三日後、慧と明日叶はマニュスピカ本部へ来ていた。
 魁堂学園で先輩だった亮一から、回収した絵画の真贋の確認を急に頼まれてしまった。そうしたことは別に珍しくはない……が、和希と会った日以来、明日叶は真実の瞳(トゥルー・アイズ)を巧く制御出来なくなっていた。力を使うと、瞳に映る情報量が多過ぎて心身共に疲弊してしまう。子供の頃の様に慧に両目を塞いで貰っても、なかなか抑えられなかった。理由はわかっていた。自分が拒絶する力を操れるはずがない。それに、今はあの木がないから……
「……」
 明日叶にとって、慧の家の庭にあったあの大きな木の下はいつも穏やかな温もりを感じられる大切な場所だった。そうして凪いだ心にずっと慧が寄り添ってくれたからこそ、漸く自分の力を受け入れることが出来た。しかし、明日叶がアメリカへ引っ越した後、慧の家はホークによって無残に破壊されてしまった。そして、静一郎は慧から復讐以外の選択肢を奪うためにそこを総て更地にした。もうあの木はどこにも存在しない。今はただ、二人の記憶の中にのみある……失われた風景。その虚空を埋めるものは未だに見つかってはいなかった。
(こんな状態では亮一さんの力にはなれないかもしれない。でも、それを言い訳にして俺は逃げたくない……!)
 待ち合わせをしている第三応接室のドア・プレートを睨んで、明日叶はキュッと口唇を噛み締めた。すると、不意に慧が優しく髪を撫ぜて頬へと手を滑らせた。
「もっと肩の力を抜け、明日叶、その方が良い顔になる」
「あ……」
 言われて、明日叶は初めて自分が緊張していたことに気づいた。
 真実の瞳(トゥルー・アイズ)を制御して使うには集中を要すが、任務中は何が起こるかわからない。それに素早く対処するには自然体でいるのが一番良いと経験から既に知っていた。慌てて深呼吸する。
「……有難う、慧」
「いや」
 慧は素っ気無く答えると、少し顔を背けた。明日叶がクスッと笑った。
(俺より手先が器用で大胆なことも平気で言うのに、お礼くらいで照れるなんて……たまに凄く不器用だよな、慧は)
 恋人のそんな知られざる一面を明日叶は密かに可愛いと思っていた。しかし、あまり笑っていると後で慧を宥めるのが大変なので、静かに応接室のドアをノックした。
「やあ、久しぶりだね、二人とも。元気だったかい?」
 室内に入ると、穏やかな風貌に人の良い微笑を浮かべて亮一が肘掛け椅子から立ち上がった。
「はい、亮一さん」
 コクンと明日叶は頷いた。三人はそれぞれ握手をすると、慧と明日叶はソファに、亮一は元の椅子に腰を下ろした。直ぐにため息混じりに話し始める。
「いや、参ったよ。今回の任務はトラブル続きでね。当初の計画が大幅に狂ってしまった上に、どうやら精巧な偽造品まで混じってるらしいんだ。本当、明日叶が海外任務中だったら、どうしようかと思ったよ。本部で鑑定して貰うと、最低でも一ヶ月は掛かってしまうからね」
「えっ!? そうなんですか」
 明日叶は少し驚いた。自分には普通に視えることを確認するために、そんなに時間がかかるとは知らなかった。魁堂学園にいた頃も、今も……したことがなかったから。
 亮一が柔らかく微笑んだ。
