「ここは……」
  気がつくと、和希は真っ白な世界にいた。足元は綺麗な水に満たされ、時折、小波が寄せては返してゆく。遠くで聞こえる雷鳴にふと空を見上げれば、そこは淡い春の光に包まれていた。
(前にも来たことがあるな。俺は……また夢を見ているのか?)
  そう思って、ハッと和希は気がついた。
「なら、啓太もここに!?」
  和希は素早く周囲に目を凝らした。すると……昏れゆく春の宵霞の中、少し離れた場所にポツンと啓太が倒れていた。
「啓太っ!!」
  夢中で駆け寄ると、和希は啓太を抱き起こした。軽く頬を叩く。
「啓太、しっかりしろ、啓太……!」
「……和、希……?」
「良かった。気がついたな、啓太」
「どう、して和希がここに……?」
  啓太は目を瞬かせた。和希は立ち上がる啓太を支えながら、小さく首を振った。
「さあ、俺にも良くわからない。啓太は、ここがどこか知っているのか?」
「うん……心象世界だよ、俺の。幾ら血が混じったとしても、普通、俺以外の者はここへは来れない。でも、俺を嘘偽りなく想う者が心を無にするとき、夢を見るとき、その境を……越えることが出来る」
  震える手で啓太は和希の頬に触れた。和希はそれに自分の掌を重ねる……そっと、愛しむ様に。
「愛している、啓太」
「……うん」
  ポロポロと啓太の瞳から涙が零れた。
  寄せる想いは同じでも、些細な行き違いから二人は大きくかけ離れてしまった。純粋であるが故にときに互いを傷つける愛は災いにも似ているかもしれない。しかし、だからと言って相手に愛の証明を求めても意味がなかった。それは決してその人の保証にはならないから。
(一緒にいること。ただ和希という存在だけが俺に永遠の愛を証明するんだ。良かった、最後にそれに気づくことが出来て……)
  啓太は和希を押しやると、少し離れて間合いを取った。
「和希、今まで本当に有難う。俺、和希と一緒に過ごせて幸せだった」
「何を言っているんだ、啓太?」
  まるで別れの言葉の様な響きに薄ら寒い不安を覚えた和希は啓太の腕を掴もうとした……が、啓太はそれをかわして後ずさった。二人の頭上で大きな雷が閃く。
「あれが見えるだろう、和希? ここは……直に崩壊する」
「……!」
  思わず、和希は言葉を失った。それが何を意味するかは訊くまでもない……
「もう直ぐ人としての俺は消える。だから、その前に和希の生命を和希に返すよ。和希は向こうに戻ったら急いで抗血清を合成して。俺は最後の力でKウィルスをそれに対応した構造に変異させる。また和希を苦しめることになるけど、これで総て終わるから。ごめんね。最後の最後まで、迷惑ばかり掛けて」
  啓太は綺麗に微笑んだ。
  死をも素直に受け入れるその瞳はどこまでも蒼く、何の悲嘆も憂いもない。和希は暫し呆然と啓太を見つめていた……が、やがて腸が煮えくり返るほど激しい怒りが込み上げてきた。
(漸く互いのわだかまりが解消され、もう一度、新しく二人でやり直そうという矢先に、俺一人を残して逝く気なのか、啓太? 今、啓太がしようとしているのはただの自己満足だ。以前、それを俺に教えたのは啓太だろう? なのに、今度は啓太がそれをするのか? 啓太こそ……何一つ俺のことを考えてはいない!)
「和希……?」
  反応のない和希に啓太がコクンと首を傾げた。すると、抑揚のない無機質な声が聞こえてきた。
「なら、俺もここに残る」
「なっ……!」
  絶句する啓太を、感情を押し殺した和希の暗い瞳が凝視する。
「約束しただろう、啓太? ずっと一緒にいる、と。俺は、もう二度とお前と離れる気はない。何があっても、絶対にお前は離さない。だから、俺からお前を奪おうとする者は誰であろうと許さない。たとえ、それがお前自身でも……許さないよ、啓太」
「……っ……!」
  ぞくっと啓太の背を悪寒が走った。
  二人が初めて逢ったとき、啓太の想いはまだ幼かった……が、和希は違う。自分の護るべき存在として既に啓太を認識し、愛し、その炎を絶やすことなく延々と胸に抱き続けてきた。成熟していない啓太の心が、そんな和希の奥の見えない深さに竦む。
  初めて、和希を怖いと思った。
(和希……怒ってる? どうして……?)
