に返す。
「大人しくして貰いましょうか」
  加賀見はもう一方の手で啓太の左腕を背中へ捻り上げ、同時に右手を極める指に力を加えた。手首や肘、肩の関節が同時にあらぬ方向へ曲げられ、捻られ、小さく軋む。それは酷い苦痛だった。しかし、啓太は低く呻いただけで直ぐ口唇を噛み締め、気力で加賀見に憎悪を放った。加賀見の声が微かに苛立った。
「まだそんな瞳が――……」
  視界の隅で、中嶋の足が動いた。
  咄嗟に加賀見は啓太を突き飛ばした。鋭い蹴りから間一髪で逃れると、流れる様に少し離れて間合いを取る。啓太は押された勢いでバタンッと床に倒れた。その途端、悲鳴が上がった。
「……!」
  さっと中嶋が振り返ると、啓太が左腕を押さえてうずくまっていた。指先から細く滴る血を加賀見が淡々と説明する。
「昨日、採血ミスで損傷した動脈の傷が開いた様ですな」
「……」
  中嶋は加賀見に瞳を流した。
  どうにも行動が腑に落ちなかった。先刻、耳にした加賀見の言葉から、啓太には何か重大な秘密のあることが窺えた。副理事が理事長の責任問題を口にするなど、ただごとではない。恐らく加賀見は啓太の状態を正確に把握した上で確保しようとしている……が、大切にしようという気は全く感じられなかった。啓太の怪我を知りながら、その腕を容赦なく痛めつけた。言動の端々には、どこか啓太を蔑んでいる感じさえ受ける。まるで物の様に……そう、人扱いしていない。なぜだ……
  しかし、今はそんなことを考えている場合ではなかった。素早くネクタイを外すと、中嶋は啓太の上腕部をきつく縛った。止血法としては適さないが、この際、仕方がないだろう。すると、啓太が小声で呟いた。必要ないのに……
”Es ist nicht notwendig……”
  そして、ゆらりと立ち上がった。加賀見に向かって一歩……前へ進み出る。
”Sie nahmen Kazuki von mir.Geben Sie Kazuki mir sofort zurück bitte.Dann,
hilft ein Leben.”
「おかしなことを言いはりますな」
  加賀見が嘲笑を浮かべた。啓太はこう言った。貴方は俺から和希を奪った。直ぐに和希を返して下さい。そうすれば、生命は助けてあげます、と。
  中嶋には啓太の考えが全く読めなかった。なら、ただ静かに事の成り行きを見守るしかない……
  加賀見が呆れた様に首を振った。
「そんな非力な腕で何が出来はる――……」
  不意に言葉が途切れた。啓太の左手に視線が釘づけになる。白い掌を赤く染める血。まさか……!
  啓太の意図を察した加賀見が小さく息を呑んだ。すると、啓太は濃艶に満足そうに微笑み……中嶋のネクタイを腕からむしり取った。
  その瞬間、加賀見の余裕に満ちた態度が一変した。
「小賢しい真似をっ……!」
  加賀見はギュッと拳を握り締め、激しい怒りを漲らせて啓太を睨みつけた。そんなことをしたら、血流が一気に再開する圧力で傷口が更に広がってしまう。その目的は明白だった。もし、今、宿主である啓太を失えば、Kウィルスは同化を解いて再活性化するが、唯一の抗体は啓太が完全に同化した時点で体内から総て消滅してしまった。抗血清も、もうない。それが存在することによって、啓太に危害が加わることを恐れた和希が総て廃棄してしまった。ただ、データは残してあるので合成は可能だった……が、原型なしではいつ出来るかわからない。つまり、現時点での感染は普(あまね)く死を意味していた。
  しかし、加賀見が危惧したのは全く別のことだった。
(宿主を失ったウィルスに紫外線が当たれば、総て死滅してしまう……!)
  啓太の人格は破綻寸前だが、思考はまだ論理的だった。命がけの取引を持ち掛けてくる以上、『鈴菱』にウィルスを残す様な死に方は絶対にしないだろう。今更ながらに和希を説得出来なかったのが加賀見は悔しくてならなかった。憤懣やるかたない視線をキッとドアへ投げつける。
  そこには石塚を従えた和希が立っていた。その後ろには丹羽と西園寺、七条もいる。無言で和希は啓太へと歩み寄った。
  啓太は右手にペーパー・ナイフを持ち、血塗れの左手を嬉しそうに眺めていた。人格がかなり破綻しているのは一見しただけでわかった。もう一刻の猶予もないだろう。しかし、和希にはまだ充分な勝算があった。啓太を繋ぎ止めているのが俺への想いなら、暴走を食い止めることは可能だ……!
「啓太、迎えに来たよ。さあ、一緒に帰ろう?」
”……”
  啓太は和希を見た……が、反応が弱い。なぜか戸惑っていた。やがてポツリと言った。
”Sie sehen Kazuki ähnlich.Aber Sie sind nicht Kazuki.”
「……!」
  和希の目が僅かに見開かれた。啓太の言葉が心の中で幾重にも反響する。貴方は和希に良く似てる。でも、和希じゃない。
(もう俺を認識することさえ出来ないのか。なら……仕方がない)
  ポケットから、和希は小さな筒状の物体をこっそり取り出した。
  それは最新式の無針注射器だった。薬剤を針よりも細いノズルの先端から押し出し、皮膚に極小の穴を開けて霧状に注入する。自己注射の必要な糖尿病患者などが使用しているが、今、中に入っているのはインスリンではなかった。
  和希は優しく左手を差し出した。俺が和希の処へ連れて行ってあげるよ、啓太。
”Ich werde dich zur Stelle von Kazuki bringen,Keita.”
”Wirklich?”
  本当、と啓太の顔が華やいだ。和希は大きく頷いた。おいで、啓太。
”Komm her zu mir,Keita.”
”Ja.”
  うん。啓太は喜んでその手を取ろうとした。そのとき、和希が小声で呟いた。まずはその傷を手当しよう、啓太。言っただろう、怪我も病気も絶対にしては駄目だって。
”Zuerst werde ich die Wunde behandeln,Keita.Ich trug dir auf,keine Verletzung und keine Krankheit zu machen.”
”……!”
  ピタッと啓太の動きが止まった。静まっていた怒りが一気に炎上する。啓太が叫んだ。お前だったのか! お前が俺から和希を奪ったんだっ!!
”Es war du! Du nahmen Kazuki von mir!!”
  啓太は、まだ右手に握り締めていたペーパー・ナイフを高々と振り上げた。銀色の刃先がキラリと光る。和希様、と石塚が声を荒げた。
「……!」
  和希はそれが自分に向かって落ちてくることはわかったが、どこか他人事の様な気がした。ただ、頭の片隅でぼんやりと思った。なぜ、こんなことになったのだろう、と……


2008.11.14
和希パパは有能な人が好きそうです。
なので、元秘書なら数ヶ国語は当たり前。
護身術の心得も少しはあったりして。

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Café Grace
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