……コン、コン、コン。
  誰かが会計室のドアをノックした。肘掛椅子に座っていた西園寺が書類から目を上げた。
「臣、啓太が来た。お茶の用意を」
「はい、郁」
  キーを叩いていた七条が、すっと立ち上がった。
「こんにちは、西園寺さん、七条さん」
「良く来たな、啓太」
「待っていましたよ、伊藤君」
  二人に温かく迎え入れられた啓太は柔らかい微笑を浮かべて、いつものソファーに腰を下ろした。
  静かな午後のひととき。今日も西園寺達は仕事と称して、啓太をお茶に招いていた。啓太が中嶋と交際しているのは知っていたが、二人とも啓太を諦める気など更々なく、今以って虎視眈々と狙っていた。その第一段階が会計室に足繁く通わせることにあった。そのための甘い誘惑も用意してある。
「わあ、美味しそうなフィナンシェですね」
「ふふっ、これは僕が焼いたんですよ、伊藤君のために」
  一口大のフィナンシェを盛った細長い皿を置きながら、七条が言った。
「本当ですか? 有難うごさいます、七条さん」
「喜んで貰えて、僕も嬉しいです」
「あっ、珍しいですね。今日はミルク・ティですか?」
「ああ、昨日、臣から聞いていたからな。この方が合うだろう」
「はい、有難うございます、西園寺さん」
  啓太は先にミルクを入れてから、濃い目の紅茶をティ・カップに注いだ。ミルク・ティはその方が良く混ざり合い、風味も豊かになる。啓太は砂糖を入れて軽くかき混ぜると、乳褐色の液体をコクリと飲んだ。
「……ウバですね」
「良くわかったな、啓太」
  西園寺は嬉しそうに微笑んだ。
  会計室に来るようになって、啓太は紅茶の種類やマナーに随分と詳しくなった。それと同時に西園寺達の用意する菓子はどれも一級品ばかりだったので、自然と味覚も研ぎ澄まされてゆく。啓太は七条の焼いたフィナンシェを一つ口に入れた。
「どうですか?」
「……とても美味しいです、七条さん! これ、発酵バターとヘーゼルナッツを入れたんですね?」
「ふふっ、伊藤君は本当に敏感ですね。僕も作った甲斐があります」
「そんな……」
  ポッと啓太は頬を染めた。一瞬、昨夜の中嶋の言葉と重なる。啓太、お前は本当に敏感だな……
(中嶋さんと七条さんって言うこともやっぱり似て――……)
「違いますよ」
「えっ!?」
  七条の声に、啓太はハッと我に返った。西園寺がクスクスと笑った。
「啓太はわかり易いな」
「俺、顔に出てました?」
「ああ」
「……」
  恥ずかしさのあまり啓太は更に赤くなった。そんな姿もまたとても愛らしく、やはり中嶋には勿体ない。そう二人が新たな闘志を燃やしていたとき、ドアをノックして一人の生徒が入って来た。途端に西園寺の表情が険しくなった。
「失礼します。水泳部の者ですが……」
「はい、何でしょう?」
  張り付いた微笑のまま、七条がそつなく応対を始めた。西園寺は何が気に入らないのか、毛を逆立てた猫の様にピリピリとした気を周囲に撒き散らしている。啓太は手持ち無沙汰にカップを回して紅茶の波紋を眺めていた。
「わかりました」
「あ……じゃあ、お願いします……」
  招かれざる客は、あたふたと出て行った。啓太が顔を上げると、七条と目が合った。
「どうかしましたか?」
「あっ、いえ……別に……」
  啓太はチラッと西園寺を窺った。ああ、と七条は小さく頷いた。
「伊藤君、郁はノックに腹を立てているんですよ」
「ノック……?」
「元々は海外の習慣なので日本ではあまり回数を意識しませんが……そうですね……伊藤君はベートーベンの『運命』という曲を知っていますか?」
「あっ、はい」
  頭の中で啓太は思い出してみた。確か……ダ、ダ、ダ、ダーン。ダ、ダ、ダ、ダーン……だったよな……
「あの有名な出だしの部分。あれは運命が扉を叩く音なんです。それからわかる様に元来、ノックの基本数は八回。ですが、今はもっと省略して四回が一応のマナーとされています」
「知りませんでした……俺、いつも三回しかしないから。それじゃあ、俺も不愉快な思いをさせてたんですね……」
  啓太は、しゅんと項垂れた。すると、七条が隣に腰を下ろして優しくウインクした。
「伊藤君、そんなことはありませんよ。三回にも意味があるんです、それも特別な」
「本当ですか!?」
「はい、三回のノックは親しい間柄で行うものなんです。ノックの必要がない……たとえば、夫婦間の様な。僕です、という意味を籠めて。伊藤君なら僕達は大歓迎ですし、寧ろ、その方が嬉しいです」
「良かった。偶然だけど……そう言って貰えると、俺も嬉しいです」
  啓太の表情がパッと輝いた。七条は柔らかく微笑んだ。
「そして、問題の先刻のノックですが……あれは二回でした」
「はい」
「それにも意味はありますが、用途が非常に限定されているんです。所謂、トイレ・ノックです」
「あっ、それで……」
「全く……ここをどこだと思っている」
  それまで無言だった西園寺が急に口を開いた。まだ腹に据えかねているのか、不機嫌な顔をしている。啓太は漸くその理由がわかったが、あの水泳部員にも同情していた。啓太自身も知らなかったのだから。ただ、俺は少し運が良かっただけ……
「郁、伊藤君が悲しい顔をしていますよ」
  七条がやんわりと西園寺を窘めた。
「すまない、啓太」
「いえ、西園寺さんのせいじゃありません。でも、あの人をあまり怒らないで下さい。一歩、間違えたら、俺も同じことをしてましたから」
「啓太は本当に謙虚だな」
  西園寺は愛しそうな眼差しを啓太へ向けた。
  会計室に再び和やかな雰囲気が漂い始めた。そして、三人は心ゆくまでお茶の時間を楽しんだ。

