「だ~、やっと終わった!」
  最後の書類に判を押すと、丹羽は机の上に上体を投げ出した。時刻は既に午後十一時を過ぎている……が、生徒会室の明かりだけはまだ煌々と点いていた。
「誰のせいだと思っている?」
  地を這う様な中嶋の声に、ピシッと丹羽の身体が凍りついた。お前が逃げ回ったお陰で、こんな時間まで残って片づけなければならなくなったのだろう、と言外に聞こえる。悪かったよ、と呟く丹羽に中嶋は冷たく目を眇めた。
(これ以上ここにいたら、何されるかわかったもんじゃねえな)
  丹羽は勢い良く椅子から立ち上がると、さっと鞄を引っ掴んだ。
「じゃあ、俺は先に帰るぜ」
「あっ、王様、今、コーヒーを淹れて――……」
「後は頼んだぜ、中嶋!」
  その言葉も言い終わる前に、丹羽の姿は生徒会室から消えていた。啓太はマグカップを二つ持って給湯室から出て来た。
「王様……篠宮さんにはちゃんと言ってあるから、そんなに急いで帰らなくても良いのに」
  どうぞ、と啓太は中嶋にコーヒーを渡した。それから、窓辺に寄り掛かってマグカップに口をつける。ミルクたっぷりのカフェ・オ・レが疲れた身体に沁み入る様でほっと息をついた。
  中嶋は長い足を組むと、無言で煙草を取り出した。本来なら、とっくにベッドで啓太を啼かせている時間だった。沸々と丹羽への怒りが込み上げてくる。この貸しはしっかり払って貰うからな。心中、密かに丹羽へのお仕置き計画を作成しながら、煙草に火を点けようとした中嶋の耳に、わあっという感嘆が届いた。
「中嶋さん、月がとても綺麗ですよ」
「ああ、今夜は中秋の名月だからな」
  中嶋は細く煙を吐き出した。
「そっか……中秋の名月か……」
  啓太は楽しそうに空を見上げた。
(そういえば、あのときも月が綺麗だったな)
  MVP戦最終日の前夜、柔道同好会の三人に襲われていた啓太の前に現れた中嶋の背後にも、こんな月が掛かっていた。蒼白い光を一身に浴びた中嶋は凛として、まるで月の化身の様だった。それは一方には愛を吹き込み、他方は狂い惑わせる。あの晩、啓太はその魔力に身も心も囚われてしまった。
「……中嶋さん、あの日も月が綺麗でしたね」
「ああ」
(あっ、覚えててくれたんだ)
  普段は口にしないが、中嶋のこういうきめ細やかな優しさが啓太はとても嬉しかった。そして、益々中嶋に魅入られてゆく。
「ふっ、物欲しそうな瞳だ。誘っているのか、俺を……?」
  座ったまま、中嶋は啓太へと身体の向きを変えた。煙草を持ったまま、口の端に嘲笑を浮かべる……が、レンズの奥では蒼い炎が焦がれる様に燃えていた。
「そう、かもしれません」
「今夜は素直だな」
「多分、月が綺麗だから……」
  啓太は、また静かに月を仰いだ。その冷たい輝きが狂おしいまでに心を奪う。啓太はうっとりと思った。ああ、本当に綺麗だ……
「わっ!!」
  突然、腰を強く抱き寄せられて、啓太の意識は地上へと引き戻された。いつの間にか、中嶋が目の前に立っていた。月の様な瞳で見つめられ、思わず、啓太は息を呑んだ。
「お前は俺のものだろう、啓太?」
  中嶋は啓太の顎を軽くすくい上げ、口唇を親指でゆっくりとなぞった。それだけで啓太は心の底まで溶けてゆく。はい、と答える声が震えた。
「なら、余計なことは考えるな。俺だけを見て、俺だけを感じていろ」
「……はい」
  恍惚と啓太は頷いた。中嶋は口元を歪め、吐息が触れるほど近くに顔を寄せた。
「……」
  ふと中嶋は動きを止めると、冷たく月を一瞥した。自嘲する様な微笑が浮かで消える。さっとカーテンを閉めた。
「中嶋さん……?」
「態々月に見せてやることはない」
「……はい……」
「良い子だ……」
  そして、中嶋は存分に啓太の口唇を貪った。二人の夜は、まだ始まったばかり……


2007.9.14
サイト・オープン一ヶ月記念作品です。
月に嫉妬する中嶋さん。
完全に啓太に溺れています。
本人は絶対、認めないけれど……

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Café Grace
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