「決着、か。そうだな。俺も啓太に話があるんだ」
「そう……何?」
 啓太は真っ直ぐ和希を見上げた。
 その瞬間、澄んだ二つの蒼穹に和希は心が吸い込まれる様な錯覚を覚えた。柔らかな微笑を浮かべ、全身に仄かな光を纏う啓太から目が逸らせない。啓太からテラヘルツ光以外の未知の電磁波が放射され、精神を侵蝕しているのか。咄嗟にそんな考えが頭を過った……が、直ぐに捨てた。宿主の力が何であれ、啓太がそんなことをするとは考えられなかった。いや、必要ない。啓太はどんな人も、ありのままの形で受け入れることが出来た。これはもっと単純な理由だ、と和希は考えた。
(綺麗だ)
 恋人としての欲目ではなく、啓太の寂びた優美さに和希が見惚れていると、白い掌が自分の胸を静かに撫で上げるのを感じた。我知らず、和希は囁いていた。
「愛している、啓太」
「うん、和希はいつもそう言うよね。わかってるよ、和希、わかってる……なら、それを証明してよ! 俺に、永遠の愛をっ!!」
 突然、声を荒げた啓太が一気に和希の喉を締め上げた。しかし、その両手にはもう殆ど力が残っていなかった。どうやら加賀見で総て使い尽くしてしまったらしい。丹羽達もそれがわかっているので敢えて止めには入らなかった。それに、赤い口唇を笑う様に美しく歪める啓太は酷く哀れに映った。
 和希は自分を手に掛けようとする啓太をじっと見つめた。
(言動に統一性がないのは、恐らく啓太自身が揺らいでいるためだろう。まるで葛藤する心を体現している様に……そうか! 暴走とは意思が二つに分裂し、同化したウィルスと身体との間に位相差が生じることか。そして、それが限界を越えたとき、物理的崩壊と共に啓太は……)
 そこまできて、和希は思考を中断した。この期に及んでも、まだ啓太を分析しようとする自分にほとほと嫌気が差す。今、しなければならないのはそんなことではない……!
(啓太の心を傷つけたのは俺で、これは総て俺が啓太に与えてしまった痛み……なら、俺はそれを償わなければならない)
 和希は、ゆっくりと膝をついた。真っ直ぐ啓太を見上げる。その深い海の様の瞳に先刻まではなかった強い輝きが宿っていた。啓太が僅かに目を瞠った。
「どういうつもり……?」
「啓太の好きにして良いよ」
「……覚悟してるってこと? なら、和希は悪いことしたって認めるんだ?」
「覚悟はしていない。悪いことをしたとも思っていない」
「……っ!!」
 ギリッと啓太は奥歯を噛み締めた。憎悪が抑えようもなく膨れ上がり、渾身の力で確実に気道を塞ぐ……が、僅かに爪が肌に食い込むだけで埒が明かなかった。啓太の纏う光が更に強くなる……
「啓太、前に俺が言ったことを覚えている? 俺は啓太さえ傍にいてくれるなら良いんだ。確かに生命は俺も惜しいし、大切にしたいと思う。でも、それは啓太が考えている様な意味が理由ではなく、啓太とずっと一緒にいたいからだ。つまり、もし、啓太に必要とされないなら、俺の生命には全く意味がなくなってしまう。俺の総ては既に啓太のものなんだ。だから、俺に覚悟は必要ない。啓太の手に掛かるなら、俺はいつでも本望だよ」
「……!」
 ハッと啓太は息を呑んだ。自分も同じことを考えていた。和希の役に立てるなら本望だと。まさか和希も同じ気持ち……?
