真夜中……そろそろ時計の針が午前零時を指そうという頃、寮の入口のドアがそっと開いた。和希と啓太が音もなくロビーに滑り込んで来る。夕食後、久しぶりに二人で散歩に行ったら、つい時間の経つのを忘れてしまった。点呼に間に合わなかったので、明日は篠宮に懇々と説教されるだろう。しかし、そんなことは気にもならなかった。今、二人の心と身体は満たされていた。幻想的な星の光を湛えた海と波の音だけが響く静寂の中で、恋人同士が互いを求めて肌を合わせるのはとても自然な流れだったから。
「大丈夫か、啓太?」
 ドアの鍵を閉めながら、和希が声を潜めて振り返った。
 和希の熱を受け止めるので精一杯の啓太を思って暫く休んでから帰寮したが、やはりまだ歩くのは辛そうに見えた。しかし、啓太は健気に頷いた。
「うん、平気……それより、和希、急がないと。篠宮さんに見つかったら大変だよ」
「ああ、そうだな」
 啓太とは違う意味を籠めて和希は真剣に頷いた。
 艶めかしい情事の余韻をまだ色濃く残す啓太を他人に見せたくはなかった。仄かに上気した頬や気だるく濡れた眼差しは、それだけでかなり男を煽る。和希は、すっと啓太の腰に手を回した。服の上を滑る掌に、啓太は敏感に頬を赤らめた。先ほど和希を深く感じたばかりなのに、また内奥に火が点きそうになる。
(な、何を考えてるんだよ、俺……!)
 啓太は必死に自分にそう言い聞かせると、縺れそうな足で静かに廊下に踏み出した。その瞬間、突然、右から黒い影が飛び出して来た。
「わっ……!」
 思わず、大きな声を上げてしまった啓太を和希が素早く左端にある階段の陰に引き込んだ。ピタッと啓太の背中を壁に押しつけ、しっと指を立てる。間髪を容れず、ロビーに誰かが入って来た。
「そこにいるのは誰だ?」
 凛とした響きで篠宮が言った。
 見つかった、と啓太は和希を軽く押し退けた。和希はここに隠れてて。俺のせいで、和希まで篠宮さんに怒られることないから……
 そうして自ら前へ進み出ようとした。すると、和希が華奢な身体を片手で強く抱き寄せた。すぐさま顎を捉え、強引に口唇が重なる。
「んっ……っ……!」
 驚く啓太を物ともせず、和希は舌を絡めて口腔を深く貪った。無意識に和希に縋りつく啓太の耳に、再び篠宮の厳しい言葉が届いた。
「潔く出て来い。階段の陰に隠れているのはわかっている」
「……っ……!」
 ビクッと啓太が震えた。離して、和希……
 しかし、和希は腕の力を緩めなかった。口づけは更に激しく啓太を翻弄し、総ての吐息を奪おうとした。密着する身体に海辺の記憶が蘇ってくる。愛されて妖しくざわめく肌。背筋を駆ける快感。そして、最も奥深い場所で感じる愛しい人の熱……啓太は再び自分が反応し始めているとはっきりわかった。
「……っ……ふっ……」
 伏せた瞳に、じわっと涙が滲んできた、篠宮が少し声を荒げた。
「いい加減、諦めて出て――……」
「ぶにゃ~ん」
 そのとき、不意に猫の鳴き声が聞こえた。大きなしっぽを優雅に振りながら、トノサマが堂々と篠宮の前へ現れる。
「今の声はお前か? だが、人の気配がした様に感じたが……」
 篠宮は暗がりに目を凝らした。
「ふむ……」
 階段の向こう側――和希と啓太が潜んでいる場所――は死角になって見えなかった。念のために確かめた方が良いだろう。そう思った篠宮の足にトノサマが引き止める様に絡みついた。
「珍しいな。どうした? ずっと海野先生が探していたぞ」
「ぶにゃ~ん」
 甘えて頭を擦りつけるトノサマを篠宮は優しく撫でた。ふっ、と小さく微笑む。妙な風格はあるが、やはり飼い猫だな。人がいないと寂しいのだろう……
「わかった。わかった。お前を放っておくことはしない」
 篠宮は静かにトノサマを抱き上げた。もう一度、階段の陰へ瞳を流す。頭の中に今夜の点呼で不在だった者の名前を順番に思い浮かべた。恐らくその内の誰かだろう。本来ならば、直ぐに捕まえて説教するところだが……仕方ない。今は、か弱い動物の保護を優先することにした。
「そこにいる者、早く自室へ戻れ。点呼で不在なのは既に記録済みだ。明日、事情を聞かせて貰う」
 そう暗闇に告げると、篠宮はトノサマを連れて静かにその場から去って行った。
「……っ……」
 足音が完全に遠のくと、漸く和希は口唇を離した。少し蒼ざめ、微かに震えている様にも見える啓太の頬に優しく触れる。
「取り敢えず、篠宮さんに見つからなくて良かったな」
「……っ……馬鹿……」
 ポコッと啓太が和希の胸を叩いた。
「何で、あんなこと……篠宮さんに見つかったら、どうするつもり……っ……」
 抑え切れない涙が瞳から零れ落ちた。和希はその糸を軽く指で拭った。
「啓太は、俺とのことを隠したいのか?」
「……そういうことじゃ、ない」
「なら、どういうこと?」
「……俺、和希とのこと、隠したい訳じゃない。けど……だからって……態々人に見せなくても……」
 昂ってしまった身体を、もし、篠宮に気づかれたら……いや、もし、ではないだろう。日頃から篠宮は寮生の健康に注意しているので恐らく一目で見抜かれる。それを想像するだけで、あまりの恥ずかしさに啓太は眩暈がした。
「でも、ああでもしないと、啓太は今夜の罪を一人で被るつもりだっただろう? だから、キスした。抜け駆けなんてさせない。俺達はいつも一緒だ……篠宮さんに見つけられるのも、怒られるのも。俺は、絶対に啓太を離さない」
 それまでの柔らかい声音から一転した和希を啓太は驚いて見つめた。
 深夜、人目につき難い暗がりで、口唇を重ねている二人がどんな関係なのか。恋愛に鈍い篠宮といえども、さすがに直ぐ察するだろう。恋人達の夜のデートを追及するほど野暮ではないかもしれないが、その分、明日はたっぷり怒られる。そうしたら、和希は誘ったのは自分だと話すに違いない。
(そんなこと言ったら、和希の方がもっと怒られるってわかってるのに……)
 しかし、和希は自らそれを選んだ。どこまでも自分と一緒にいようとしてくれる、その心に啓太は胸が一杯になった。同時に相手に尽くすことの意味を悟る。明日は篠宮の説教を受けると確定しているのだから、今夜だけ逃れても意味がない。俺の行動は単なる自己満足に過ぎなかった……
「和希……有難う……」
 細い腕が伸びて、キュッと和希の首にしがみついた、溢れる想いのままに自然と腰を摺り寄せ、心と身体の奥で甘く疼く熱を伝える。そんな和希が好きだから……もっと和希が欲しい、もっと。一度じゃ足りない……
 和希がふわりと微笑み、抱き締めた。
「部屋へ戻ろう……早く啓太を抱きたい」
「……うん」
 啓太は小さく頷いた。今夜は一杯、抱いて。そして、明日は一緒に怒られよう。好き、和希……大好き……



2009.10.9
寮の風紀を自ら乱す理事長・和希。
寮則などは気にしません。
でも、夜の散歩は程々にしましょう。

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Café Grace
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