「真贋の確認は専門家でも判断が難しいんだ。複数の人が一年以上も調べた結果、意見が割れることもある。科学的検証である程度は絞ることが出来るけど、美を感じるのは心だろう。結局、最後は見る人の本質に委ねられるんだ。本当に明日叶のいるチームが羨ましいよ。俺はマニュスピカとして美を護ることに誇りを感じてるけど、チームの皆が任務と同じくらい大切な仕事や家庭を持ってることも充分に知ってる。だから、最初に予定した期日は必ず守りたいんだ。一方に犠牲を強いる関係は決して長続きしない。その二つを両立させてこそ、真の戦略担当だと俺は思ってるんだ」
「……そう、ですね」
 亮一の言葉に明日叶は小さく俯いた。
 父・冬麻もキュレーターという美術関係の仕事の傍ら、マニュスピカとして任務についていた。そのためにいつも世界各地を飛び回り、家には殆どいなかった。父の担当が何かは未だに知らないが、もし、戦略担当の者が亮一の様な考え方だったら、自分はあんなに寂しくなかったかもしれない。そう思ったら、明日叶は急に亮一のチームにいる人達が羨ましくなった。つい口が滑ってしまう。
「俺も、また亮一さんと一緒のチームになりたいです」
「明日叶達の指揮官は確か荒木だよね、元チーム・ウイユの。内とはずっと犬猿の仲だったからな。やっぱり彼の下はやり難いかい?」
 亮一が心配そうに尋ねた。
「あっ、いえ、別にそういう意味では……」
 慌てて明日叶は否定したが、その浮かない表情が何よりも雄弁に本心を語っていた。亮一が真っ直ぐ明日叶を見つめた。
「一応、任務ごとにチームを編成することになってるけど、実際は同じ戦略担当の下に置かれることが多い。チーム・ワークは一朝一夕で出来るものではないからね。明日叶達がマニュスピカになったとき、俺が海外任務中でなかったら、きっと同じチームに配属されたと思うよ。残念だよ、本当に。でも、皆、内心では明日叶の力を高く評価してる。今はまだわだかまる部分があるかもしれないけど、いつか必ずわかって貰えるよ。だから、明日叶、挫けずに頑張ろう。何かあったら、いつでも俺が相談に乗るから」
「はい……有難うございます、亮一さん」
「そろそろ本題に入れ、二階堂亮一」
 慧が先を促した。
 亮一は清濁併せ呑んでなお光を見つめる瞳を持ち、どんなときも常に他者への気配りを忘れなかった。だからこそ、大学生ながらも戦略担当として自分より年長のマニュスピカ達を巧く采配出来るのだろう……が、長口上なのが珠に瑕だった。
「悪い。またやってしまったかな」
 ばつが悪そうに亮一は頭を掻いた。そして、表情を引き締めると、漸く本題に入った。
「これなんだけど……頼むよ、明日叶」
「わかりました」
 明日叶は差し出された白い封筒に手を伸ばそうとして……不意に止まった。和希の言葉が頭を過ぎる。
「……単に美術品の真贋を見極めるだけなら、真実の瞳(トゥルー・アイズ)は必要ない……』
「……」
(確かに俺も鈴菱さんの言う通り、それが真実の瞳(トゥルー・アイズ)の本質とは思えない。でも、こんな力、他にどう使えば良い……)
「明日叶?」
「あ……すいません」
(駄目だ。今は余計なことは考えず、ただ視ることだけに集中しよう……)
 封筒の中には十数枚の写真が入っていた。
 真実の瞳(トゥルー・アイズ)で視るものは実物である必要はないので、これだけで充分に事足りる。明日叶は軽くこめかみを押さえた。心の中でそっと呟く。あまり深く探らず、必要な部分だけ視れば良い。
 そうして内なる瞼をゆっくりと開いた。しかし、その瞬間、視界にある総ての物の情報が一気に流れ込んできた。製作者、素材、時間、背景……様々な数字や言葉が明日叶の上に降ってくる。
「……っ……!」
(まただ! また真実の瞳(トゥルー・アイズ)が制御出来ない……!)
