啓太は生徒会室の自分の机の前に座って、ぼんやり山積みの書類を眺めていた。仕事が全く手につかない。丹羽は逃亡中、中嶋は会計室へ行って留守だった。はあ、と啓太はため息をついた。事の発端は数時間前に遡る……
  今日は午後の授業がないので、啓太は昼休みからずっと東屋で岩井の絵のモデルをしていた。岩井には集中しだすと寝食を疎かにする癖があるが、それを熟知している篠宮が頃合いを見計らって二人に弁当を届けてくれた。空腹だった啓太は大喜びで、有難くそれを貰うことにした。パカッと蓋を開けると、数種類のおかずが彩り良く綺麗に入っている。中でも啓太の大好きなポテト・サラダは一際、多めに盛られていた。啓太は満足そうに微笑み、戴きます、とその大きな塊をパクッと口に放り込んだ。
「……!?」
「……どうした、啓太?」
  にわかに啓太の表情が曇ったので、岩井が心配そうに尋ねた。
「あ……いえ……何でもないです」
「……美味しくなかったのか?」
「いえ……美味しいです。でも……」
「……でも?」
「その……ときめきを感じないんです」
  啓太はポツリと呟いた。
  たとえば、好物の苺を食べると、啓太の身体を瞬時に打ち震える様な悦びが駆け抜けた。それは中嶋と口唇を重ねたときの胸の高鳴り――ときめき――や快感にも似た感動であり、いつも啓太の頬を綻ばせた。しかし、今日はそれが一向に湧いてこなかった。
「……飽きたんじゃないのか? 最近、啓太はずっとそれを食べてたから」
「そう……かもしれません」
  啓太は小さく頷いた。
(俺が飽きるなんてことがあるんだ……)
  物思いに耽っていた啓太はまた一つため息をついた。組んだ手に顎を乗せ、視線を右へと流す。同じ様に、否、それ以上の書類に溢れた机の向こうに重苦しい曇天が広がっていた。益々啓太は憂鬱になった。
(俺、もう一生、ポテト・サラダを食べても何も感じないのかな)
  人生の楽しみが幾ばくか減った様な気がした。
「ときめかないってことは、やっぱり……飽きたんだろうな」
「ほう?」
「……!」
  思わぬ声に啓太はハッと振り返った。ドアの処に腕を組んだ中嶋が立っている。
「中嶋さん!」
  啓太は喜色満面で立ち上がった。先刻までの沈鬱な気持ちが少しばかり晴れる。お帰りなさい。啓太はすぐさま中嶋の元へ駆け寄ると、嬉しそうに顔を見上げた。しかし、中嶋は厳しい表情のまま、啓太を凝視していた。
「中嶋さん……?」
「……」
「中嶋さん、どうし――……」
  次の瞬間、啓太は乱暴に髪を掴まれ、後ろにグッと引き落とされた。あっ、と小さな悲鳴を上げた啓太の口唇を中嶋が噛みつく様に奪う。口中を激しく蹂躙される感覚に啓太は呼吸をすることさえ忘れた。
「……あ……んっ……っ……ふ、あっ……!」
  ガクッと膝が抜け、崩れそうになった啓太の細い身体を中嶋が片手で抱き留めた。
  啓太は中嶋の胸元にしがみつき、苦しげに大きく喘いだ。今まで処構わず中嶋には抱かれてきたが、こんなに荒々しい口づけは初めてだった。どんなに冷たく扱われても、口唇だけはいつも甘かったのに。頭の中が酷く混乱したまま、啓太は揺れる瞳を中嶋へと向けた。
「……一体……どう、したんですか?」
「……何でもない」
  中嶋は啓太から離れると、うず高く書類が積まれた自分の席に着いた。
「さっさと仕事をしろ」
「は、はい」
  啓太は酸欠でまだ足元がふらついたが、取り敢えず、机に戻った。
  先月、啓太は丹羽と中嶋に次ぐ正式な生徒会役員になったので、連日、丹羽から大量の仕事を押しつけられていた。啓太は一番上に乗っていたリストを適当に取った。チラッと中嶋を窺う。中嶋は今にも泣き出しそうな空を背景に、会計部から持ち帰った書類を読んでいた。
(会計室でまた七条さんとやり合ってきたのかな。七条さんって良い人なんだけど、中嶋さんとは仲が悪いから。お互いの顔を見る度に舌戦を繰り広げて……本当、よく飽きないよな)
  無意識に啓太は深い息を吐いた。
「……」
  無言で中嶋が顔を上げた。二人の瞳が空中でパチリと合う。思わず、啓太は秘めていたことを口走ってしまった。
「中嶋さん、俺、もう一生、ポテト・サラダを食べれないと思いますか?」
「何のことだ?」
「俺、ポテト・サラダが好きで、ここ最近、ずっと食べてたんです。でも、なぜか今日、本当に突然、食べてもときめきを感じなくなったんです。美味しいんだけど、今までとどこか違う。それって、やっぱり飽きたってことなんでしょうか?」
「……お前は」
  中嶋は小さく呟いた。
「ずっとそんなことを考えていたのか?」
「えっ!? そんなことって……」
  静かに中嶋は立ち上がると、不思議そうな顔をしている啓太の顎を捉えた。レンズ越しに冷たく光る瞳が先ほどより和らいでいる様に見える。中嶋は軽く口唇を合わせて囁いた。
「なら、良い方法を教えてやる。その仕事が終わったら、中庭の金木犀の下で待っていろ」
「……はい……」
  うっとりと啓太は答えた。

