「伊藤、まだ朝食を取っていないそうだな。時間がなかったので大したものは作れなかったが、これを食べると良い」
  篠宮は座っている啓太の膝の上にサンドイッチの入ったランチ・ボックスを置いた。
「有難うごさいます、篠宮さん」
  啓太は嬉しそうに言った。
  実際、とても空腹だった。昨日の夕食が最後だから、かれこれもう半日は何も口にしていない。啓太はすぐさまそれに手を伸ばし、パクパクと食べ始めた。
  薄暮の様な光の中で、篠宮はその様子を黙って見ていた。メールを読んだときは、日焼け程度ならば大したことないだろう、と考えていた。全く……伊藤のこととなると、遠藤は大袈裟に騒ぎ過ぎる。しかし、啓太の顔を見た途端、決してそうではないと知った。啓太の両瞼は篠宮の想像を越えて、大きく腫れ上がっていた。それは物貰いの比ではなかった。
「……篠宮さん、俺、そんなに酷い顔してますか?」
「いや、そんなことはないが……」
「そう、ですか……」
「……」
  視線を感じたのだろうか、と篠宮は慌てて目を逸らした。啓太は再び食べ始めた。ふと篠宮は思った。
「伊藤、食事は暫く部屋で取るのか?」
「あ……はい、その方が良いかなと……」
「そうか。ならば、俺が何か手軽に食べれるものを作ってやろう」
「そんな! 俺、大丈夫ですから」
「遠慮しなくても良い。卓人にもやっていることだ」
「有難うございます」
  啓太はペコリと頭を下げた。そのとき、ドアが音もなくすっと開いた。
「誰!?」
  素早く啓太が顔を向けた。視力を失った分、感覚がより鋭敏になっているのだろう。篠宮よりも反応が早かった。中嶋は軽く首を振って黙っているようにと告げた。
「ああ、驚かせてすまない。ドアがきちんと閉まっていなかったのでな」
  取り敢えず、篠宮が尤もらしいことを言った。
「そうですか」
  啓太は、ほっと息を吐いた。篠宮は中嶋を横目で捉えながら、遠慮がちに尋ねた。
「伊藤、不安ならば、俺が中嶋を連れて来るが……?」
「……いえ……中嶋さんは呼ばないで下さい……」
「……!」
  中嶋の眉が微かに動いた。なぜだ、と篠宮は訊いた。
「顔を見せたくないのか?」
「それもありますけど……」
  啓太の頭に昨日の失敗がつらつらと蘇ってきた。他愛ない感傷に浸っていたお陰で、中嶋に怒られ、生徒会室を追い出され、更には目まで痛めてしまった。これでは中嶋に合わせる顔がない。じわっと涙が浮かんでくる。
「泣くな……目に障る」
  篠宮はハンカチで優しく目元を拭ってやった。中嶋は壁に寄り掛かって、その様子を無言で眺めていた。
  今の啓太はとても弱々しく見えた。日頃から啓太に甘い和希や篠宮は庇護欲を激しくそそられ、表情が七割り増し緩くなっている。しかし、それは同時に人の嗜虐心をも酷く煽った。ともすれば、仄暗い欲望に火が点く。啓太が神経質になっているのは本能的にそれを警戒しているためだろう、と中嶋は思った。
  篠宮は啓太をベッドに横たえると、水の入った洗面器を持って来た。瞼に小さな濡れタオルを置く。
「こういう事例は俺も初めてなので良くわからないが、冷やした方が楽だろう」
「はい、有難うございます」
「少し休め。また後で来る」
「はい」
「……」
  中嶋に後を託して篠宮は部屋を出て行った。
  暫く啓太は大人しくしていたが、病院で飲んだ薬が効いてきたのか、やがて微かな寝息を立て始めた。中嶋は椅子をベッドの傍に寄せて腰を下ろした。ふっ、と自嘲する。こうして誰かに付き添うなど、今までの自分では考えられない行動だった。そうしようと思うのは……それが啓太だから。
(そんなに綺麗な夕陽だったのか? だが、これでは何も見えないだろう……俺の顔さえ……)
  啓太の額に張り付いた髪を払いながら、中嶋は無音で語り掛けた。そして、静かにため息をついた。

  どのくらい眠っていたのか、ふと啓太は美味しそうな匂いに目を醒ました。立ち上がろうとすると、それに気づいた篠宮にすぐさま押し止められ、ベッドにちょこんと座らされる。
「篠宮さん、そんなに大袈裟にしなくても大丈夫です。本当に和希も篠宮さんも、いつも俺に甘過ぎますよ」
「……そうか」
  はにかみながら、篠宮は呟いた。
「伊藤、夕食を持って来たのだが――……」
「啓太!」
  突然、慌しく和希が部屋に飛び込んで来た。軽く篠宮に頭を下げると、啓太の傍に駆け寄り、大きく息を吐く。