 瞳の内側をガンガン叩かれる様な痛みと吐き気を堪え、明日叶は渦巻く濁流の中から何とか三枚の写真を抜き出した。亮一に渡す手が小刻みに震える。
「これ、が……偽造――……」
 ふらりと身体が傾いだ。
「明日叶!」
 慧が素早く明日叶を抱き寄せた。同時に骨ばった大きな手で蒼ざめた明日叶の瞼を覆う。亮一が慌てて携帯電話を取り出した。
「今、医者を呼ぶ」
「……っ……大丈、夫……」
 浅い呼吸を繰り返しながら、明日叶が呟いた。
 本当に医者を呼ぶほど大袈裟なことではなかった。ただ、今は口を利くのも辛いほど気分が悪く、体力を激しく消耗していた。慧の手がないと、瞳に焼きついた残像さえ消せない。そんなに力を使った訳でもないのに……
「明日叶……明日叶……」
 慧が何度も呼び掛けているが、もう言葉を紡ぐ力も出なかった。
(……少し休ませて、慧……昔の様に……こう、して……)
 そうして明日叶は墜落する様に意識を手放した。

「……ん……」
 どのくらい寝ていたのか、ふと気がつくと、明日叶はソファに横たわっていた。肘掛けに軽く腰を下ろした慧が飽きもせず、ずっと髪を撫でている。
「慧……」
「……先刻よりも大分、顔色が良くなった」
「うん、もう大丈夫……どのくらい寝てたんだ、俺?」
「二・三時間といったところだ」
「亮一さんは?」
「明日叶を心配してたが、任務処理のために戻った。明日叶に、有難う、と伝言を預かっている」
「そう……良かった……」
 明日叶は、ぼんやり宙を見つめた。どうしよう、と思った。真実の瞳(トゥルー・アイズ)を使う度にこれでは皆の足手纏いになってしまう。早く何とかしないと、次の任務が……
 すると、突然、慧が言った。
「明日叶、先刻、俺とお前の休暇を申請した」
「……えっ!?」
 驚いた明日叶は半身を起こして慧を見つめた。どうして……?
「今の明日叶には迷いがある。それでは制御出来るものも出来ない。だから、暫く任務から離れた方が良い。そうして気分を変えれば、必ず見えてくるものがある。焦るな、明日叶……お前には俺がついてる」
「……有難う、慧」
 明日叶は弱々しく微笑んだ。その言葉に嘘があるとは思わないが、言わないことの方が遥かに多いのは直ぐにわかった。慧は優しいから……
 偶然、持って生まれただけの能力でマニュスピカになった奴……今のチームで密かにそう陰口を叩かれているのを明日叶は知っていた。真実の瞳(トゥルー・アイズ)ということで魁堂氏からも一目置かれる明日叶は、他の者達からすると羨望と嫉妬の対象だった。ましてや、指揮官の荒木は個性より効率を重視する統制主義で鳴らしたチーム・ウイユの出身。明日叶が真実の瞳(トゥルー・アイズ)を制御出来ないと知ったら即座に切り捨てることは目に見えていた。だから、慧が先手を打ったのだろう。
(慧の様に身体能力が優れてる訳でもない俺は、真実の瞳(トゥルー・アイズ)がなければ何の役にも立たない……)
「……帰ろう、慧」
 その声は自分でも殆ど何も聞こえないほど小さかった。

 帰宅するなり、二人はすぐさまベッドに雪崩れ込んだ。
 同じマンション内に隣り合わせで部屋を借りてはいるが、肌を合わせるまま、一緒に朝を迎えることの方が多かった。激しく求めてくる慧を明日叶は必死に受け止めた。それは不安に揺れる自分の心だから。慧は何も言わなくても俺の気持ちをわかってくれる……
「慧っ……ああっ、慧っ……」
 明日叶は強請る様に慧の肩に爪を立てた。もっと、もっと……身体の最も奥深い場所で慧の熱を感じたかった。それに応えて、慧が腰を強く打ちつけた。快感に震える明日叶の中心を手で戒め、更なる高みへと追いやる。
「ん、ああっ……あっ、やだっ……そ、れっ……慧っ……!」
 そうして今だけは何もかも忘れてしまいたかった。



2010.2.12
和希の言葉で悩み始めた明日叶。
深みに嵌る前に慧が助けてくれるはずです。
それにしても、慧……殆ど話してない……

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Café Grace
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