中嶋は理事長室を出ると、右奥にある仮眠室のドアを七条が通れる様に開けてやった。いや、正確にはその腕に抱かれている啓太のために。七条は小さく頭を下げた。勿論、それは中嶋への感謝ではなく、今は眠っている啓太の代わりにしただけだった。
  七条は慎重に啓太をベッドに横たわらせた。毛布を掛けようとして、いつも微笑を絶やさないその顔が僅かに強張る。啓太の左腕を置いた部分から、シーツに赤い染みが広がっていった。伊藤君、と七条が心配そうに呟くのを少し離れた窓辺で中嶋は耳にした。一瞬、中嶋も啓太の傍に行こうかと思った。あの癖のある髪を撫でれば、この胸も少しは安らぐだろう……が、今、気を抜く訳にはいかなかった。一つだけ気掛かりなことがある……
  石塚が七条に啓太を仮眠室へ運ぶように指示したとき、中嶋は密かに加賀見の様子を窺っていた。和希が現れて常の冷静さを取り戻したのか、元社長秘書の表情からは何も読み取れない。しかし、加賀見の啓太に対する態度を見ていた中嶋は、そこに警戒すべき匂いを感じた。もし、加賀見が啓太に対して何らかの行動を起こすつもりなら、この好機を絶対に見逃すはずがない……
  部屋に入って来た加賀見が七条の背中から声を掛けた。
「伊藤君は私が見てますから、君は研究所から来る医師を迎えに行ってくれはりますか?」
「わかりました」
  七条は頷いた。加賀見は君もと言う様に中嶋を見た。中嶋は無言で七条の後に続いた。
  ……パタン。
  ドアが閉まるのを見届けると、加賀見はポケットから黒い小箱を取り出した。中には針のついた採血ホルダーと採血管が五つ入っている。啓太の右袖を素早く捲り上げ、注射針を穿刺(せんし)して左手で固定させると、右手で採血管をホルダーに挿入した。空気圧で血液が吸い出され、やがてその均衡が取れて血流が停止すると、手際良く次のものに取り替える。そうして五本総てに啓太の血液を採取すると、加賀見は漸く針を抜いた。黒い小箱に丁寧にそれを収め、大切そうにしまう。口の端に満足げな微笑が浮かんだ。
「それがお前の目的か」
「まるで吸血鬼ですね」
「……!」
  ハッと加賀見は振り返った。すると、ドアを塞ぐ様に中嶋と七条が立っていた。加賀見は全く悪びれる様子もなく、ただ肩を竦めた。
「困った生徒はんですな。私の言うことが理解出来ませんでしたか?」
  ふっ、と中嶋が鼻で笑った。
「医者を迎えに行くのに二人も必要ない。不審に思うのは当然だろう」
「おや、随分と疑り深いお人ですな。今度からは気をつけます」
  穏やかに加賀見は言った。それから、七条へと目を向ける。君は、どういう理由で……?
「僕は単にこの人と一緒に行動したくないだけです。それよりは貴方のお手伝いでもしようと思いまして」
「気が利きはりますな。なら、これをお願いします」
  加賀見は顎で啓太を指した。その顔には日頃の人好きのする表情は微塵も感じられない。七条が冷たく目を眇めた。
「伊藤君は物ではありません」
「ああ、そうでしたな。つい忘れていました」
  クスッと加賀見は笑うと、二人など眼中にないという態度で真っ直ぐこちらに向かって来た。瞬時に中嶋の足が容赦なく重い蹴りを放った。今度は先ほどの様に抑えたものではない……が、またもや加賀見はそれを軽くかわしてしまった。ちっ、と中嶋は短く舌打ちした。
(やはり奴は総て受け流してしまう。反撃しないのは、まだ本気ではないということか……面白い。その余裕、直ぐに打ち砕いてやる)
  本格的な攻撃の気配を感じた加賀見はため息をついて立ち止まった。
「仕方ありませんな。怪我をしても知りませんよ?」
「出来るものならな」
  中嶋が口唇を歪めた。採血の邪魔をするのは危険なので敢えて黙認したが、加賀見をこの部屋から出す気は毛頭なかった。
「……」
  二人の間に刺す様な緊張が走った。しかし、それは仮眠室に飛び込んで来た和希によって唐突に打ち破られてしまった。
「加賀見!」
  その後ろには石塚と丹羽、西園寺の姿もある。和希は啓太の右腕に細い血の糸があるのを見て表情を硬くした。
「……渡して貰おうか」
「和希はん、既にラボの手配は出来てはります」
「……!」
  それは啓太に見切りをつけろという意味だった。和希の深い海の様な瞳が暗く凍った。
(これは加賀見には決断出来ない。父の、『鈴菱』の意思か……!)