  後ずさりしそうになるのを辛うじて踏み止まるも、和希の発する無言の圧力に気持ちがどんどん追い詰められてゆく……
「か、和希は全然、わかってない!」
  終に緊張に堪えられなくなった啓太は半ば自棄になって叫んだ。俺だって和希と一緒にいたい! でも、どうにもならないことってあるだろう!
「ないよ」
「あるんだ! 形を失っても、俺は世界から完全に消滅する訳じゃない。俺の記憶は、次の宿主へと受け継がれる。和希が向こうに還って研究を続けてれば、いつか、いつの日か俺達はまた逢えるんだ。それに、ここが崩壊しても俺と違って和希は死なない。和希の形はまだ残ってるんだ。でも、意思を失えば残りの人生を廃人として過ごすことになる。和希は、自分が築いてきたもの総てを、今、ここで捨てても良いのか!」
「ああ」
  きっぱりと和希は言い切った。すかさず啓太が口を挟もうとしたが、それより先に和希が言葉を発した。
「俺にとって啓太は何よりも大切な、かけがえのない存在なんだ。どんなものでも、俺は啓太のためなら捨てられる……いや、その責任を啓太に押しつけるのは間違っているな。俺は、俺自身のために捨てるんだ。啓太のいない世界に一人で生きても何の意味もないとわかっているから。次の宿主が現れても、その中に啓太の意思と心はないだろう? 俺が愛している啓太は、今、ここにしかいないんだ。なら、俺はどこにも行かない。俺も、啓太と一緒にここに残る」
「和希……」
  そこまで強く深く想われて啓太は泣きたくなるほど嬉しかった。しかし、和希をこんな処で終わらせたくはなかった。今まで和希がしてきた努力がわかるから。それを察せられないほど、もう自分は子供ではないから……和希が手に入れたもの、背負っているもの総てを捨てる選択だけは絶対にさせたくなかった!
(こうなったら……無理やり和希を還す!)
  啓太がそう決心した、まさにそのとき――……
「……!」
  突然、水面に映る影がゆらりと揺れた。次の瞬間、それはすうっと宙に浮かび上がり、二人の間に啓太と全く同じ姿と声をしたもう一人の啓太が現れた。
「啓太!?」
  和希が僅かに目を瞠った。
(そうか。ここは啓太の心象世界だから、葛藤する心がそれぞれ形を持っているのか)
  もう一人の啓太は啓太に向かって静かに口を開いた……まるで懺悔するかの様に。
『漸くわかったよ、啓太……自己保全はあらゆる種の根幹を成すけど、ときに人の想いはそれをも凌駕することが。完全なる同化に必要なのは強靭な意思だけでなく、その裏付けとなる深い想いが必要だった。俺は移ろい易きは人の心と責めるより、もっと良く人を知ろうとするべきだった。ごめん、啓太……形を危うくしたのは俺……頑ななまでにこの男を拒んだ、俺のせいだったんだ……』
「啓太、君だけのせいじゃないよ。愛に迷って和希を責めたのは俺も同じ……俺達は同じ間違いをしてたんだ」
  啓太はもう一人の啓太を優しく腕に包み込んだ。ずっと心の奥に渦巻いていた和希への不信や憤りが和らいでゆくのを感じる。自分の身を省みず、ただひたすら啓太を強く想う和希に漸くもう一人の啓太が心を開き始めた。
  すっと……もう一人の啓太が和希に瞳を流した。啓太と同じ様に澄み渡った二つの蒼穹。しかし、そこにはまだ啓太にない冷たい炎が宿っている。
『俺の人への理解は確かに不十分だった。でも、俺が人という種を良く知ってることにやっぱり変わりはない。俺にとって、人は最も大切なパートナーであり……最大の敵だ』
  和希は無言でその視線を受け止めた。この啓太はKウィルスに近い意思を持っているのか……
『先代が死んだとき、その周囲にいた者達も自らの手で新たな宿主を作り出そうとした。でも、尽く失敗した。どうしてだかわかる?』
