真っ白な世界で、啓太は膝を抱えて泣いていた。あんなこと、するつもりじゃなかったのに。落ちた涙は足元の水辺に小さな波紋を広げるが、服も靴も濡れはしなかった。そんな啓太の傍で、もう一人の啓太が厳しい目で朧がかった空を睨んでいた。
『結局、あの男も同じだったんだ。いや、自覚がない分……余計、質が悪い』
「……」
『あのとき、言っただろう、啓太? あの男も自分のために君の気持ちを利用するかもしれないって。少し意味は違ったけど、結局、そうなった。人はどうしても知的好奇心を抑えられない。それが一生物として、進化の過程で辿って来た路だからね……啓太、あの男に君の想いはもう届かない』
  啓太は首を振った。そんなことない……
  確かに和希は啓太を通して知ることに夢中になってしまった。必要なのは身体だけ。心はどこか遠くへ置いていかれてしまった。それは啓太も感じていた。だから、こんなにも胸が痛い。でも、いつかきっと和希は気づいてくれる。啓太は……そう信じていた。
  もう一人の啓太が静かに呟いた。
『……殺そう』
「……!」
  ハッと啓太は顔を上げた。二人は全く同じ姿をしているが、その瞳はまるで正反対だった。一人は哀しみ、一人は怒りに満ちている。
『あの男を殺そう、啓太……そして、いつか別の人を愛すれば良い』
「嫌だ」
『啓太』
「和希を殺すなんて、絶対に嫌だ!」
『なら、俺がやる。あの日、俺が選んだのは君だから。俺にとって、大切なのは君だけだ。これ以上、揺らぐ君を見過ごすことは出来ない。俺は、あの男を殺す』
「……そんなことはさせない」
  手の甲で涙を拭うと、啓太は立ち上がった。
『君にもわかってるはずだよ。重要なのは意思だ。あの男は俺達の身体を散々調べ回しておきながら、根本的なことは何一つ、全く理解してない。実に愚かな男だ。あの男はもう駄目だよ、啓太、あの男に君の恩恵に浴す資格はない』
「恩恵……これが?」
  掌を見つめて啓太は自嘲した。もう一人の啓太がコクンと首を傾げた。
『君はその力にずっと罪悪感を持ってるね。でも、君がそれを望まなければ、あの男は死んでた。あの男が今ここにあるのは君のお陰なんだよ。なのに、どうして?』
「……自分の生命を他人に握られて喜ぶ人はいないよ」
  啓太は哀しげに瞳を伏せた。
  覚醒の際、宿主は自分が望む路を一つ示した。宿主の力は、それに基づいて発現する。通常はウィルスとの同化が進み、意思を共有出来る頃に行われた。しかし、啓太が宿主になったとは知らない和希の祖父はヘモグロビン濃度(Hb)が減少の兆しを見せ始めると、初期症状と思い込んでしまった。そこで、すぐさま完成直後のワクチンを啓太に投与した……が、それは成人でもきつい副作用があった。当然、幼い啓太がその重さに堪えられるはずがない。生命力が激減して意思さえ支え切れなくなった啓太は、やむを得ず、生きるために自らを二つに裂いた。ウィルスと同化した部分とそうでない自分とに。そして、一人はウィルスと共に深い眠りについた。
  そのままでも啓太は幸せになれただろう。傷ついた生命は長い年月の間に完全に癒され、再び元の強さを取り戻していた。磨かれ、より輝きを増した意思は誰をも惹きつける魅力がある。一生、『鈴菱』の監視下に置かれることにはなるが、いつか啓太をありのままに受け入れてくれる人が現れれば、その人と共に今とは違う路を歩むことも出来たかもしれない。しかし、啓太は和希に恋をしてしまった。幼き日に求めたその人に再び同じ想いを重ねる……心も身体も。過去と現在が一つの線で繋がったとき、啓太の中で眠っていた部分が目醒めた。
  啓太はウィルスが持っていた様々な記憶や知識を引き継ぐと同時に一つの路を示した。
『……君の望みは何……』
『……和希と、ずっと一緒にいること……』
  ところが、そのとき、啓太の予想もしないことが起きてしまった。
  ウィルスは紫外線から逃れるために同化という特殊な進化を辿った。路を示すのは同じ目的に向かうことで、異なるプロテイン構造を持つ存在同士がより深く一体化するため。即ち、一緒にいるということは同化を意味していた。そこで、ウィルスは和希と啓太の生命を繋げてしまった。いや、正確には和希を啓太の眷属にしてしまった。
  和希に感染したウィルスは体細胞核内に鳴りを潜めた。所謂、潜伏感染……その状態ではウィルスは増殖・活動しないが、免疫機構では排除出来ず、抗ウィルス薬なども効かなくなる。既にステージⅡへ移行していた和希が四日で快復したのは抗血清が効いたと言うより、ウィルスそのものが沈黙したことが大きな理由だった。しかし、それは啓太の意思で再び活性化する。そうすれば、和希は――……
  恋人の生殺与奪の権を図らずも握ってしまった啓太は強い罪悪感に苛まれた。
  この三ヶ月、何度もそれを話そうと思った……が、出来なかった。その事実を知った和希が変わってしまうのが怖かった。啓太に媚びへつらい、常に顔色を窺う様になってしまうかもしれない。そうでなくとも、これは和希の矜持(プライド)を大きく傷つけるだろう。きっともう今までの様には愛して貰えない……
(和希がいて、俺がいる。ただそれだけで良かったのに……)
  また涙が溢れそうになった。しかし、こんな処で泣いていても何も状況は変わらない。寧ろ、悪くなる一方だった。
  啓太はキュッと拳を握り締めた。ギリギリまで追い詰められて、漸く決心がついた。もう遅いかもしれないけど、このまま、何もしないで終わるのは嫌だから……!