 しかし、それを問う前に和希が再び口を開いた。
「それから、Kウィルスの検査・研究をしたことだけど、あれも必要なことだった。俺は苦しむ啓太をもう見たくないから、どんなことをしても少しでも多くの情報が欲しかったんだ」
「……」
 ああ、やっぱり。僅かに感じた温もりは消え、啓太は失望した。それを冷たい言葉に乗せる。
「人の知への信奉は、もう愚かを通り越して哀れさえ覚えるよ」
「確かにそうかもしれない。でも、人は調べることでしか世界を解く術を持たない。なら、俺はそのことを悪いとは少しも思わない。ただ、啓太の言う通り……俺は愚かだった。目的のためにある手段が、いつしか逆になっていることに気づかなかった。知に溺れた俺は最も肝心な啓太の心を忘れてしまった。それは俺の罪だ。今からでも償えるなら、俺はどんなことでも厭わない。だから、啓太、俺の元へ還ってきて欲しい……愛しているんだ」
「……やっぱり和希は凄いね。自分でちゃんと過ちに気づいたんだから」
 静かに手を離すと、ふわっと啓太は微笑んだ。
「でも、言葉なんて信じない」
「……」
「和希はまだ知らないから、そんな暢気なことが言えるんだ。教えてあげるよ。俺の、宿主としての本当の力を。俺は自らの意思でKウィルスのプロテイン構造を自由に組み変え、何度でも再活性化させられる。和希の中にあるのは勿論、この床に落ちた血の一滴に至るまで、総てね」
「成程……それで納得したよ」
 和希は立ち上がった。
 宿主以外の総てを殺すウィルスが潜伏感染するのは妙だと思っていた。しかし、それなら説明がつく。啓太の固有振動数が異様なまでに高いのは、ストレスや疲労などで和希の免疫力が低下したとき、回帰発症しない様に抑えるため。変異したKウィルスに抗血清は効かない。だから、どうしても和希の傍を離れられなかった……
(啓太は罪悪感に苛まれ、傷つき、苦しみながら……それでも、俺を護ろうとしていたのか)
 今なら、先刻、丹羽や西園寺が言った意味が良くわかった。まるで免罪符の様な自分の言葉は啓太の深い想いに応えるにはあまりに軽かった。いっそ打算のみの方がどれほど啓太も楽だったか。そうすれば、ここまで追い詰められることはなかったかもしれない。和希はまさに胸が潰されそうな思いだった。
 啓太の冷徹な声が響く。
「俺が本気で人を殺すのに腕力なんか必要ない。ウィルスの空気中での寿命が延びる様に構造を変異させてから再活性化すれば、俺以外の者は瞬く間に空気感染して死ぬ。でも、今の抗血清のデータではそれに対応出来ないだろう? もし、仮に出来たとしても、亜型の数は無限に近い。結果は見えてるよ」
「最悪の生物兵器ですな」
 加賀見が低く呟いた。すかさず和希がきつく睨みつけた。
「兵器に意思はない。啓太を物扱いするな、加賀見!」
 和希は知っていた。サーバー棟で静養していた啓太が自分を歩く細菌兵器の様に思っていたことを。恐らく完全に同化するまではKウィルスを確実に制御出来なかったのだろう。だから、二次感染の恐れがなくなったという知らせに啓太は喜んだ。もう誰も傷つけなくて済むから……
「啓太、態々自分を貶めなくても良い。啓太が人を傷つけられないことは俺が一番良く知っているから」
「そんなことないよ、和希……先刻、中嶋さんと七条さんが止めなければ、俺は警備の人を本当に殺すつもりだった。逃げるために、西園寺さんの首も平気で締めた。そして、王様達がいなければ……間違いなく和希を刺してた」
「でも、本気ではなかっただろう?」
「本気だったよ、勿論!」
「それなら、啓太にはもっと確実な方法がある。先刻、自分でそう言ったよね?」
「……!」
 啓太は悪いことをして叱られた子供の様に俯いた。和希が啓太へと腕を伸ばす。
「啓太に人を傷つけることは出来ない……たとえ、どんな状態になっても」
「や、やだ!」
 反射的に啓太はその手を払った。自分が圧倒的な優位に立っているにもかかわらず、啓太の顔は今にも泣き崩れそうだった。
「俺に触るな! 和希なんか嫌いだ! 大嫌いだ!」
「俺は啓太が好きだよ……愛している。俺には啓太が必要なんだ」
「嘘だ! 和希が欲しいのは、この身体だけだ! 貴重な宿主の、この身体が欲しいだけだ! 言葉なんて信じないっ!! 和希の言葉なんて、絶対、信じないっ!!」
 啓太が全身で叫んだ。なら、と和希が小さく尋ねた。
「どうすれば……もう一度、俺を信じてくれる、啓太?」
「先刻、言っただろう、和希……証明してよ。俺に、永遠の愛を」
「……わかった」
 そう答えるや否や、和希は一気に啓太に詰め寄ると、その細い身体を強くかき抱いた。驚いた啓太は慌てて和希を遠くへ押しやろうとした。身を捩って暴れる。
「やだって言っただろう! 放せよ、和希!」
「放さない」
「こんなの、何の証明にならないっ!!」
 力ない拳がポカポカと和希の胸を殴った。
「確かにね。でも、俺は絶対に啓太を放さない……愛しているから。愛している」
「またそうやって俺をっ……!」
 そのとき、手に何か硬い物が当たった。思うより先に啓太は和希の背広の内ポケットからそれを取り出すと、目の前の顔に向かって叩きつけた。
「……っ!!」
 小さな呻き声が上がった。左のこめかみから輪郭を辿る様に赤い血の糸が伝う。啓太の投げた携帯電話が床でガシャンと弾けた。
「あっ……!」
 さっと啓太が蒼ざめた。一度ならず、二度までも和希を傷つけて……こんな……こんなこと……俺、するつもりじゃなかったのにっ!!
 そう強く思った瞬間、胸の奥に先ほど東屋で感じたのを遥かに越える激痛が走った。
 事態を静観していた丹羽達が口々に音を発した。内から迸る閃光の中で啓太の輪郭が揺らいで、溶けて、崩れてゆく……様に見えた。
「啓太っ!!!」
 反射的に和希は啓太を強く抱き締めた。何も考えず、ただ夢中で……そして、夢を見た。



2009.1.9
漸く表題の言葉が出て来ました。
ああ、本当に長かった……
このまま、和希はヘタレずに頑張りましょう。

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Café Grace
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