ベッドにうつ伏せになって身を横たえ、明日叶が情事の余韻に浸っていると、慧がマグカップを持って寝室に戻って来た。
「ミネラル・ウォーターだ。飲むか?」
「うん……」
 掠れた声で明日叶は呟いた。食事もしないで求め合ってしまったので空腹だったが、それ以上に喉が渇いていた。まだ重い身体を起こすと、慧が枕をクッション代わりに背中に当ててくれた。
「有難う」
「ああ」
 慧は隣に腰を下ろし、マグカップを差し出した。明日叶は両手でそれを受け取った。
「丁度良かった……何か飲みたかったから」
「あれだけ啼けば当たり前だ」
「慧っ……!」
 ポンッと明日叶は沸騰した。もう……
「本当のことだろう?」
 慧の瞳が小さく笑った。その視線から逃れる様に明日叶は急いでマグカップに口をつけた。
「ん……」
 火照った身体に水の冷たさがとても気持ち良かった。思わず、ほうっと甘い息が零れる。慧がそっと肩を抱き寄せたので、明日叶は素直に寄り掛かった。身も心も慧の愛で満たされ、胸がとても凪いでいた。慧が取ってくれた休暇も最初は捻くれた捉え方しか出来なかったが、今は感謝していた。こうして暫く二人静かに過ごすのも良いかもしれない……
「何か……任務がないと、時間が一杯ある気がするな、慧」
「ああ、そうだな」
「俺達、いつも出席率はぎりぎりだから、これで漸くきちんと講義を受けられるな」
「ああ」
「……?」
 慧の声に微かな違和感を覚えて、明日叶は不思議そうに恋人を見上げた。すると、慧が躊躇いがちに言った。
「明日叶、俺は鈴菱和希のことを少し調べてみた」
「えっ!? どうして……」
「ずっと気にしてるだろう、あいつに言われたことを」
「……うん」
 明日叶は小さく頷いた。
 あれから自分なりに真実の瞳(トゥルー・アイズ)のことをずっと考えていた。視えるのは物の概要や素材、製作者などの情報……真実の瞳(トゥルー・アイズ)は偽りは決して映さない。でも、その先がわからなかった。慧が淡々と話し始める。
「鈴菱和希。『鈴菱グループ』最高経営責任者(CEO)の一人息子にして最高情報責任者(CIO)。他に最高情報セキュリティ責任者(CSO)と最高技術責任者(CTO)を兼務してる。肩書きは伊達ではなく、実際、かなり有能な人物らしい。『鈴菱』のセキュリティ・プログラムの基礎は総て鈴菱和希が一人で作り上げたという話だ。また、ベル製薬研究所長として自らも新薬の研究・開発に携わり、三年前、懸案だった免疫抑制剤の量産化にも成功した。そうした功績が認められ、二年前、『鈴菱』がアメリカ型企業統治を導入した際、これらの役職に就き、現在に至ってる」
「そんなに凄い人だったんだ。それで?」
「今回の依頼は鈴菱和希本人が魁堂氏に直接、かつ秘密裏に申し入れたものだ。一応、依頼と言ってるが、鈴菱和希が一切の情報提供を拒否したので本部の承認は受けてない。だから、もし、何か問題が起こった場合、魁堂氏が総ての責任を取るつもりだったらしい」
「慧、どうして総理事長はそんな怪しい依頼を断らなかったんだ? 『鈴菱』から何か圧力でも掛かったのか?」
「いや……だが、魁堂氏に選択の余地はなかった。なぜなら、明日叶……鈴菱和希は、お前の顔も名前も真実の瞳(トゥルー・アイズ)のことも何もかも総て承知の上で、この件を依頼してきたからだ」
「まさか……一体、どうやって俺のことを……」
 明日叶は呆然と呟いた。不明だ、と慧は首を横に振った。
「鈴菱和希の言葉によると、偶然、知ったらしい。その真偽は定かではないが、依頼を断れば、鈴菱和希は明日叶に直に接触するのは目に見えてる。なら、自分の責任の及ぶ範囲で、と魁堂氏は考えた」
 慧は苦しげに眉をひそめた。明日叶は無言でマグカップに視線を落とした。
 魁堂氏はマニュスピカの理想を正しく継承し、温厚な人柄で人望も厚かった。しかも、義理とはいえ、慧にとっては祖父……心を痛めないはずがない。
 マニュスピカの個人情報は本部サーバー内にあるが、データは厳重なセキュリティ・システムによって幾重にも保護されていた。しかし、『鈴菱』の最高情報セキュリティ責任者(CSO)を務めるほどの人物なら侵入出来るのかもしれない。それとも、また俺のせいだろうか……
 幼い頃は真実の瞳(トゥルー・アイズ)で視たことを周囲に何もかも話していた。そこから現在にまで辿り着くのは不可能ではない。現にホークには出来た。自分の浅はかな言動が今になって慧の大切な人に迷惑を掛けている……そう思うと、明日叶は居た堪れなかった。すると、不意に慧の手が明日叶の唐茶色の髪を優しく撫でて頬へと滑り降りた。
「明日叶、鈴菱和希は気に入らない男だが、嘘はついてないと思う。真実の瞳(トゥルー・アイズ)の存在は、一般には殆ど知られてない。『鈴菱』なら幾つかの情報は持ってるかもしれないが、あのとき、あいつも言ってただろう、半信半疑だと。その程度の気持ちで鈴菱和希が態々本部サーバーをハッキングしたり、真実の瞳(トゥルー・アイズ)の持ち主を探すとは思えない。だから、明日叶のことを知ったのは本当に偶然だろう。何でも直ぐ自分のせいにするな、明日叶、お前の一番悪い癖だ」
