次の日になっても、啓太の瞼はまだホコホコと熱を帯びていた。昨日の今日で治る訳もなく、既に和希が病欠届けを提出している。しかし、平日の寮内で私服でいるのも何となく憚られたので、啓太は和希の介添えで制服に着替え、一緒に部屋で朝食を済ませた。
「啓太、そろそろ行くよ……時間だから」
  後ろ髪を引かれる思いで和希は立ち上がった。うん、と啓太は呟いた。
「啓太、部屋からはあまり出るなよ。何かあったら、いつでも俺に電話して良いから。携帯はジャケットの右ポケットに入れてある。俺は昼食には戻れないけれど、篠宮さんが来るはずだから安心して。でも、夕食には必ず間に合うように帰るから」
  和希はギュッと啓太の手を握り締めた。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ、和希」
「啓太の目が治るまでは気を抜けないよ。先刻、目薬をするのも大変だっただろう?」
「う、ん……まあ……」
  啓太は曖昧に頷いた。
  瞼が重くて殆ど開かないので指で軽く持ち上げて目薬をしたが、痛いやら沁みるやらで大騒ぎすることになった。この苦行を一日三回もしなければならない。本当に夕陽の代償は高くついた。
「後で何か暇潰しになるものを届けるから、それまでは部屋で大人しくしているんだぞ?」
  和希は、ふわふわと頭を撫でた。
「うん」
「なら、俺は行くから……何かあったら、直ぐに電話するんだぞ?」
「うん」
(そんなに子供扱いしなくても大丈夫だって)
  そうは思っても、今の自分の状態を考えれば全く自信はなかった。しかも、かず兄モードの和希の前では安堵感からか、いつも無防備になってしまう。そんな状態が昨日の朝から続いていたので自覚こそないが、啓太は言動が少し幼くなっていた。和希は本当に辛そうな顔をして、啓太の部屋を後にした。
「……」
  一人になると、急に静かになった気がした。何もすることがないまま、時間だけが過ぎてゆく。啓太はコロンとベッドに横たわった。暇なせいか、薬を飲んだせいかはわからないが、欠伸が出る。そのまま、暫く微睡んだ。昼になり、篠宮と一緒に昼食を取った。そして、再び……うとうと、うとうと。しかし、それも終に限界に達した。突然、啓太はガバッと起き上がった。
(喉渇いたし……ちょっと食堂へ行くくらいなら平気かな)
  サングラスを掛けると、そろそろと啓太は部屋を抜け出した。
  壁伝いにドアの感触を数えながら、慎重に廊下を進んだ。曲がり角で立ち止まると少し耳を澄ました。物音がしないので、まだ夕食前らしい。誰かいると良いけど。啓太は両手を前にかざして、向こう側の壁を目指して歩き始めた。ここを横断すれば、あとは一本道……最初で最後の難関だった。
  啓太の感覚で通路の中ほどまで来たとき、右側からバタバタと誰かが走って来た。次の瞬間、啓太はドンッと床に弾き飛ばされた。
「痛っ!!」
「……あっ、悪い」
  簡単に謝ると、彼は去って行った。
  倒れた啓太は、よろよろと身を起こした。今の衝突でサングラスが外れてしまった。光が目に突き刺さる。啓太は左手で目元を覆いながら、痛みを堪えて付近を手探りした。
(……ない……ない……どこ……?)
  目尻に涙が滲んできた。啓太は必死に床に指を這わせた。すると、右足の近くで微かな物音が聞こえた。さっと啓太は手を伸ばした。
(あった!)
  急いでサングラスを拾い上げると、直ぐそれを掛けた。漸く苦痛から開放された啓太は、ほっと息をついた。そして、見えない目で右後方を振り返った。そこに漠然とだが、人の気配を感じた。誰かいるんですか。そう尋ねようとしたとき――……
「啓太やないか!」
  反対側から大きな声がした。
「俊介!?」
「お前、こないな処で何してるんや?」
  啓太を立たせながら、滝は言った。
「あ……うん、喉が渇いたから食堂へ行こうと思って」
「無茶すんなや。お前、今、見えへんのやろ?」
「うん」
「飲み物なら、俺が持って行ってやる。お前は部屋に戻りや」
  滝は啓太の手を取って、さっさと歩き始めた。啓太はやや引きずられる様にしてついて行く。
「あ、有難う。でも、俊介も用事があって寮に来たんだろう? 良いのか?」
「ああ、俺は仕事や。遠藤からお前宛てにデリバリー頼まれたんや」
「和希から?」
「せや、暇潰しのCDやて。何とかって本の朗読や言うてたな。英語らしいで。こないなときまで、ヒアリングの勉強とは遠藤も意外と厳しい奴やな」
「ははっ」
  啓太は笑った。まあ、理事長だからな……
  部屋に辿り着くと、滝は啓太をベッドに座らせた。
「何が飲みたいんや? ジュースか、お茶か?」
「う~ん、甘くないものが良いな。喉、渇いてるから」
「わかった。任せとき!」
「あっ、俊介! 食券が確かそこの机に――……」
「良いって! これはサービスや。遠藤から仰山、貰ったしな」
「有難う」
「ほな、待っときや」
  滝は明るくそう言うと、部屋を飛び出して行った。啓太は再びベッドに横になった。
(俺、本当に何も出来ないんだな)
  目が見えないということは思っていた以上に大変なことだと啓太は痛感した。和希や篠宮、滝にも迷惑を掛けてしまった。
(この学園の人は親切で俺に良くしてくれるけど、それに見合うだけのものを俺は何も返せない……)
  自身に人を惹きつける魅力があるからこそ誰もが手を差し伸べてくるという事実に無自覚な啓太は、親切にされればされるほど返って落ち込んでしまった。
(中嶋さんも……きっと呆れてる……)
  昨夜、中嶋は部屋に来なかった。
  確かに自分から篠宮に中嶋を呼ぶなとは言ったが、恋人なのだから一言ぐらいは声を掛けて欲しかった。中嶋は瞳の方が感情を汲み取り易いが、今の啓太にはそれが見えない。だからこそ、中嶋の言葉が欲しかった……が、この分では恐らく今夜も現れないだろう。
「……っ!!」
  目頭が熱くなってきて、また涙が浮かんできた。ひりつく痛みに顔を顰め、啓太は目を擦った。プルプルと水を含んだ様な瞼の感触で、まだかなり腫れているとわかる。自分がいかに酷い顔をしているか、想像するに難くなかった。
(家に帰ろうかな。ここにいても皆の迷惑になるだけだし……)
  しかし、それにはまた誰かの手を借りなければならなかった。結局、俺は何も出来ないんだ。そう思い、啓太は深い深いため息をついた。

