とても蒸し暑い土曜日の午後だった。一人、また一人と周囲の者が冷房(クーラー)の効いた涼しい室内へと避難する中、啓太は最後まで金網越しにテニス・コートを見つめていた。
「成瀬さ~ん」
「おお~」
 成瀬がサービスを決めると、観衆が大きくどよめいた。
 今、テニス部は対外試合の真っ最中だった。相手はなかなかの強豪校らしく、四人の選抜部員の結果は二勝二敗。勝敗は最後の主将同士の決戦へと縺れ込んでいた。
(成瀬さん……!)
 啓太は両の掌をギュッと握り締めた。黄色いボールが芝のコートを右へ左へと跳ね回る。成瀬がすっと前へ出た。これで決まる。無意識に啓太は息を呑んだ。
 ……ビシッ!!
 風を切る鋭い音が響き、試合が終わった。
 瞬間、どっと歓声が沸き起こり、辺りは拍手の渦に包まれた。勝った成瀬は対戦相手と握手を交わすと、眩しいばかりの笑顔でそれに応えた。
「ハニー、来てくれたんだね!」
 目聡く啓太を見つけた成瀬はコートの中から声を掛けてきた。
 成瀬にとって、啓太は永遠にハニーだった。啓太は既に身も心も中嶋のものだったが、成瀬がそう呼ぶのを正そうとは思わなかった。人の想いは誰にも止められない。それは啓太自身が一番良くわかっていた。尤も、中嶋の前では冷や冷やするが。
「試合開始のときは人が多くて姿が見えなかったけど、ハニーは必ずいるって信じてたよ」
「はい、ちょっと近寄れなくて後ろの方にいたんです。でも、この暑さで人が減ってきたから前に出て来られて……やっぱり成瀬さんは凄いです」
「ハニー……」
 その言葉に成瀬が感極まっていると、遠くで部員の一人が叫んだ。
「成瀬さ~ん、皆、待ってますよ~」
「……ごめん、ハニー、向こうの人に挨拶しないといけないんだ」
「試合が終わったばかりなのに大変ですね。頑張って下さい、成瀬さん」
「有難う、ハニー、じゃあ……またね」
 チュッと成瀬は投げキスを送って寄越した。学園内にも多々いる成瀬ファンが刺す様な視線を啓太に放つ。啓太は真っ赤になりながら、成瀬を見送ると、そそくさとそこを離れた。
「……ふう」
 校舎裏の安全地帯にまで辿り着いた啓太は、ほっと胸を撫で下ろした。
「今日は本当に暑いな」
 啓太は空を見上げた。
 暦の上で夏は終わっても、陽射しはまだその強さを保っていた。ジャケットの中に熱が籠もる。更に啓太は一時間以上もテニス・コートの傍にいたので完全に蒸し上がっていた。しかし、湿度が高くて殆ど汗を掻かないせいか、啓太の危機感はあまりに稀薄だった。
(そろそろ生徒会室に行こう。中嶋さんには試合のことは言ってあるけど、遅くなって機嫌を損ねると後が大変そうだし……)
 じりじりと照りつける太陽の下を啓太はゆっくりと歩き出した。石畳の端で左に曲がろうとしたとき、どこかで唸る様な音が聞こえた。
(あっ、王様だ)
 右奥の植え込みの影で丹羽が豪快に大の字になっていた。また仕事をサボって昼寝をしているらしい。仕方のない人だな、と啓太は思った。
(王様、中嶋さんに怒られる前に一緒に行きましょう)
 そろ~り、そろ~り……啓太は丹羽との距離を慎重に縮めていった。腕の一本でも掴めれば、丹羽は大人しく生徒会室に戻る。それが丹羽と啓太の間の暗黙の規則だった。今の、この体勢は圧倒的に丹羽が不利。いける!
