理事長室に書類を届けに来た啓太は、和希の机に見慣れない缶があるのにふと気がついた。
「和希……この缶、何?」
「ああ、これか? 岡田が出張土産に買ってきたリキュール・ボンボンだよ。食べる?」
「有難う」
 嬉しそうに啓太は蓋を開けた。綺麗なボンボンに小さな歓声を上げる。
「あっ、色々な種類がある。う~ん、どれにしようかな……」
 啓太は少し迷ってから、赤紫色のボンボンを摘み取った。パクッと口に入れて頬を綻ばす。美味しい。それにはワインが入っていた。缶には他の色彩(いろ)もある。恐らく中の酒が違うのだろう。そうなると、総ての種類を食べてみたくなるのが人情だった、早速、啓太は二つ目を選び始めた。それを楽しそうに眺めていた和希が、ふと思い出して尋ねた。
「啓太はもう終わり?」
「うん、中嶋さんが今日は帰っても良いって。和希は?」
「俺はもう暫く掛かりそうだな」
「なら、俺、待ってる」
 緑色のボンボンを食べながら、啓太が言った。それはペパーミントだった。これもなかなか美味しい。
「啓太、あまり食べ過ぎるなよ」
「わかった」
 啓太は和希の仕事の邪魔にならないよう缶を持ってソファへと移動した。今度は透明なボンボンを一つ。上品な甘さとオレンジの香りが、ふわりと口の中で花開いた。
(あっ、コアントローだ)
 実際に飲んだことはないが、ケーキなどで馴染みがあるので直ぐにわかった。そのとき、小さなノックがして石塚が現れた。
「あっ、こんにちは、石塚さん」
「こんにちは、伊藤君、お茶をお持ちしました」
 石塚は柔らかく微笑みながら、ティ・ポットとカップを啓太の前のテーブルに置いた。
「有難うございます。あれ? 珍しいですね、紅茶なんて」
「今日はボンボンがありますから」
「……?」
 啓太は小さく瞬きをした。ボンボンと紅茶にどんな関係があるんだろう。すると、和希が言った。
「会計室でやったことないか、啓太?」
「ううん、知らない」
「紅茶に入れるブランデー代わりに使うんだよ。ボンボンは、お酒と砂糖だから丁度良いだろう?」
「あっ、成程」
「この琥珀色のがブランデーです。恐らく五・六個で充分だと思いますよ」
 石塚が親切に教えてくれた。
「有難うございます、石塚さん」
 早速、啓太はボンボンを五つカップに入れた。スプーンでクルクルかき回していると、和希が石塚を呼んだ。優秀な秘書は小さく頭を下げ、自分の仕事へと戻った。
(……そろそろ溶けたかな)
 コロンとした音が聞こえなくなったので、啓太はスプーンを置いた。試しに一口、飲んでみる。
(う~ん、ブランデーの香りは良いけど……甘さが物足りないな)
 そこで、ボンボンを三つ追加してみた……が、先刻と大差なかった。四つ……まだまだ。五つ……う~ん、もう少し。六つ……あっ、あと一個。そして、七つ……うん、完璧。
 味見ばかりしている内に感覚が鈍くなってしまったことに気づかない啓太は、結局、ボンボンを十二個も入れてしまった。
(ああ、幸せだな……)
 ブランデーの芳しい香りに包まれた紅茶はとても贅沢な感じがした。あっと言う間に飲み終えてしまったので、啓太はポットの紅茶を注いだ。またボンボンを入れる。ついでに、幾つか口にも。そうして優雅に時間が流れていった……
(後はここか)
 和希はパソコンでセキュリティ・システムの修正プログラムを作っていた。ハッカー達の技術は日進月歩なので、その対策も日々見直す必要があった。ここを塞げば、システムの脆弱性を更に補完出来るはずだった。キーを叩く手にも自然と熱が入る。
「和希……」
 不意に啓太が呼んだ。
「……何、啓太?」
 入力を休むことなく、和希は返事をした……視線は未だ画面を注視したまま。
「……好き」
「……っ……!」
 急に腕が首に巻きついてきたので、危うく間違ったキーを押してしまうところだった。驚いて顔を上げると、至近距離から啓太が蕩ける様な瞳でうっとり和希を見つめていた。
「好き……大好き……」
「まさか……」
 和希がボンボンの缶へ目をやろうとすると、啓太が両手で強く頬を挟み込んだ。
「……嫌。余所見しないで」
 自ら熱く口唇を重ねる。
「和希……っ……ふっ……」
「んっ……啓、太……」
 いつになく積極的に舌を絡めてくる啓太に困惑しつつも、和希は恋人をしっかり自分の膝に乗せた。すると、啓太が性急に和希のネクタイに指を掛けた。
「あっ、啓太……少し待って」
 和希が柔らかく啓太を押しやった。
 啓太からのお誘いなら、いつでも大歓迎だが、せめてドアに鍵を掛けたかった。情欲に染まった啓太の肌を他人には決して見せたくないから。プログラミングの途中だったので、和希は画面を切り変えようとキーボードに手を伸ばした。しかし――……
「やだ! 啓太以外に触ったらやだっ……!」
 腕に力を籠め、啓太は健気なまでにキュッとしがみついた。和希は優しく啓太の背を撫でた。
「大丈夫。直ぐに終わるから」
「和希は、啓太以外を触りたいの?」
 可愛く、真剣に啓太が尋ねた。まさか、と和希は首を振った。
「ただ、俺はドアに鍵を――……」
「浮気するの?」
 ウルウルと啓太の瞳が揺れた。更に畳み掛ける。
「和希……浮気したんだ」
「啓太!?」
 話の飛躍に驚く和希の反応を肯定と受け取ったのか、啓太が和希の膝から下りた。
「どこへ行くんだ、啓太?」
 慌てて立ち上がった和希が腕を捉えた。すると、啓太は涙で霞む目を擦りながら、舌足らずな口調でこう言った。
「……中嶋さんとこ。和希が浮気したら、慰めてくれるって言ったから」
「俺は浮気などしていない。それに……!」
(あの人の『慰める』は絶対に意味が違うだろう!)