  真夜中……人の気配に、ふと啓太は目を醒ました。
  夕食後、和希に早々に寝かしつけられたので何時かはわからなかったが、こんな夜更けに部屋を訪れる人物は二人しかいなかった。まず最初の名前を呼ぶ。
「中嶋さん?」
  耳を澄ました……が、返事がない。不審に思いながら、啓太は起き上がった。鍵は和希が閉めていったので合鍵を持つ中嶋だろうと思ったが、違ったらしい。
「和希?」
  理事長の和希なら、マスター・キーを持っているので出入りは自由だった。俺を心配して、また様子を見に来たのかな……
  啓太は声を待った。しかし、反応がない。どうして何も言わないんだろう?
「……誰?」
  目の前にいるであろう男を啓太は見上げた。
「……!?」
  次の瞬間、ベッドに押し倒されて強引に口唇が重なった。乱暴な手がボタンを引き千切り、パジャマをはだけさせてゆく。悪意がピリピリと肌を刺した。
  違う、と啓太は直感した。これは中嶋さんじゃないっ!!
「……や……んっ……!」
  腕を払ったが、難なく頭上で一纏めにされてしまった。身体に伸し掛かる中嶋ではない重さ。口中を生暖かい湿った舌が蠢き、見知らぬ指が啓太の胸元に滑り込んだ。激しい悪寒に啓太は無我夢中で男に噛みついた。
「……っ!!」
  微かに男が怯んだ。その隙をついて、啓太は男の手を振り解いた。
「は、離せっ!!」
  しかし、バシッという乾いた音と共に男の掌が一閃、啓太はベッドに沈んだ。
「……!」
  啓太は放心した。
  日頃、周囲から愛されるべくして愛されてきた啓太は、他人から暴力を振るわれた経験が殆どなかった。親でさえ、記憶にある限りはない。それがこんな状況下とはいえ、顔を叩かれて受けた精神的な衝撃(ショック)は大きかった。男はそれを見逃さなかった。
「……い……嫌、だっ……!」
  更に事に及ぼうとする男の下で、啓太は必死に身を捩った。知らずに溢れてきた涙が頬を濡らす。心が叫んだ!
(助けて! 誰か、助けて! 中嶋さんっ!!)
  その途端、不意に身体が軽くなった。誰かの争う鈍い打撃音。低く呻く男の声。そして――……
「啓太っ!!!」
「……!?」
  和希が啓太を抱え起こした。強く温かい腕から振動が伝わる。震えてるのは和希、それとも……俺?
「啓太っ!! もう大丈夫だから、啓太っ!!」
  それは今まで聞いたこともない切迫した和希の声だった。啓太は、そろそろと手を上げた。
「……和、希」
  ポロリと目尻から涙が零れた。
「和希! 和希っ!!」
  啓太は子供の様に和希にしがみついた。
  安心したら、一気に恐怖が込み上げてきた。相手が誰かもわからないまま、為す術もなく組み伏せられた。その目的は一つしかなかった。もし、誰か来るのが遅かったら、来なかったら……一体、俺はどうなってただろう。そう思うと、全身から血の気が引いた。啓太は寒くて寒くて仕方がなかった……
「啓太……」
  ぶるぶる震える啓太を和希は優しく抱き上げた。こんなことがあった部屋に一人で寝かせておくことは出来ない。和希は啓太を自分の部屋へ連れて行くことにした。
  廊下では生徒が一人、床に伸びていた。和希はそれを汚らわしいものでも見る様に一瞥した。そして、その傍に立っている男をありったけの憎悪を込めて睨みつけた……!
「……」
  中嶋はそんな和希の視線を物ともせず、啓太を凝視していた。涙に濡れた顔はくしゃくしゃで、片頬が赤くなっていた。手首には痣らしき痕も見える。無残に引き千切られたボタンが啓太の抵抗の大きさを物語っていた。
「……寒い……」
  啓太がポツリと呟いた。ハッと和希は我に返った。
「ごめん、啓太……今夜は俺の部屋で寝よう」
「……うん、かず兄……」
  キュッと啓太は和希の胸元を掴んだ。和希はあやす様に啓太の髪に口づけると、中嶋を一人その場に残し、自分の部屋へ入って行った。


2008.2.29
中嶋さん……殆ど出て来ません。
一応、啓太の警護はしているのですが、
陰に隠れているので。
それにしても、今回はNHKを少々超えたかも……

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Café Grace
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