「力を貸して。和希と、きちんと話がしたいんだ」
『今更、あの男に何を言っても無駄だよ』
  もう一人の啓太が冷たく言い捨てた。啓太は小さく俯いた。
「俺は卑怯だった。自分の幸せを壊すのが怖くて……何も言わず、ただ逃げてた。和希には知る権利があるのに。言う気がないなら、初めから黙ってれば良かったんだ。なのに、俺は中途半端に告白した……和希に酷いことしたって。あのときの俺は自分の良心の呵責を少しでも軽くすることで頭が一杯で、それを聞いた和希がどう思うかなんて全く考えなかったんだ。そんなことを言われれば、誰だって自分に何をされたか気になる。和希を知ることに駆り立ててしまった、そもそもの原因は俺にあるんだ」
『切っ掛けはそうかもしれない。でも、あの男は知る誘惑に負けて、自ら研究に没頭したんだ。それが、どんなに君を傷つけてるかも気づかないで。こうなったのは全部、あの男のせいだ!』
「ううん、俺のせいだよ。俺が臆病だったから和希を迷わせたんだ。だから……総て話す。もう和希に愛して貰おうとは思わない。俺の、和希への気持ちに変わりはないから。和希がもっと知りたいなら、俺はこのまま……ずっと『鈴菱』のモルモットになる。好きな人の役に立てるんだ。それでも、俺は本望だよ」
『どうして……どうして君はあの男のためにそこまで! 俺は始まりの刻(とき)から世代を重ねて人を見てきたけど、皆、自分のために生きてた。当然だ。自己保全はあらゆる種の根幹を成す。なのに、今、君が取ろうとしてる行動は明らかにそれに反してる!』
「確かに俺だって自分は大切だよ。でも、和希はそれ以上の存在なんだ。好きだから」
『自分自身よりも?』
「うん……だから、力を貸して欲しいんだ。好きな人と、今度こそ、きちんと話をするために」
  啓太は真っ直ぐ相手の瞳を見つめた。もう一人の啓太は眉間に僅かな皺を寄せ、暫く何かを考え込む。
『……啓太、俺達は同じ一個の存在だけど、君と俺は違う。どちらかと言えば、君は人に近い。俺はKウィルスだ……あの男の言葉を使えばね。『啓太』とは、謂わば俺達の複合体だよ。そして、暴走とはその意思が二つに分裂すること。つまり、『啓太』は最初から暴走に近い状態にあるんだ。
  今、『啓太』の言動は統一性を失い、互いの強い感情にランダムに引きずられて行動してる。それを正すには、もう一度、俺達が手を合わせれば良い。でも、君があの男に拘っている限り、それは出来ない。俺には、あの男が君の輝きに見合うとはどうしても思えないから。こんな状態でまた戻ったら、あの男と話をするどころか、今度こそ、本当に取り返しのつかないことになるよ』
「……大丈夫だよ」
  ふわりと啓太が微笑んだ。
「俺、わかったんだ。誰しも胸に葛藤を秘めて生きてる。いつも自分の心さえままならずに苦しんでる。だから、ときに路を間違えるんだ……和希の様に。でも、俺達は違う。俺達が分かれたのは不幸な事故の様なものだと思ってたけど、寧ろ、幸運だったんだ。だって、俺達はこうして見つめ合って話をすることが出来るから」
『それって……』
「そう、啓太は俺だけじゃない。君も啓太だ」
『俺も……啓太?』
  もう一人の啓太が戸惑う様に首を傾げた。コクンと啓太は頷いた。
「だから、君が和希に抱いた不信や憤りは俺のもので、俺が和希に抱く気持ちは君のものでもあるんだ。俺達はどちらも等しく啓太だから。なら、君に和希は殺せない。君も和希を愛してるから」
  そう言うと、啓太は瞼を閉じた。奥深い場所から、熱い想いが湧き上がってくる。もう一人の啓太が苦しそうに胸を押さえた。これは、この感情は……!