  いや、と和希は呟いた。すると、もう一人の啓太の瞳が残酷に鋭く光った。
『俺が殺したからだ。ただ条件さえ整えれば良いと思ってるなら、お前達も彼らと同じ轍を踏むことになる。俺は決して唯々諾々と人に従いはしない。宿主を決めるのは、悠久を永らえた俺の意思だけだ。そして、俺はこれからも宿主と共にあり続ける……自由に! 誰にも、その邪魔はさせない!』
「……」
『俺が怖くなっただろう? でも、俺も啓太なんだ』
  ふわっと微笑むもう一人の啓太に和希が優しく言った。
「俺が啓太を怖がるはずないだろう?」
『……!』
  今度はもう一人の啓太が黙り込む番だった。
「俺は人とウィルスの関係なら良く知っている。ウィルスは決して容赦しない。ただ生存と自己保全のみを貪欲に追求する、謂わば本能の塊だ。だから、常に最強の敵として生物の前に立ちはだかってきた。でも、Kウィルスは人と同化して理性を手に入れた。だから、今、俺に忠告している」
『……』
「先代のときに何が起こったか大体の想像は出来るよ。ウィルスを他者に奪われるのを恐れた彼らは周囲の者を手当たり次第に感染させたんだろう。でも、その中に宿主に足る者は一人もいなかった……啓太はもうそんなことを繰り返したくないから、無闇に人を傷つけたくないから、態々自分を貶めてまで俺に忠告したんだろう? 有難う、啓太……安心して。俺は宿主の力を利用する気は全くない。啓太は、ただ俺の傍にいてくれるだけで良いんだ。愛しているから」
『……お前が愛してるのは俺じゃない』
  すると、和希は両手を伸ばして二人の頬を優しく撫ぜた。
「啓太、人は誰でも暗い鏡に映るもう一人の自分を心に抱えている。でも、何とかそれと折り合いをつけながら、今を生きているんだ。皆、啓太と同じなんだよ。だから、俺にはどちらも同じ啓太にしか見えない。愛しているよ、啓太……俺は『啓太』を愛している」
『……!』
  もう一人の啓太が小さく息を呑んだ。和希の中に啓太の華やいだ煌きとは違う、深く静かな光が見える。それは、しなやかで強かな……和希の意思。今までは啓太という輝く陽に紛れて見えなかった……
(俺を苦しめる一方で俺を護ろうとする、矛盾に満ちた男。でも、その奥に啓太とは違う強さの意思がある。ああ、綺麗だ……本当に、とても綺麗だ……)
「和希……!」
  啓太の声が涙で揺れた。二人は同じ一個の存在なので分かつことは出来ない。和希がもう一人の啓太を拒絶すれば、『啓太』は本当に壊れてしまうところだった。
  和希が長い指で優しく啓太の目元を拭った。啓太がふわりと微笑んだ。
「やっぱり和希は凄いね。有難う、俺達を認めてくれて……受け入れてくれて。お陰で、もう一度、やっていける」
「本当か、啓太!?」
  思わず、和希は二人の啓太をギュッと抱き締めた。うん、と啓太が嬉しそうに頷いた。
「だから、和希は先に還って。あまり身体を空っぽにするのは良くないから。俺達はもう少し状態が安定するまでここにいる。でも、明日の朝には必ず和希の処に還るから。約束するよ、和希」
「……わかった。なら、啓太が目を醒ましたとき、最初に俺が瞳に映る様にして待っているよ」
  和希は力を緩めて二人を解放した。すると、もう一人の啓太が啓太と同じ優しい微笑でこう言った。
『有難う……和希』
  それが、和希がそこで見た最後の光景だった。


2009.1.23
ただの痴話喧嘩だった気もしますが、
これで、啓太も少し大人になりました。
将来、和希が『鈴菱』の社長に就任したら、
啓太は相談役かな。

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Café Grace
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