夕食後、厨房に足を踏み入れた篠宮は先客がいるのに驚いて声を掛けた。
「伊藤、こんな処で何をしている」
「あっ、篠宮さん」
 日本酒の瓶を抱えていた啓太は困った様な顔で曖昧な微笑を浮かべた。篠宮は、むっと眉を寄せた。まさか……飲む気ではないだろうな。つかつかと啓太に歩み寄ると、さっとそれを取り上げた。
「寮内での飲酒は禁止されている」
「えっ!? あっ、違います。俺、たまご酒を作ろうと思って……」
「たまご酒? 誰か風邪でも引いたのか?」
「それほどではないんですけど、中嶋さんの喉の調子が少し悪くて。篠宮さんはどうしたんですか?」
「俺も同じだ。卓人が風邪を引きそうなので、たまご酒を作りに来た。一緒に作るか?」
「はい」
 啓太は元気良く頷いた。たまご酒を作ろうと思ったのは良いが、酒に弱い啓太は匂いだけで酔ってしまいそうで途方に暮れていた。
(日本酒は強そうだからな……この間、七条さんに教えて貰ったホット・ワインなら大丈夫そうだけど、中嶋さんの機嫌が悪くなりそうだし。篠宮さんが来てくれて助かった)
 篠宮は棚に日本酒をしまい、紹興酒とビールを取り出した。
「あれ? 日本酒じゃないんですか?」
「ああ、俺はこれを使う。玉子は……ああ、もう用意してあるな」
 そう言うと、篠宮は紹興酒を啓太に渡して言った。
「これと玉子を混ぜて、こしておいてくれ」
「はい」
 啓太は言われた通りにした。その間に、篠宮はビールの栓を抜いてミルクパンと砂糖を用意した。
「これで良いですか? 篠宮さん」
「ああ」
 篠宮は頷くと、総ての材料をミルクパンに入れた。啓太はそれを興味深そうに眺めている。
「二種類のお酒を混ぜるんですか?」
「そうだ。だが、火が強いと分離するから気をつけなければならない。とろ火で温める程度で充分だ」
「あっ、何か甘い匂いがします」
 啓太はクンクンと鼻を動かした。その子犬の様な仕草に、ふっと篠宮の心が和んだ。そして、決して言ってはならないことを口にしてしまった。
「少し飲んでみるか?」
「えっ!? 良いんですか?」
 嬉しそうに啓太は顔を上げた。篠宮は取っ手のついたグラスに出来立てのたまご酒を注いで啓太に渡した。紹興酒の心地良い香りに誘われて啓太はゆっくりそれを飲み込んだ。
「甘い……」
 篠宮も味見をして頷いた。
「ふむ、卓人にはこのくらいでも良いが、中嶋には甘いかもしれないな。まあ、仕方ないな」
 二つのグラスに篠宮は均等にそれを分け入れた。小さなトレイに載せ、啓太を振り返る。
「伊藤、出来たぞ。気をつけて持って――……」
 そこで篠宮の声が途切れた。
 頬をほんのり赤く染めた啓太が濡れた様な瞳で篠宮を見上げていた。半開きの口唇から零れる吐息は甘やかで、どこか切ない。性別を感じさせない中性的なその艶に篠宮は、我知らず、鼓動が高まってゆくのを感じた。
「い、伊藤……」
「はい……」
「酔った、のか……?」
「さあ……」
 恍惚とした表情の啓太が一歩ずつ近づいて来た。篠宮は同じ分だけ後ずさる。そのとき、辺りを窺いながら、丹羽がそろそろと厨房へ忍び込んで来た。
「げっ、篠宮!? こんな処で何やってるんだ?」
「丹羽!」
 篠宮は天の助けとばかりに丹羽の腕を掴んだ。
「い、伊藤が……」
「啓太がどうかしたのか?」
 首を捻りながら、丹羽は篠宮の向こうに立っている啓太へと視線を移し……息を呑んだ。以前から可愛い系だとは思っていたが、そこにいる啓太は別人の様に艶めかしかった。桜色の頬と異様に赤い口唇。半睡した眼差しは、まるで何かを強請る様に丹羽を見つめていた。
 啓太はしなやかに腕を伸ばすと、丹羽の逞しい胸板にそっと手を当て、静かにしな垂れ掛かった。
「今……呼んだでしょう、俺のこと。何?」
「あっ、いや……その……何、だな……」
 しどろもどろに丹羽の目が宙を泳いだ。背中を冷や汗が伝い落ちる。
「……王様」
 啓太は背伸びをすると、丹羽の耳元で甘く囁いた。
「中嶋さんが風邪を引いたら、王様の責任ですよ。王様が仕事、サボるから」
「わ、悪い……」
「本当に、そう思ってます?」
「あ、ああ……」
「なら、啓太のお願い……聞いてくれる?」
「わ、わかった。啓太の願いなら、何でも聞いてやる」
「わあ、さすが王様」
 コロコロと啓太は笑うと、すっと丹羽から離れた。
 はあ、と丹羽は大きく息を吐いた。握り締めた掌にびっしりと汗を掻いている。こんなに緊張したのは久しぶりだった。後悔、先に立たずとはまさにこのことだ、と丹羽は思った。寝酒でも失敬しようとここへ来たのが、そもそもの間違いだった。やっぱり酒は二十からだ……
 そうしている間に、啓太の標的は篠宮へと移っていた。
「篠宮さん」
「な、何だ、伊藤」
 篠宮は丹羽の横で足に根が生えた様に立ち尽くしていた。啓太の口唇がほろっと綻ぶ。