「はあ、間に合った。啓太の食事が心配で、急いで帰って来たんだ」
「有難う、和希」
「遠藤、伊藤には俺がついている。安心しろ」
「はい、でも、篠宮さんは何かと多忙な身ですから、俺も出来るだけのことはしたいんです」
  和希がきっぱりと言った。啓太は小さく俯いた。
(本当は和希が一番忙しいのに……)
「それに、今、戻る途中で見掛けたんですが、岩井さん、昼からずっと絵を描いている様ですよ」
「何!? 卓人の奴、また……」
「だから、啓太のことは俺に任せて、篠宮さんは岩井さんの処へ行って下さい」
「だが、それでは……」
「篠宮さん、気にしないで下さい。俺は和希がいるから大丈夫です」
「……すまない、伊藤……遠藤、何かあったら、いつでも呼んでくれ」
「わかりました」
  そう言うと、和希は篠宮を送り出してドアを閉めた。すかさず啓太が尋ねた。
「和希、仕事は?」
「もう終わったよ」
「えっ!? じゃあ、授業は? 出なかったのか?」
「ああ、啓太がいないのに出ても意味がないしな。だから、仕事を片づけてきた。それに、俺が啓太に夕食を食べさせてあげたかったんだ」
  和希はベッド近くの椅子に腰を下ろすと、啓太の両手を強く握り締めた。その温もりが啓太には嬉しかった。目が見えないと耳からの言葉しかないが、それは掴みどころがなく、何とも心許なかった。まるで暗闇に一人ポツンと置き去りにされた気がする。触れられて、初めて誰かの存在を実感することが出来た。
「朝も思ったけど、和希って盲人の扱いに慣れてるな」
「そうか?」
「うん、篠宮さんも親切にしてくれるけど、和希はこうして俺の手とか触ってくるだろう? それが凄くほっとするんだ。一人じゃないって気がする」
  啓太は小さく頷いた。和希が、ふわふわと頭を撫ぜた。
「それは、多分、俺がいつも啓太を見ているからだよ。俺は、啓太のことは誰よりも良くわかるんだ」
「和希……」
「さあ、食べよう。折角、篠宮さんが作ってくれたのに冷めたら悪いだろう?」
「うん! あっ、でも、和希のは?」
「大丈夫。もう直ぐ来るから」
  その言葉が終わるや否やというとき、ノックの音が聞こえた。和希は廊下の光に啓太を曝さない様に立ち上がった。
「遠藤~、食事や……わっ、何や暗い部屋やな」
「俊介!?」
  和希の背後で啓太が声を上げた。
「啓太か……?」
  滝は暗闇に目を凝らした。そして、和希の夕食をそっと机に置いた。
「お前、大丈夫か? 目、傷めたんやて?」
「うん、そうなんだ……あっ、どうして俊介が知ってるんだ?」
「そらもう、学園MVPのお前が遠藤と腕組んで歩いとったんやからな。聡い人達から見れば、一目瞭然や。まあ、俺としてはお前らの熱愛発覚の方がおもろかったんやけどな」
「熱愛って……」
  啓太は顔を赤らめた。中嶋との関係は極一部の近しい者しか知らなかった。特に伏せているつもりはないが、殊更、吹聴することでもない。それに、と啓太は思った。
(俺と中嶋さんとじゃ、あまりに釣り合わないし……)
「……俊介」
  突然、和希が話に割り込んだ。
「廊下の光は啓太の目に障るんだけど」
「ああ、すまんな。ほな、もう行くわ。お大事に~」
  パタンとドアの閉まる音がして、部屋は再び真っ暗になった。和希は俯いている啓太の頬を優しく両手で包み込んだ。
「啓太」
「……何、和希?」
「今、自分は中嶋さんと釣り合わないって考えているんだろう?」
「……うん……だって、実際……そうだから……」
「確かに中嶋さんとでは釣り合わないな。啓太の方が遥かに価値が高いから」
「和希! 何、言って――……」
  驚いて声を荒げた啓太を和希は静かに遮った。
「聞いて、啓太……この世で最も尊いのは私利私欲のない純粋な心なんだよ。俺は幼い頃から『鈴菱』の後継者として我欲に満ちた人間に囲まれてきたから、それが良くわかる。もし、あの夏の日に啓太に逢っていなければ、俺は間違いなく彼らの様な人間になっていた。そして、今……ここにはいなかった」
「うん、和希はきっと立派な理事長をしていたと思うよ」
  啓太はコクンと頷いた。和希は少し寂しそうに笑った。
「それで良いんだよ……啓太はね。啓太は何も変わらなくて良い。今のままで良いんだ……」
(俺の言う意味は恐らく啓太には一生、理解出来ない……いや、俺が理解させない! 啓太を、この天壌の煌きを護るためなら俺は何だってやる! そう、何だって……!)