 手の届くぎりぎりの処まで近づくと、啓太はパッと襲い掛かった。しかし、その瞬間――……
「……っ!!」
 まさに動物的勘で丹羽は素早く身を翻した。体勢を立て直し、咄嗟に構える。啓太は芝生にペシャリと崩れ落ちた。
「何だ。啓太か。誰かと思ったぜ」
 丹羽はガシガシと頭を掻いた。啓太は丹羽を見上げて呟いた。
「う~、完全に寝てたのに……」
「甘いな、啓太」
 余裕の微笑を浮かべながら、丹羽は啓太を引き上げた。それから、大きく伸びをして左右に身体を捻った。気持ち良さげな声が上がる。啓太は自分についた草をパタパタと払い落とした。
「王様、どうしてわかったんですか?」
「うん? ああ、寝込みを襲われるのは慣れてるからな」
「……」
 確かに部への昇格目当に丹羽を狙う者は後を絶たなかった。しかし、元はといえば、それは丹羽自身が言い出したこと。自らそんな物騒な生活をしなくても、と言いたげな啓太の視線を丹羽は軽く笑い飛ばした。
「心配すんなよ、啓太、俺に勝てる奴がこの学園にいると思うか?」
「そうなんですけど……」
 啓太は口ごもった。丹羽に勝てる者はいない。それは事実だったが、手段を選ばない輩が暗躍し始めると、その後始末は中嶋がつけることになる。そのとき、自分の存在が中嶋の足を引っ張ってしまうかもしれない。啓太はそのことを心配していた。
「最近は特にイベントもねえから、暇で仕様がねえな」
「それなら、溜まってる仕事を片づけて下さい。また中嶋さんに怒られますよ」
 さり気なく啓太は手を伸ばした……が、丹羽はすっと身を引いた。
「王様?」
「啓太、折角の土曜にあんなとこ籠もってられるか? 今日は絶対、仕事はしねえ!」
「今日はって……いつもじゃないですか」
「とにかく、嫌なものは嫌だ。悪いな、啓太!」
 言うが早いか、丹羽は脱兎の如く逃げ出した。
「王様!」
 啓太も直ぐ後を追った。輝く陽光の中、丹羽の背中を全力で追い掛ける。熱を帯びた空気が喉の奥を焦がし、息が上がった。身体が燃える様に熱くなってゆく……
 中庭で、終に啓太の足が止まった。
「はあ、はあ、はあ……」
 もう一歩も走れなかった。やはり本気の丹羽には敵わない。啓太は額に拳を当てた。心臓の音がガンガンと頭に響き、胸が大きく上下して呼吸が乱れていた。何だか少し……気分が悪い。そのとき、背後から誰かの手がポンと肩を叩いた。
「啓太、良いとこでおうたわ」
「しゅ、俊介……?」
 喘ぎながら、啓太は振り返った。そこには愛用の自転車と共に、滝が満面の笑みで立っていた。
「ちょっと頼まれてくれへんか?」
「頼、みって……?」
「こいつを野球部のグラウンドまで届けてな」
 滝は返事も聞かず、啓太に大量のペットボトルが入ったビニール袋を押しつけた。
「うわっ、重っ!!」
「こいつがパンクしよって困ってたんや。置いとく訳にもいかんし、恩に着るやさかい、頼むで!」
「ちょっ……俊介!」
 啓太は慌てて呼び止めたが、滝はさっさと行ってしまった。
(早く生徒会室に行きたいんだけど……仕方ないか……)
 両手で重い袋を持つと、啓太は諦めて歩き始めた。野球部のグラウンドは、丹羽の昼寝場所の一つでもある海岸の近くにあった。ここからはそう遠くない。五分もあれば着く……

「藤田~」
 グラウンドの端にクラスメートを見つけて、啓太は声を張り上げた。藤田はグローブをしたまま、こちらへ向かって走って来た。
「伊藤、どうしたんだ?」
「これ……俊介から……頼まれたん、だけど……」
「おっ、差し入れか! 先輩~、来ましたよ~」
「やっと来たか! 待ってたぜ!」
「休憩だ。休憩!」
 皆、練習をやめると、わらわらと二人の周囲に集まって来た。
 啓太と藤田は次々にペットボトルを手渡していった。どうやら二十本近く入っていたらしい。道理で、重かった訳だ……と思う。漸く重労働から開放されて、正直、啓太はほっとした。
「あれ? 先輩、一個、余りましたよ」
 ビニール袋を覗き込んだ藤田が言った。
「あ~、人数、間違えたのか」
「どうします?」
「じゃあ、そいつにやってくれ。態々ここまで運んで来てくれたからな。その礼だ」
「ほい、伊藤」
「あ……有難う……」
 啓太は余ったペットボトルを貰った。
「じゃあ……俺……」
「ああ、サンキュー」
 藤田はニコッと笑って手を上げた。
 時刻は既に三時半を過ぎていた。啓太は走り出した。静かに怒っている中嶋の姿が目に浮かぶ。とにかく、早く生徒会室に行かないと。早く……もっと……もっと早く……
「……!」
 不意に足が縺れた。
 大きく転びそうになって啓太はバンッと壁に手をついた。途端に酷い吐き気が込み上げてくる。身体が小刻みに痙攣し、頭が割れそうに痛んだ。急速に視界が狭まってゆく――……
「……太……」
 誰かに呼ばれた気がして、ぼんやりと顔を上げた。
(……誰……?)
