山岸様へ、感謝を籠めて


奇跡の在り処

9 January 2010   Dedicated to Y


「……ただいま、啓太」
 そっと枕元に腰掛けた和希は、蒼ざめた月の光を受けて眠る啓太の耳元で低く囁いた。
 帰寮が遅くなるとは予め言っておいたが、啓太は限界まで睡魔と戦っていたらしく、パジャマのボタンを途中までしか留めていなかった。和希は小さな微笑を浮かべると、啓太を起こさない様に注意しながら、残りのボタンを掛けて寝乱れた布団を丁寧に直した。そして、少しだけ……ほっとした。
 放課後、和希は啓太とクラスメート達から映画に誘われた。それは今、評判の話題作だったが、和希は仕事の予定が詰まっているのでやんわりと断った。
『……和希、今日も忙しいのか……』
『……ああ、少しね。でも、俺のことは気にしないで楽しんでおいで、啓太……』
『……うん……』
 口ではそう言ったものの、明らかに後ろ髪を引かれている啓太を和希はいつもの優しい笑顔で送り出した。後で粗筋を教えてやるよ、と言う誰かの言葉には余裕の表情で頷いて……しかし、心は上辺ほど決して凪いではいなかった。
 あのとき、啓太と一緒に外出するクラスメート達を見つめる和希の瞳は羨望に染まっていた。
 子供のときに子供らしいことをするのは自分には決して許されなかった。その日々を後悔している訳ではない。お陰で、一度は失った愛し子の手を再び取ることが出来た……が、漸く満たされた今だからこそ思う。思ってしまう。もう俺には取り戻せない時間を生きる彼らが羨ましい、と。そんな彼らに囲まれて啓太はまた少し成長する……まるで奇跡が起こる様に。だが、子供を通り越して大人になってしまった自分は未だ心に残る幼さをどこか持て余していた。
(俺には、もう奇跡は起きない……だから、啓太、早く大人にならなくて良い。ゆっくりで良いから……俺を置いて行かないでくれ)
 和希は柔らかい癖毛を優しく撫でた……不安に揺れる胸の痛みを堪えながら、何度も。この温もりに慣れてしまうのが怖かった。もし、いつか鈴菱和希という存在が啓太のためにならない日が来たら、手放す覚悟はしているつもりだった。それが、大人というものだろう。わかっている。しかし、子供の部分がその決意に水を差す。あらゆるものが寝静まる今このとき、啓太は確かに自分のものだから。この口唇が紡ぐ言葉も、瞳に映る景色も、微笑みも……絶対、誰にも渡さない。
「……」
 はあ、とため息が零れた。これ以上、ここにいると、今夜は自分の中にある啓太への執着にも似た想いを抑えられなくなりそうだった。
(……部屋に戻るか)
 瞳を閉じて和希は仄暗い想いにそっと蓋をした。すると、小さな声が聞こえた。
「俺、和希が好きだよ」
「……!」
 いつの間に起きたのか、澄んだ蒼穹が真っ直ぐ和希を見つめていた。次の瞬間、和希はふわりと抱き締められた。
「だから、そんな顔しないで」
「……啓、太……」
「俺は仕事のことはわからないし、何も出来ないけど、ずっと和希のものだから。愛してる、和希……愛してる」
「……」
(そうか……)
 和希は深く静かに息を吐いた。こんな簡単なことに、なぜ、今まで気づかなかったのだろう。初めて逢ったあの日から、いつも俺を光射す庭へ導く啓太こそ、まさに奇跡だったのに……俺の奇跡は、ここにある。
「ああ、俺も……愛している、啓太」
 穏やかな声で和希は呟いた。うん、と啓太は頷いた。
 溢れる想いのままに二人は口唇を重ねた。その心を、熱を互いに余すことなく伝え合い……もう一度、恋をする。昨日より成長した貴方に、先刻より成長した貴方に。
「愛している、啓太……愛している」
「俺も……愛してる、和希」
 やがて愛を囁く声は夜の帳に覆われて……



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