  和希はギュッと啓太を抱き締めた。
「和希……?」
  思わず、啓太は顔を上げた。
  見えなくても、はっきりとわかる。今の和希はきっと辛そうな表情をしている。啓太は和希の背に腕を回し、あやす様にポンポンと叩いた。
「和希、俺には和希の言葉が良くわからないけど、一つだけ言えることがあるよ。俺もあの日、和希に、かず兄に逢えて良かった」
「……本当に?」
「うん」
「啓太……!」
  和希の声が嬉しそうに弾んだ。啓太は小さく微笑んだ。良かった。これはいつもの和希だ。
「和希……俺、もうお腹がペコペコなんだけど?」
「ははっ、俺もだ」
「そういえば、この部屋、真っ暗なんだろう? 明かり点けてよ。俺、サングラス掛けるから」
  啓太が枕元に腕を伸ばそうとすると、和希がその手を取った。
「大丈夫だよ、啓太、今夜は良く晴れているから月明かりでも充分だよ。それに、この方が夜のピクニックみたいで俺は楽しいな。はい、啓太、あ~ん」
「えっ!? あ~ん」
  その言葉に釣られて啓太はつい口を開けてしまった。すると、何かを中に入れられた。かぼちゃ……?
「篠宮さんが煮てくれたんだな。夕食のメニューにはなかったから」
「甘い……」
「他にも色々あるぞ。筑前煮に一口ハンバーグ、ほうれん草のお浸しに、啓太の好きなポテトサラダ。ご飯は食べ易い様に小さめのお握りにしてある。さすが篠宮さんだな。どれも美味しそうだ」
「そうだ! ねえ、和希のと半分ずつにしようよ!」
「ああ、それは良い考えだな」
  和希は啓太の頭を優しく撫でた。一つのものを二人で分けた、あの遠い夏の日が蘇る。再びこんなときが来るのを和希はずっと待ち望んでいた。啓太、もう二度とお前を離さない……
  無意識に和希の顔に差した影……結局、啓太は最後までそれを知ることはなかった。

  夕闇の生徒会室。そこで中嶋は野球部の交流試合申請の書類審査をしていた。篠宮と入れ替わりに啓太の部屋を出ると、真っ直ぐここへ足を運んだ。案の定、丹羽はいない。机の上には書類が山積みになって放置されていた。それを中嶋は迅速、かつ丁寧に片づけてゆく。いつもと全く変わらない光景だった……啓太が転校してくるまでは。
「……」
  ふと手が止まった。ときには煩いと感じたりもしたが、あのピョコピョコした癖毛が視界の隅にないと、どうにも落ち着かなかった。この静けさが返って耳につく。仕事に集中出来なかった。
(暫く休憩するか……)
  中嶋は煙草を取り出し、火を点けた。そういえば、と思った。啓太といるようになって、煙草の本数がかなり減った。別に啓太に気を使っている訳ではない。ただ、啓太といると退屈しなかった。中嶋にとって、煙草は単なる暇潰しに過ぎない。しかし、今日はこれで何本目だろうか。こんなに吸ったのは久しぶりだった。確かに丹羽も中嶋を退屈させない……が、本数が増えることはあっても減ることはなかった。丹羽と啓太は何かが根本的に違っていた。その理由を中嶋はぼんやりと考えていた。
「おう、中嶋、戻ったのか」
  丹羽は入って来るなり、豪快に言った。中嶋は、ああ、と短く答えた。
(珍しいな。中嶋が仕事もせずに考えごとか? まあ、啓太があれだから心配なんだろう。中嶋も一応、人の子だったってことか)
  うんうんと一人で勝手に納得して、丹羽はドカッと椅子に腰を下ろした。
「中嶋、お前、遠藤からまた啓太の警護を頼まれたんだろう?」
「ああ」
「気をつけろよ。啓太の目のことは、もう学園中の噂になってる。力押しされたら、啓太じゃ一溜まりもねえからな」
「……」
  ふっ、と中嶋は苦笑した。先刻も遠藤から似た様なことを言われた。そんなに俺は酷薄な人間に見えるのだろうか。まあ、それを否定する気はなかった。