「認めないと言ったはずだ。Kウィルスには、まだ未知の部分が多過ぎる。啓太の有用性は未だ失われてはいない」
「これでですか? まあ、確かに暴走の過程を観察することには意味があ――……」
  不意に声が途切れた。眠っていたはずの啓太が背後から両手で加賀見の首筋を絞め上げる。喉の左右にある頚動脈を同時に強く圧迫され、一時的な脳貧血を起こした加賀見は急激に蒼ざめていった。なぜ、薬が――……
  すっと膝から力が抜け、くずおれる加賀見に啓太が小さく囁いた。それは、人の知が万能ではないからだよ……
「啓太っ!!」
  和希が叫んだ。すると、ふわっと啓太が微笑んだ。
「大丈夫。殺してないから」
  石塚が素早く加賀見に駆け寄り、首筋の脈を取った。和希を見て、小さく頷く。
「ねっ?」
「……啓太」
「どうしたの、そんな顔して?」
  啓太は加賀見の身体を跨いで和希へと歩み寄った。左腕から血が点々と床に滴る。それに気づいた啓太が、ああ、と呟いた。
「これが気になるんだ? 貴重な身体だからね。それとも、俺が崩壊する様を観察したいの?」
「啓太、俺はそんなこと……」
「でも、そうしたら和希も死んじゃうよ。潜伏感染って言ったらわかる?」
「……!」
  まさか、と和希は僅かに目を瞠った。
(だが、もし、そうなら……俺の体内にはまだ多量のKウィルスが何の症状も現さずに存在していることになる)
  その意味するところは明白だった。啓太を失えば、ウィルスが再活性化する。しかし、宿主でない和希にそれを抑えることは出来ない。たとえ、抗血清を打てたとしても、同時多発的に発症したら果たして効果があるだろうか。恐らく……ない。勿論、和希が新たな宿主になる可能性もない訳ではないが、その確率は限りなく低いだろう。つまり、啓太の死は――……
  和希の表情から、啓太は正確にその心を読み取った。
「……さすがだね。理解が早くて助かるよ。でも」
  優しく右手で和希の頬を撫でる。
「実に愚かだ」
「……!?」
「世の総ての真理を知りたがるのは人という種が持って生まれた、まさに傲慢なのかもしれないね」
「まるで自分が人ではない様な言い方だな、啓太」
  西園寺が口を挟んだ。啓太は寂しそうに微笑んだ。
「人ですよ、勿論。ただ、俺は知ってるんです……ずっと見てきたから。昔、ある人が言ってました。人は無数の夢を織る素材に過ぎない、と。短い生を取り巻くのはただ一つの眠りで、現実とは何かから生まれて、何かへと消えてゆく……そんな儚い幻想に過ぎない」
「シェークスピアか」
  丹羽の言葉に啓太は小さく頷いた。
「ある意味、そうかもしれません。だから、真理とは常に主観的なもので、その路は自らの内面……即ち、意思へと通じる。ねえ、和希、重要なのは意思なんだよ」
「なら、これも啓太の意思なのか?」
「……うん」
  和希を見上げる啓太の瞳に涙が浮かんできた。啓太は少し後ずさって俯いた。
「あのときも言ったけど、こんなことになるなんて本当に思わなかったんだ。俺は、ただ和希と一緒にいたかった。和希と離れたくなかっただけなんだ。でも、そんなの言い訳にならないよな。俺が和希の生命を握ってしまったことに変わりはないから……」
「だから、俺に言えなかったのか?」
「……」
「変、ですな」
  石塚の肩を借りて加賀見が立ち上がった。脳貧血とはいえ、加賀見が完全に意識を失っていたのは十秒ほどだったので啓太の話は殆ど聞いていた。
「潜伏感染するとは意外でしたが、そんなことは水痘帯状疱疹ウィルス(VZV)でも起こることです。そうですな、和希はん?」
「ああ、水痘帯状疱疹ウィルス(VZV)は初感染で水疱瘡(みずぼうそう)を引き起こし、治癒後、脊髄知覚神経節に潜伏感染して帯状疱疹として回帰発症する」
「なら、宿主の意思が和希はん一人の生命を縛るだけとは納得出来ませんな」
「……」
  加賀見と和希の視線が宙で重なった。
  和希には加賀見が言外に含ませた意味が直ぐにわかった。和希も同じ疑問を感じていたから。確かにこれを以って宿主の力の総てとみなすにはあまりにもお粗末過ぎる。
(しかも、潜伏感染……何か妙だ)
  すると、クスクスと啓太が笑った。
「和希、考える時間はもう充分に与えたよ。俺は決着をつけに来たんだ」


2008.12.26
西園寺さんならまだしも、
王様がシェークスピアを読む姿は想像し難いです。
一大冒険活劇の方が似合っています。

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Café Grace
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