「これ、とっても美味しい。おかわり」
「い、伊藤……飲み過ぎは良くない。それにあれは卓人と中嶋の――……」
「中嶋さんが飲むなら、啓太も飲みたい! 飲みたい!」
「だ、だが、伊藤はもう飲んだだろう?」
「う~、篠宮さんの意地悪……クスン」
 啓太は目尻に涙を浮かべた。そして、小さくしゃくり上げると、ポケットから携帯電話を取り出した。
「篠宮さんがそんな意地悪するなら、和希に言ってやる!」
「け、啓太!?」
 驚いた丹羽が上擦った声を発した。
 MVP戦後、丹羽は中嶋を通して漸く理事長の正体を知った。そのとき、『いつか絶対、殴ってやる』と決意表明したが、未だにその誓いを果たせずにいた。あいつを困らせるのは大賛成だが、篠宮は関係ねえだろう!
「待て、啓太!」
 慌てて丹羽は啓太を制した。
(そんなこと聞いたら、遠藤は篠宮を退学にしかねねえ!)
「幾ら酔ってても、やって良いことと悪いことの区別くらいつくだろう?」
「だって……クスン……篠宮さんが啓太を苛めるから……」
「遠藤に連絡するのが悪いことなのか?」
 事情を知らない篠宮が丹羽に尋ねた。丹羽は声を潜めて言った。
「遠藤は啓太を溺愛してるからな。後で何されるかわからねえぞ」
「成程」
 啓太はふらふらと棚へ向かうと、赤ワインを取り出した。
「じゃあ、これでホット・ワイン作って!」
「伊藤、これ以上はもう飲まない方が――……」
「なら、和希に電話する!」
「おい、篠宮、作ってやれよ!」
 破れかぶれになった丹羽が篠宮を強く促した。篠宮は深いため息をついた。
「わかった」
 篠宮はミルクパンにグラニュー糖と少量の水を入れてカラメルを作り始めた。
 甘い匂いが厨房に充満してきたので、啓太は面白そうに鍋を覗き込んだ。プツプツと沸騰するカラメルが焦げつく寸前にワインを注ぐと、ジュッという音と共に溶けたグラニュー糖が一気に固まった。啓太が、わあっと歓声を上げた。
「フランス語では、Vin chaudって言うんですよね」
「良く知っているな。ドイツ語ではGlühweinと言うそうだ」
「凄~い、篠宮さん!」
 啓太はパチパチと手を叩いた。
 篠宮は少し照れた顔で、クローブを数個、中に落とした。固まったグラニュー糖を溶かしながら、沸騰しない様に加熱していく。六十度くらいに温まったところでグラスに注ぎ入れた。
「出来たぞ。少し熱いから、気をつけて飲め」
「わ~い、有難うございます!」
 啓太は嬉しそうにそれを受け取った。ふ~っと息を吹き掛け、それからコクリと一口。
「甘~い。カラメルも香ばしくて、とっても美味しい。さすが篠宮さん!」
「そうか」
 篠宮は微笑んだ。啓太はコクコクとそれを飲み干すと、おかわり、とグラスを差し出した。
「おい、啓太! 飲み過ぎだぞ!」
「大丈夫だ、丹羽、ホット・ワインはアルコール分は殆ど飛んでいる」
「そうか……」
 丹羽は胸を撫で下ろした。篠宮は空になったグラスに、またホット・ワインを注いだ。
「お前達、そこで何をしている?」
「あっ、中嶋さん! 迎えに来てくれたんですか?」
 啓太の表情がパッと華やいだ。
 丹羽と篠宮が振り返ると、厨房の入口に腕を組んだ中嶋が立っていた。啓太はトテトテと中嶋に駆け寄り、ピトッと抱きついた。中嶋が僅かに目を眇めた。啓太の顎を軽くすくい上げる。
「飲んでいるな」
「すまない。俺の責任だ」
 篠宮は小さく頭を下げた。いや、と中嶋は呟いた。
「飲んだのはこいつ自身だ」
 中嶋は啓太に顔を寄せると、吐息で囁いた。お仕置きだな、啓太。すると、啓太はうっとりした顔で頷いた。熱を帯びて蕩けた眼差しを恋人に向け、艶やかに濡れた口唇を誘う様に僅かに開く。その匂い立つ色香に中嶋の口元がクッと歪んだ。
「部屋へ連れて行く。世話をかけたな」
 中嶋はふわっと啓太を抱き上げた。
「あ、ああ……」
 篠宮が呆然と唸った。
 二人が立ち去ると、厨房に漸く平安が訪れた。丹羽がぼんやりと呟いた。
「篠宮、もう二度と啓太に酒は飲ますな」
「ああ」
「……」

 それから暫くの間、丹羽と篠宮は啓太の顔をまともに見ることが出来なかった。初心な奴らだ、と中嶋が思ったかどうかは定かではない。



2007.12.28
紹興酒とビールで作ったたまご酒は
日本酒よりも薬膳的な味わいです。
ホット・ワインはクローブ以外にも、
シナモンやバニラ、オレンジなども合います。
風邪の予防に一度、お試し下さい。

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Café Grace
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