  その夜、啓太は中嶋が来るのを今か今かと待っていた。
  啓太が中嶋の処へ行くことは滅多になかった。明け方近くまで肌を合わせることも珍しくないので、疲れ切った啓太の身体では自分の部屋まで辿り着けない。毎日、遅刻させる訳にはいかないだろう、と中嶋は揶揄した。
  ……コン、コン、コン。
  硬い微かな音がして、中嶋が素早く室内に滑り込んで来た。後ろ手にドアを閉める。啓太はベッドから立ち上がると、嬉しそうに中嶋を出迎えた。普段は意識しないノックの数だが、今日はしっかり覚えている。
「中嶋さん」
「何だ」
  中嶋は、いつもの様に素気なかった。啓太は躊躇いながらも期待を籠めて訊いてみた。
「どうして三回ノックしたんですか?」
「不満か?」
「いえ、そういう訳じゃあ……ただ、どうしてかなって……」
「別に四回するほど改まることもないだろう」
「それって……」
  啓太の頬が赤らんだ。七条の言葉が頭に浮かぶ。
『……三回のノックは親しい間柄で行うものなんです。ノックの必要がない……たとえば、夫婦間の様な。僕です、という意味を籠めて……』
(中嶋さん、知ってたんだ……)
  ふふっ、と微笑が零れた。しかし、中嶋は片方の眉を吊り上げると、冷たく目を眇めた。
「今、何を考えていた?」
「えっ!? ノックのことですけど?」
「それを誰から聞いた?」
「あっ!!」
  しまった、と啓太は口を押さえた。
  中嶋と七条の険悪さは筆舌に尽くしがたかった。その中嶋の前で七条の言葉を思い出し、あまつさえ、それが顔に出ていたのなら……自殺行為だ。啓太はじりじりと後ずさった。
「あの……中嶋、さん……?」
「俺の前で犬のことを考えるとは良い度胸だ」
「あ……有難う、ごさいます」
「褒めていると思うか……?」
「いえ……」
  啓太は雲行きが加速度的に怪しくなっていくのを感じた。コツンと踵が壁にぶつかる。いつの間にか、窓辺にまで追い詰められていた。
「あ……」
  逃げ場がない、と思った。その瞬間――……
  バンッッッ……!!!
「……っ!!」
  反射的に啓太は目を瞑った。いきなり真横の窓枠を強く叩かれ、身体が竦んだ。中嶋が伸し掛かる様に身を寄せ、耳元で低く囁く。
「まだ理解していない様だな? お前は、一体、誰のものか……」
「な……中嶋さん……」
  怯えながら、啓太は顔を上げた。
  中嶋は啓太を睥睨していた。その瞳の中に凍てつく無音の闇が見える。正直……怖いと思った。しかし、同時に炎に惹かれる蜻蛉の様にそれに魅入ってもいた。危険だと知りながら、そこへ飛び込みたいという衝動が抑えられない。結果、この身を焼かれることになろうとも……
「ふっ……」
  酷薄な微笑が中嶋の口元に浮かんだ。啓太の背筋をぞくっと悪寒が走った。
「な、中嶋さんは……勝手過ぎます!」
  ゆらゆらと揺れる瞳で啓太は中嶋を睨みつけた。俺が中嶋さんを好きだってわかってるはずなのに、どうして俺を怖がらせる様なことをするんですか……!
  すると、中嶋は怜悧な顔を歪めて、そっと答えた。
「どうせ一度だけ生きて死んでゆく身だ。なら、俺は好きに生きる。お前はどうする……啓太?」
  仄暗い瞳の奥に啓太にしか見えない不安げな色彩(いろ)がたゆとう。俺は虐げることでしか、想いを確かめられない。それでも、お前はついて来るか、と……
「……」
  二人の視線が宙で絡み合った。
  中嶋が言外に忍ばせた意味、それは酷く勝手な言い分だった……が、そんな中嶋が好きだから仕方がない。啓太は恐る恐る腕を伸ばした。
「俺は……中嶋さんのものです。だから、中嶋さんの好きにして下さい……」
  啓太はギュッと中嶋の首にしがみついた。中嶋は声を殺して満足そうに笑った。
「……良い子だ」
  窓に映る中嶋であって、中嶋ではない姿。歪んでいるのは、あちらか、こちらか。総てを知るのは、今宵を照らす蒼い月のみ――……


2007.9.28
互いに揺れ惑う二人。
最後まで中嶋さんは指一本、啓太に触れません。
でも、温いです。
だって、甘党なんだも~ん。

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Café Grace
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