 しかし、暗くて良く見えなかった。啓太は声の方へ震える腕を伸ばした。すると、誰かの冷たい指が手首を掴んだ。
(……中……嶋……さんだ……)
 啓太は直感した。そして、その瞬間……気を失ってしまった。

「……っ……」
 冷たい感触が啓太の意識を浮かび上がらせた。何かを口に含ませられる。啓太はコクンとそれを飲み込んだ。
(……もっと……)
 朧に瞳を開けると、中嶋と視線が合った。中嶋は無言で口唇を重ね、再び啓太に少しずつ液体を流し込んだ。
(……美味、しい……)
 啓太は何とかそれを伝えたかったが、巧く言葉が出なかった。
「気がついたな」
 低音の柔らかい声に啓太は小さく頷いた。
「……ここ、は……?」
「生徒会室だ。お前は熱中症で倒れた」
「……ああ」
 まだ重い身体を起こそうとして啓太は中嶋に肩を押さえつけられた。
「まだ寝ていろ」
(……寝るって?)
 そのとき、初めて啓太はソファーに横たわっていることに気がついた。ジャケットは脱がされ、シャツの胸元は大きくはだけている。額と首筋、脇の下には冷却シートが張られていた。野球部で貰ったペットボトルが空になってテーブルに置かれている。先刻、飲んだのはあれだったのだろう。
(……全部……中嶋さんが……して、くれたんだ……)
 啓太は弱々しく微笑んだ。中嶋は何も言わないが、いつもさり気なく優しい手を差し伸べてくれる。あそこで会ったのも、恐らく啓太を探していたのだろう。中嶋さんが見つけてくれなかったら、今頃、どうなっていたか……
「……中嶋……さん……」
「喋るな」
 中嶋は啓太の意図を察してピシャリと言った。今は体力の回復の方が先だとでも思っているのだろう。
(……それじゃあ、お礼は……後で言います……)
 啓太はゆっくり瞼を閉じた。しかし、二つのクッションを枕代わりにしているせいか、どうにも頭が落ち着かない。睡眠には人一倍の拘りを持っている啓太だけに、それは深刻、かつ重大な問題だった。啓太は僅かに顔を顰めた。すると、中嶋が小さくため息をついた。
「……仕方のない奴だ」
「えっ!?」
 中嶋は啓太の上半身を抱き起こすと、クッションを取り払った。代わりに自分がそこに腰を下ろし、啓太の頭をそっと膝の上に乗せた。これって、まさか……
「この貸しは高くつくぞ、啓太」
 口の端に薄い微笑を漂わせ、中嶋が耳元で囁いた。
 啓太は顔が真っ赤に上気するのを感じた。下がってきた体温が再び熱を帯びる。心臓がドキドキと早鐘を打ち始めた。思わぬ幸運に戸惑いながら、啓太は密かに思った。今度は中嶋さんの愛で熱中症になるかもしれない、と……



2007.9.7
最後の一文のために書き上げました。
中嶋さんに膝枕されて見る啓太の夢って……
中嶋さんの愛情は素直でないから、
弱っているときにこそ身に沁みます。

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Café Grace
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