  二時間後、啓太は中庭にいた。
  取り敢えず、今日の分には目処がついたので、言われた通り金木犀の木の下で中嶋を待っていた。夕闇の迫る中、周囲から徐々に人影が消えてゆく。空から、ポツリ、ポツリと雨が降り始めた。
(あ~、とうとう降ってきた……中嶋さん、遅いな)
  啓太は自分が来た道を窺った。中嶋も一緒に仕事を終えたので、それほど待たなくても良いはずだが、もうかれこれ二十分は経過していた。
(俺が生徒会室を出てから、急ぎの案件でもきたのかな)
  でも、それなら連絡の一つくらいしても良さそうなのに。啓太は寂しげに瞳を伏せた。
  啓太から見ると、万事に完璧な中嶋と自分の間には天と地ほどの隔たりがあった。にもかかわらず、啓太は中嶋に愛されているという自覚があった。それは夜ごと、肌を合わせているからではなく、中嶋の態度や瞳の色彩(いろ)から啓太が常に読み取っている事実だった。中嶋の言葉と心情は、数学でいう捩れの位置関係にあり、同一平面上にはなかった。それを本人は全く説明しないため、誤解されることも多い。啓太でさえ、中嶋の真意が掴めないときがあった。
  まさに今がそうだった。
「……中嶋さん……」
  思えば、啓太は中嶋を待った経験が殆どなかった。生徒会室に行くと、いつも中嶋が先にいた。夜、部屋に来るときも篠宮の点呼後となるので凡そ時間は決まっていた。こうして中嶋を待つのはMVP戦の最中――あれは初デートと呼べるのだろうか――それ以来だった。
(そういえば、あのときの俺、凄くドキドキしてたな。初めての外出で緊張してたってのもあるけど、中嶋さんと一緒だったから……あのときは俺、まだ自分の気持ちに気づいてなかった。中嶋さんはあのときから俺のこと……その……少しは想ってくれてたのかな)
  啓太は金木犀を見上げた。ふと中嶋の言葉が頭に浮かぶ。
『……俺が好きでもない奴に、あんなことをすると思っていたのか……』
(あれって、やっぱり告白……かな。ということは、中嶋さん……最初から俺を!?)
  一気に頬が上気した。頭から湯気が出てもおかしくないほど身体が熱くなってくる。啓太はそれを振り払う様にパタパタと手を振った。
(わっ! ど、ど、どうしよう! 今、中嶋さんが来たら――……)
  そのとき、黄昏の中を小雨に濡れながら、中嶋が悠然と歩いて来た。啓太の心臓がドクンと音を立てて跳ね上がった。
「待たせたな」
「な、中嶋さん……」
  それ以上、啓太は言葉が続かなかった。湿った髪を物憂げに振り払い、眼鏡をすっと押し上げる中嶋に見惚れてしまう。ああ、何て格好良い人なんだろう……
「どうした? 顔が赤いぞ」
「えっ!? あ……それは……その……あっ、中嶋さん! 濡れてるじゃないですか!」
  我に返った啓太はポケットから慌ててハンカチを取り出した。背伸びをして中嶋の髪を拭う。そんな啓太を中嶋は吐息の掛かるほど間近から、じっと見つめていた。啓太の胸は益々高鳴ってゆく。
「お前は濡れなかった様だな」
「はい、木の枝が傘代わりになったので」
「そうか」
  ふっ、と中嶋が微笑んだ。
「……!」
  至近距離からの思わぬ不意打ちに、啓太は眩暈を起こした。クラッとよろけた啓太の柳腰を中嶋が捉える。少し覆い被さる様な中嶋を啓太は真っ赤になって見上げた。
「……中、嶋さん」
「何だ?」
「ずるいですよ」
「何がだ?」
「これ以上、俺を夢中にさせてどうするんですか?」
  熱を孕んだ大きな瞳で啓太は意地悪な恋人を睨みつけた。昼からの鬱蒼とした気分は見事に消え失せ、今や世界はすっかり薔薇色に染まっていた。
  中嶋が喉の奥でクッと笑った。
「俺は手助けをしてやっただけだ。気分が変われば、感じ方も違ってくるだろう?」
「あっ……!」
「良かったな」
「中嶋さん、そのために態と遅れて来たんですか? でも、こんなに濡れて……風邪、引きますよ」
「問題ない……が、お前はそうもいかないな」
  そう言うと、中嶋は自分のジャケットを脱ぎ、啓太の頭にふわっと被せた。まだ残る中嶋の温もりに恍惚となりかけ、啓太はハッと息を呑んだ
「駄目です! これじゃ、中嶋さんがもっと濡れるじゃないですか!」
「お前に風邪を引かれる方が困るからな」
  中嶋の口の端が意味ありげに上がった。
「えっ!? どうして……?」
「啓太、明日は何の日だ?」
「中嶋さんの誕生日です」
「そうだ。プレゼントに風邪を引かれては折角の日が台無しになる」
「あっ……」
  啓太は恥ずかしそうに俯いた。先週、中嶋にプレゼントのリクエストを訊いたら、一言。お前で良い……
(あれって、やっぱり……本気だったんだ……)
「行くぞ」
  中嶋が歩き出した。
「あっ、はい」
  慌てて啓太は後を追った。
  優しい雨が二人をそっと包み込んだ。風に揺れた葉の間から、遅咲きの橙色(オレンジ)の花が覗いている。金木犀の花言葉。それは謙遜、真実、陶酔、そして……初恋。


2007.11.16
’07 中嶋さんBD記念作品です。
啓太の言葉を、
ちょっと勘違いした中嶋さん。
でも、もう金木犀は咲いてないですよね……

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Café Grace
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