「遠藤っ!!」
 咄嗟に丹羽は和希の襟首を掴むと、力任せに後ろへ引っ張った。同時に中嶋が器用にペーパー・ナイフだけを蹴り飛ばす。
「……っ!!」
 壁に背中をぶつけた和希の手から注射器が零れ落ちた。石塚が和希の身体を支えると同時に叫んだ。
「それを伊藤君に押し当てて下さい!」
 七条は素早く注射器を拾うと、啓太に駆け寄った。宙に投げ出された右手を捉え、その先端を肌に強く押しつける。
”……!?”
 慌てて啓太は七条を振り払った。しかし――……
”Was machten Sie……”
 何をしたの……と言う間に急速に意識が遠のいてゆく。よろめく身体を七条が受け止めた。その腕の中で、啓太は暗い眠りへと落ちていった。
「中嶋!」
 丹羽が自分のネクタイをむしって中嶋に放った。それを受け取ると、中嶋は再び啓太の左上腕部をきつく縛り上げた。先ほどより明らかに出血量が増している。啓太を抱く七条の足元には小さな血溜まりが出来ていた。
 啓太、と和希が手を伸ばした。すると、七条が紫紺の瞳でそれで拒絶した。
「近寄らないで下さい。今の貴方は伊藤君に悪影響を与えるだけです」
「……!」
「取り敢えず、伊藤君を仮眠室へ運んで下さい」
 石塚が七条に指示した。既に携帯電話で研究所にいる医師と連絡を取っている。わかりました、と七条は頷いた。中嶋は軽く眼鏡を押し上げると、無言で七条の後に続いた。
 和希は二人に付き添われて部屋を出て行く啓太を為す術もなく見送った。
(なぜ、こんなことに……)
 既に啓太が正常な判断力を失っているとわかっていたので、ある程度の抵抗は覚悟していた。しかし、あの一瞬……啓太の瞳には殺意にも似た憎悪が籠もっていた。和希を和希と認識していないので、厳密にはそれは自分に向けられたものではない……が、やはり衝撃(ショック)だった。
(途中までは巧くいっていた。だが、突然、啓太は豹変した、あの対応の、どこに問題があった? それとも、これもやはり記憶の混乱が原因なのか? なら、過去の記憶を総て消去出来れば……いや、それでは啓太が啓太でなくなってしまう。一体、どうすれば良い? 判断を下すには、俺はまだあまりに宿主のことを知らな過ぎる……)
「少しは頭が冷えたか?」
 不意に西園寺が話し掛けた。和希は静かに振り返った。
「啓太をあそこまで追い詰めたのはお前だ。あの刃は、お前自らが招いたものだ」
「俺が啓太を傷つけたと言うのか? いつ……?」
 不思議そうに和希は尋ねた。すると、それを聞いた丹羽が怒りに任せて和希の胸ぐらを乱暴に掴み上げた。
「そんなの、ずっとに決まってるだろう! 一度や二度で啓太があんなふうになるかよ! 啓太は、いつもお前のために一生懸命だった! お前が学園にあまり顔を出さなくなってからも、俺達のお前に対する印象が悪くならない様にずっと気を配ってた。なのに、お前はっ……!」
 西園寺が鋭く指摘する。
「研究のために、お前は啓太の気持ちを利用した」
「ふっ……」
 和希は丹羽の手をパシッと払った。乱れた襟元を軽く直すと、無機質な顔で二人と対峙する。
「あれは、あくまでも啓太の意思だ。私は今まで故意に啓太を利用したことは一度もない」
「だが、啓太の意思を誘導したことはあるだろう」
「何?」
 西園寺の言葉に和希は片眉を吊り上げた。ああ、と丹羽が吐き捨てる様に唸った。
「お前には便利な言葉があるからな」
「……?」
 和希は密かに首を捻った。一体、彼らは何のことを言っている……
 反応のない和希に西園寺が短く嘆息した……本当にわからないのか、と。そして、再び口を開いたとき、その瞳は丹羽と同じ色彩(いろ)をしていた。
「愛している、だ。その言葉一つで、啓太はどんなことにも従うだろう。なぜならば、啓太は本当にお前を愛しているからだ。また、そう言えば、お前は総てを啓太のためと置き換えて研究に打ち込むことが出来る。だが、ただ上辺だけの愛を囁けば囁くほど、啓太にはお前がわからなくなってしまったのではないのか?」
「そんな言葉遊びをした覚えはない。確かに私は啓太に何度も愛していると言った。だが、それは総て私の嘘偽らざる本心だ。私は啓太を心から愛している。ならば、啓太が学園島にいられる内に、少しでも多くの想いを伝え――……」
「まただ」
 丹羽が話の腰を折った。和希が不快そうに目を眇めた。
「お前、先刻も同じことを言ったよな。啓太が学園島にいられる内にって。一体、何をそんなに焦ってるんだ?」
「……!」
「お前が啓太を愛してることはわかってる。お前はどんなことがあっても、絶対に啓太を離さねえだろう。それは俺も疑ってねえ。なら、啓太がここを卒業しても、お前にはまだ時間が一杯ある。確かに研究のペースは落ちるが、続けることは可能なはずだ。今までのお前ならそうやって前向きに捉えられただろう? だが、最近のお前からはその余裕が全く感じられねえ。まるで死期の迫った人間を見てる様だ。お前、何をそんなに恐れてるんだ?」
「恐れる? 俺が?」
 和希が繰り返した。ふと……あのときの啓太の言葉が蘇る。