  中嶋の中では、総ては二つのものに大別された。面白いものと退屈なもの。この学園に入ったのも、丹羽と生徒会を始めたのも、それが退屈しなさそうに思えたからだった。確かにこの学園は今までよりはましな生活を送れた。丹羽のカリスマ性にも、多分……惹かれているのだろう。しかし、丹羽を抱きたいと思ったことはなかった。二人の関係はあくまでも対等で、ただ光と闇の様に立ち位置が違うだけだった。そして、丹羽以外の者に対して、中嶋は常に支配する側を望み、またそれに見合うだけの実力を兼ね備えていた。
  それを打ち砕いたのが啓太だった。
  こちらが呆れるほどお人好しで、希少価値がつきそうなくらいの単純馬鹿。良く言えば、純粋。どうしたら世界をあんなふうに捉えられるのか、中嶋には全く理解出来なかった。
  啓太を手にしたとき、中嶋はいつもの様に上に立ち、総てを自分の色彩(いろ)に染めてやるつもりだった。実際、主導権は常に中嶋にあった。啓太は中嶋の些細な態度に一喜一憂した。ベッドの中でも、啓太をどこまで煽り、焦らして啼かせるかは中嶋の気分次第だった。にもかかわらず、中嶋は啓太に支配されている感が拭えなかった。
  あの瞳に映るのが自分ではなくなったら。縋りつくあの手が自分から離れてしまったら……気がつくと、いつもそれを恐れていた。その不安を打ち消そうと、事あるごとに中嶋は啓太を快楽の波へ誘(いざな)った。しかし、どんなに酷く抱いても啓太は決して穢されなかった。寧ろ、抱けば抱くほど、より純潔さを増してゆく……欲望に塗れる自分を残して。
(まるでパルジファルだな)
  中嶋は思った。
  誰もが心に欲望を秘めていた。その誘惑に挫けた者の救済は、ただ純粋というだけでは出来ない。共に苦しんで知を得る愚者――パルジファル――によってのみ成される。
(道理で……遠藤が執着する訳だ。奴はその最たる処にいるからな。差し詰め、堕ちた聖杯の守護者アンフォルタスといったところか。そして、俺はパルジファルを誘惑しようとする魔法使いクリングゾールだな)
「はははっ……」
「中嶋!?」
  突然、笑い出した中嶋に丹羽は驚きの目を向けた。おいおい、ヒデが声を上げて笑ってやがる……!
「一体、どうした?」
「ははっ……いや、一つ気がついただけだ。どうやら俺には啓太が必要らしい」
「それはお前だけじゃねえよ。この学園中が啓太を必要としてる。だが、啓太が一番傍にいて欲しいのはお前だろう? なら、行ってやれよ。ここは俺がやっとくぜ」
「それでこの状態か?」
「うっ!! あっ、いや、それは……その……」
  丹羽はしどろもどろに口籠もった。
「あいつには篠宮と遠藤がついている」
「お前――……」
「些事にかまける気はない。さっさとこれを片づけるぞ」
  中嶋は軽く眼鏡を押し上げた。丹羽はガシガシと頭を掻いた。
(全く……素直じゃねえな。どっちが些事なんだか)
「よし! それじゃ、気合を入れるとするか!」
  パンッと頬を叩くと、丹羽は猛然と仕事に取り掛かった。あのやる気が最初から出ればな。中嶋も煙草を揉み消し、再び書類に目を向けた。先刻よりは集中出来る……が、その瞳は、まるで心の深遠を映したかの様に暗く沈んでいた。


2008.2.8
『パルジファル』はワーグナー最後のオペラです。
中嶋さんはJazz派ですが、
知っていても不思議ではないかなと思って……
ところで、篠宮さんは学業そっちのけで、
啓太の夕食作りをしていたのかな。

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Café Grace
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