「慧……有難う」
「目下、鈴菱和希には魁堂氏の指示でマニュスピカの監視がついてる。絶対に明日叶には指一本たりとも触れさせない。安心しろ」
「うん、慧を信じてる」
 明日叶が小さく微笑んだ。ああ、と慧が頷いた。二人の顔が自然と近寄り、ふわりと口唇が重なった。そうして軽く吐息を交換した後、慧が再び話し始めた。
「明日叶、これはまだ魁堂氏に報告してないことだが……実は鈴菱和希を探る過程で、俺は興味深い噂を一つ耳にした」
「噂?」
「ああ、経済界の裏で囁かれてるものだ」
 慧の表情が急に引き締まった。真剣な眼差しがここからが本題だと言っている。明日叶はきちんと居住まいを正した。そして、ゆっくり口を開いた。
「それはどんな噂なんだ、慧?」
「……『鈴菱』は真理を持ってる」
「……!」
 その瞬間、明日叶の脳裏に和希の言葉が浮かんだ。
『……これは真理そのものだ……』
『……偉大(おおい)なる真理を前にして……』
「その言葉……鈴菱さんも使ってた」
 ああ、と慧は頷いた。
「真理という抽象的な言葉が何を指すのか正確にはわからないが、あれのことにまず間違いない。そう考えれば、鈴菱和希の言動に総て説明がつく。
 あの日、鈴菱和希はワン・フロアを総て貸し切り、エレベーターまで専用にした。従業員でさえ、指示があるまで十三階には近づけなかったそうだ。鈴菱和希がそこまで用心したのは、あれが『鈴菱』にとって重要なものだからだ。だから、明日叶を態々呼び出してマニュスピカを牽制した。もし、マニュスピカが不審な行動を取れば、躊躇うことなく明日叶の生命を盾にしたはずだ。だが、この取引は公平ではない。鈴菱和希は明日叶のことを知ってるが、俺達は『鈴菱』が持つ真理についてまだ何一つ情報がない」
「……うん」
 明日叶は小さく俯いた。俺が、きちんとあれの真実を視れなかったから……
「明日叶」
「……うん、わかってる」
 沈みそうな心を明日叶はマグカップを握って堪えた。
「慧……あれ、人の血かな」
「ああ、生死は不明だが、そう考えるのが自然だろう。俺がそんなものと言ったときの鈴菱和希の怒り方は尋常ではなかったからな」
「それを言うなら慧も――……」
 言い掛けて、ふと明日叶は口を噤んだ。まさか……
「どうした、明日叶?」
 慧が明日叶の顔を覗き込んだ。明日叶は思いついたことを慎重に言葉に乗せた。
「慧、その人、まだ生きてる。それに、鈴菱さんとかなり親しい関係だ。もしかしたら、恋人かもしれない」
「なぜ、そう思う、明日叶?」
「似てるんだ、あのときの慧と鈴菱さんの感情の動きが……恋人というのは俺の勘だけど。鈴菱さんに恋人は、慧?」
「公にはいない。だが、鈴菱和希なら幾らでも隠すことが出来るだろう。成程……恋人か。なら、あの血の持ち主は鈴菱和希の周囲に必ずいる。見つけ出すことは可能だな」
 真紅の瞳が鋭さを増した。慧の考えを読んだ明日叶が、すかさず言った。
「慧、探すなら俺も手伝う」
 慧は何でも一人で対処しようとする癖があった。しかし、明日叶は慧に護られているだけ存在にはなりたくなかった。それでは慧と同じ路を歩むとは言えないから。
「止めても無駄だからな、慧」
 明日叶は強い意思を秘めて慧を見つめた。
「ああ、わかってる。明日叶は昔から頑固だからな」
 クスッと慧が笑った。明日叶は首を傾げた。
「何がおかしいんだ、慧?」
「いや、先刻より元気になったなと思っただけだ」
「そうか?」
「ああ……また押し倒したくなりそうだ」
「……!」
 恋人の眼差しに欲望の色彩(いろ)を感じ取った明日叶はマグカップをナイト・テーブルに置くと、慌ててベッドの中に潜り込んだ。
「も、もう駄目だからな」
 慧に散々愛された身体は本当に限界だった。どう足掻いても、体力では慧に適わない。いや、他のこともそうかもしれないが……そのことだけは何度も身を以って経験していた。慧に合わせてたら、俺が持たない……!
 警戒する様に小さく丸まる明日叶を見て、また慧が笑った。そんな二人を暗い夜空から蒼ざめた月が優しく見つめていた。

 同じ頃……別の窓辺で、和希は涙を流して泣く恋人を為す術もなく抱き締めていた。お前だけを愛している。愛しているから……この手を黒く染めて世界をお前に捧げよう。そうすれば、いつかこの涙が止まると信じて……



2010.3.5
漸く方向が見えてきました。
でも、明日叶の悩みは尽きません。
慧の体力に果てはなさそうだから。

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Café Grace
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