「浮気した人は、皆、そう言うって中嶋さんが言ってた」
 啓太は頑なな態度を崩そうとしなかった。そんな啓太を和希は静かに抱き締めた。
「啓太、俺は絶対に浮気などしていない。啓太は俺より中嶋さんの言葉を信じるのか?」
 和希は啓太の瞳を覗き込むと、思わせぶりに口唇を撫でた。
 酔った人に幾ら理屈を説いても意味がない。こういう場合は、ただ実力行使あるのみだった。甘く優しく口づけて啓太の思考が溶けてきたら、ゆっくり鍵を掛ければ良い……
 しかし、啓太は妙なところで理性的だった。じと~っと目を細める。
「疚(やま)しいところがある男は直ぐ身体で誤魔化すって中嶋さんが言ってた。やっぱり和希もそうなんだ……」
「あっ、いや……それは……」
 ある意味、図星を指されて和希の指が頬を掻いた。同時に中嶋への怒りも込み上げてくる。純粋な啓太に、一体、日々何を吹き込んでいるのか。今度、会ったら必ず釘を刺しておこう、と心に誓った。
 クスンと啓太が鼻を鳴らした。
「啓太は和希だけが好きなのに……好きなのに……なら、啓太も浮気する!」
 唐突にそう決意した啓太はドアへ向かって、ふらふらと歩き出した。
「啓太」
「……っ……!」
 いつもより硬く低い声に、ビクッと啓太が震えた。恐る恐る振り返ると、和希が厳しい瞳で自分を凝視していた。
「本気で言っているのか?」
 今の啓太に怒っても無意味とはわかっているが、どうにも感情が抑えられなかった。幾ら酔っていても、言って良いことと悪いことがある。
「だ、だって……」
 肌を刺す様な険しい視線に啓太は小さく口籠もった。こんなふうに怒った和希は見たことがなかった。無意識に涙がまた滲んでくる。
「俺はお前を、お前だけ愛している。だから、お前が本当に望むことなら、どんな手を使っても必ず叶えてやる。それで俺自身が深く傷つくことになろうとも、必ず。だが、一時の感情に流されただけで、後でそれを後悔して泣くのは絶対に許さない。俺はお前を傷つけるものは、たとえ、それがお前自身でも……許さないよ、啓太」
「……和希……」
 啓太は蒼ざめた顔で暫く和希を見つめていた……が、不意に恋人の胸に飛び込んだ。
「ごめんなさい……啓太、悪い子だった。ごめんなさい……」
「わかれば良いんだよ、啓太」
 ふわふわと和希が啓太の頭を撫でた。
「ごめんね、和希……ごめんね……」
 ポロポロと零れる涙を和希の口唇が優しく拭った。啓太は両腕を伸ばして、和希にしがみついた。
「好き、和希……大好き……」
「ああ、俺も好きだよ、啓太」
「うん、和希……和、希……和……希……」
 名前を呼ぶ声が徐々に弱くなってゆくので、和希は静かに啓太を抱き上げた。すると、コクンと啓太の頭が落ちた。小さな寝息が聞こえる。和希は啓太をソファに横たえると、クローゼットから取り出した毛布を掛けてあげた。それから、テーブルにあるボンボンの缶を覗いてみる。やはり中は殆ど空になっていた。
(だから、注意したのにな)
 和希は苦笑した。
 ボンボンは甘くて食べ易いが、ブランデーやウォッカも入っているのでアルコール度数は意外と高い。啓太にはまだ少し早かったかな。そう思いながら、和希は安らかに眠る愛し子を幸せそうに見つめた。おもむろに額に小さく口づける。おやすみ、啓太……良い夢を……



2010.1.1
ほろ酔い啓太に振り回される和希です。
啓太の言動に中嶋さんの陰がちらつくので、
気が気でないです。
こうして、和希は益々過保護になってゆくのかも。

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Café Grace
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