『……もしかして……俺が怖くなった? 俺のせいで死にそうになったから……』
『……違うよ、啓太……そんなことはない……』
(そう……あの言葉に嘘はない。そんな理由で俺は啓太に触れるのを躊躇ったりはしない。俺は啓太を愛している。心から、愛している……)
 しかし、ここ最近の言動を思い返してみると、確かに非常に時間を気にしていた。まるで何かに取り憑れた様に研究所へと通って……
(その理由も、きちんと説明がつく。宿主の力を解明すれば、現代科学が大きく前進するからだ。啓太の存在を公に出来ない以上、せめて俺だけでも、その一端に携わる者として――……)
 いや、違う。和希は首を振った。
 僅か数年の研究で解明出来るほどKウィルスは生易しいものではなかった。ワクチンを完成させることでさえ、半世紀近くもの時間がかかった。確かに知的好奇心は大いに感じる……が、良く考えれば、それは後から付与されたものだった。そもそも、研究の再開自体がかなりの見切り発車だった。ある程度、啓太の体調が安定してからにはしたが、未だに不安があるのは否めない。だから、定期的に心電図検査などを合わせて行っている。
(俺は……焦っているのか? 本当に? なら、何が俺をこんなにも研究へと駆り立てる? 死への恐怖か? だが、抗血清でKウィルスは俺の体内から総て消滅した。それは何度も精密検査を繰り返し、俺自身の目でも確認した。俺は、もう大丈夫だ……)
『……俺、まだ和希に言ってないことがある……』
 突然、啓太の声が聞こえた。いや、頭の中に浮かび上がってきた。和希が忘れようとして、決して忘れられなかったこと。あの日から和希の心に沈み積もった蒼い澱……
『……俺……和希に……酷いことした……』
「……っ!!」
 それは不安だった。
 啓太さえ傍にいてくれるなら良いというのは、今でも和希の本心だった。しかし、何かが自分の身に起きた……全く与り知らぬ処で。恐らくそれは生命に係わることだろう。でなければ、啓太があそこまで自身を責め苛むはずがない。あのときは啓太を苦しめたくなくて何も訊かなかった。そうすることが正しいとさえ思った……が、知らないという不安は真綿の様に緩々と和希の首を絞めた。やがてそれは焦りへと変わり、徐々に心を蝕み、研究へとのめり込ませた。しかも、本来は長所である知的好奇心や有能さがそこに更なる拍車を掛けてしまった。
『……知りたいことの答えは、総て自分で見つけるから……』
 その言葉を啓太はどんな思いで聞いていたのだろう。和希はギュッと拳を握り締めた。
(啓太は、いつも俺のために一生懸命だった。嫌なことも我慢して、必死に背伸びをして……俺が知りたがったから! わかっていたはずなのに! 俺は徐々にそれが当然と思う様になり、最も大切な本来の目的を忘れてしまった!)
「おい、遠藤、大丈夫か?」
 急に顔色の変わった和希を心配して丹羽が声を掛けた。しかし、和希にそれは聞こえなかった。一つ結び目が解けたら、自分が啓太に何をしたのか――何をしてしまったのか――がはっきりと見えた。
「啓太……啓太と話さなければ、今直ぐ……」
 すると、西園寺が言った。
「今は眠っている。あの注射器に入っていたのは即効性の睡眠薬だろう? 持続時間はどのくらいだ?」
「……凡そ二時間だ」
 機械的に答えて、和希は辺りを見回した。
「加賀見……加賀見はどこへ行った!?」
 加賀見は宿主が暴走した場合に備えて、ずっと貯血を主張していた。
 半世紀に及ぶ研究で、『鈴菱』は宿主を失ったウィルスと血液細胞の分離・培養技術を確立していた。血液さえあれば速やかに次代の宿主の選定作業に入れる。しかし、和希はそれを絶対に許可しなかった。
 宿主であることは啓太の一生を束縛すると同時に、啓太の身の安全を保障するものでもあった。もし、万が一にも血液を採取出来ない状態に陥れば、『鈴菱』は貴重なウィルスを永遠に失ってしまうことになる。つまり、啓太に余計な手出しは出来ない……が、貯血してあれば話は別だった。啓太を失っても、ウィルスは手元に残る。啓太の生命に今ほど重きは置かれなくなるだろう。それどころか、仮に将来、啓太が『鈴菱』の意思に従わなくなったときは処分することも可能だった。『鈴菱』の現社長は啓太をただの道具としかみなしていない。そして、加賀見はその男に心酔していた。
 ああ、と丹羽が親指でドアを指した。
「加賀見さんなら、つい先刻、出て行ったぜ。携帯を持っていたから電話でも掛けに――……」
「啓太っ!!」
 その返事を最後まで聞かない内に、和希は部屋を飛び出した。



2008.11.28
出番がなくても、
石塚さん以上に目立っている加賀見。
ああ、もっと石塚さんの見せ場が欲しい……

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Café Grace
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