『啓、太……!』
「わかる? 今、和希のことを想ったんだ。俺達は同じ一個の存在だから、記憶も、意思も、感情も総て共有出来るんだ」
『うん……』
「俺は和希が好きだよ。愛してる。和希のためなら、何でも出来る……」
  啓太は祈る様に胸元で手を合わせた。
『……君は本当に優しいね』
  もう一人の啓太が、ふわっと微笑んだ。
『でも、どんなに深い絆があっても、いつか人は必ず乖離する。俺が今まで人を見てきて学んだのは一つだけ。人の心は移ろい易いってことだ。あの男も同じだよ。ましてや、今、あの男が必要としてるのは俺じゃない。俺じゃないんだ! あんな男……大嫌いだっ!!』
「……っ……!」
  暗い深淵に啓太の意識が引きずり込まれそうになった。互いの相反する感情が胸の奥で激突し、その熱さと冷たさに眩暈がする――……
『啓太、あの男のことなんか忘れて、俺と一緒に生きよう。あの男のために、何も君が犠牲になることはない。これ以上、位相差が広がれば形の維持が難しくなる。君にもわかるはずだ。もう争ってる場合じゃないんだ』
「なら……力を、貸して」
『啓太!』
「だって、和希は同化もしな、かったのに、戻って来た。俺との約束を、護るために……!」
『……!』
「和希は何も言わないけど、それは決して楽な路じゃなかったと思う。今も、和希は俺の傍にいるために色々努力してる。かず兄と呼んでた頃から、そういうところは少しも変わってない。そんな和希だから、俺は好きになったんだ!」
『己が意思を最後まで貫ける人は稀なんだよ、啓太……哀しいことにね』
「和希は弱くないよ。もし、そうなら、あんな子供の我侭の様な約束を果すためにここまで出来ない」
『どうかな』
「ただ、和希は俺と違って考え過ぎてしまうんだ。もう大人だし、沢山のものを背負ってるから。でも、決して投げ出さない。いつも最善を目指して頑張ってる。それは強いからこそ出来るんだ。先刻、君は和希が俺の輝きに見合うとはどうしても思えないって言ったけど、俺はそうは思わない。和希の意思は俺と同じくらい……いや、それ以上に輝いてる。だから、きちんと話をすれば和希はきっとわかってくれる。俺は、そう信じてる」
  強い意思を漲らせ、啓太は自分自身を見つめた。残念だよ、ともう一人の啓太は思った。本当に……
(でも、それでこそ……俺が選んだ輝きだ)
『わかった。君がそこまで言うなら、俺も力を貸す』
「有難う、啓太……!」
  啓太は、もう一人の啓太をキュッと抱き締めた。もう一人の啓太も手を啓太の背中に回す。すると、今まで分離していた二人の熱が徐々に混じって馴染んでゆく気がした。
  それは人肌の様に温かく、とても心地良かった。
『……今度は先刻ほど揺れないと思うから、暫くはきちんと会話が成立するよ』
「うん」
『啓太、これが形ある最後になるかもしれないから、一つだけ約束して。あの男と話をしたら、決着をつけて欲しいんだ。俺は、俺を苦しめる一方で俺を護ろうとする、あの男の本心が知りたい。そうすれば、もしかしたら――……』
  うん、わかった……と啓太は呟いた。有難う、啓太……
「さあ、行こう、啓太……一緒に」
『うん、行こう、啓太……一緒に』
  二人は身体を離し、合わせ鏡の様に向き合った。その瞬間、パチンッと泡沫が弾けた。たちまち白い世
界は溢れる光の奔流の中に溶けていった……


2008.12.12
ある意味、啓太の一人芝居です。
漸く伏線を回収し始めました。
力の一端も明らかになったので後は和希次第かな。

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Café Grace
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