「啓太、これを飲んで……少し落ち着くから」
 和希はベッドに座って、ぶるぶる震えている啓太にマグカップを握らせた。それは睡眠薬を溶かした冷たい緑茶だったが、啓太は味などどうでも良いのか、一気にそれを飲み干した。着替えようか。次に和希はそう言うと、幾つもボタンの千切れた啓太のパジャマをそっと脱がせた。薄闇に浮かび上がる啓太の白い肌の所々に引っ掻き傷らしきものが見える。それを一つ目で捉える度に、和希の怒りは一段……また一段と深まっていった。
「……!」
 新しいパジャマに啓太の腕を通そうとして和希は小さく息を呑んだ。
 手首にくっきりと指の痕がついていた。今だけは……本当に今だけは啓太の目が見えなくて良かった、と和希は思った。それはあまりにも生々しかった。
「さあ、啓太……横になって」
「……うん……」
 薬のせいで啓太の意識は朦朧とし始めていた……が、まだ震えが止まらない。布団に入った啓太に寒いかと訊くと、コクコクと頷いた。部屋には毛布の代わりになるものがなかったので、和希はクローゼットの奥からカシミヤのロングコートを取り出した。それを啓太の上に被せ、優しく囁く。
「おやすみ、啓太」
「……」
 啓太は直ぐ夢の中へ引き込まれていった。和希は枕元に腰掛け、啓太の目尻から流れた涙をそっと指で拭った。そして、そのまま……まんじりともせずに夜を明かした。

 翌朝、啓太は熱を出した。
 それは明らかに心因的なもので、啓太の受けた衝撃(ショック)を考えれば無理もなかった。しかし、不幸中の幸いというのか、例の件が起こったのは深夜もかなり遅い時間だった上に寮の各個室は完全防音になっているので、知っているのは和希と中嶋だけだった。和希は詳細は伏せて篠宮に一時間だけ啓太を託すと、真っ直ぐ学園へと向かった。本来なら自分が付き切りで看病するところだが、どうしても一つだけやらなければならないことがあった。静かに生徒会室のドアをノックする。
「失礼します」
 室内には、案の定……中嶋しかいなかった。何かの書類を読んでいる。和希は後ろ手に鍵を掛けた。
「……どういうことですか?」
 中嶋は顔も見ずに答えた。
「昨夜の奴の資料なら、そこに置いてある。煮るなり、焼くなり好きにしろ」
「俺はそんなことは訊いてないっ!!」
 ダンッと和希は拳で机を叩いた。中嶋が漸く視線を上げた。
「君には啓太の警護を依頼したはずだ! なぜ、あいつが部屋へ侵入する前に阻止しなかった! 一体、君は何をしていたんだ!」
 和希の全身から抑えようもない怒りが溢れていた。啓太に乱暴しようとした男は当然だが、それ以上に和希は中嶋が許せなかった。
 昨夜、和希は啓太の部屋を出るとき、念のため枕元に携帯電話を開いて置いていった。啓太は男と揉み合う内に偶然、そのリダイヤルに触れ、更には発信ボタンを押した。明日も早く帰寮するためにまだ起きて仕事をしていた和希は着信音で啓太とわかると、すぐさま部屋へ駆けつけた。すると、暗闇の中で蠢く男の姿を発見。その直後、中嶋が現れて男を叩き出し、和希は啓太を救出した。総ては啓太の幸運の産物だった……ただ一点を除いて。
「君は、あの男が啓太の部屋に入るのを見ていた! そうでなければ、あの場に居合わせられるはずがない! あの男に気づかなかったなどと寝言は言わせない! 君は啓太が襲われるとわかっていた! それなのに、ただ黙って見ていたんだっ!!」
 ダンッッッ……!!!
 再び和希の拳が机を打ちつけた。中嶋は煙草を取り出すと、静かに火を点けた。
「ああ」
「……っ!!」
「一度、あいつが部屋を出たとき、態とぶつかってきた奴がいた。その際、あいつは気づかなかったが、そいつに部屋の鍵を盗まれた。仕掛けるなら夜だろうと網を張っていたら、案の定……奴は反生徒会連合の中でも武闘派に属する剣道同好会の副主将だ。今まで尻尾を掴めなかったが、これで終に墓穴を掘ったな」
「そのために啓太を囮にしたのか!? もし、啓太が本当に強姦(レイプ)されたら、どうするつもりだったんだ!」
「そうなる前には助けた。昨夜も俺が行こうとした矢先、お前が勝手に――……」
「ふざけるなっ!!」
 あまりの激情に和希の全身がわなわなと震えた。他人に対して、これほど感情を爆発させたのは生まれて初めてだった。
「仮にも君は啓太の恋人だろう! 未遂でも、啓太の受ける衝撃(ショック)を考えなかったのか! 君のそのくだらない策のせいで、今、啓太は熱を出して苦しんでいるんだ!」
「医者に診せれば良い」
「駄目だ! あんな傷をつけた啓太を他人に見せるなんて……っ……俺には……出来ない」
 急速に和希の声が萎んでいった。思い出してしまったのか、辛そうに瞼を閉じる。中嶋の眉が片方だけ吊り上がった。
「あいつの身体を見たのか……どうだった?」
「どうって……あまりに痛々しくて……」
 和希は言い淀んだ。違う、と中嶋が言った。
「あいつの身体を見て触れたその感想を訊いている。あいつの肌は滑らかだろう? 刺激に敏感で、軽く擦るだけで直ぐ朱に染まる。それがゆっくりと……まるで男を誘う様に周囲へと散ってゆく。お前は、あいつを抱きたいとは思わなかったのか?」
「……何を言っているんだ、君は?」
 仄暗い気を漂わせながら、和希が呟いた。能面の様に無機質な顔が浮かび上がってくる。中嶋は煙草を深く吸い込んだ。
「お前もあいつが欲しかったはずだ。昨夜は滅多にない、良い機会だった。あいつも、お前になら喜んで抱かれただろう」
「私は今まで啓太をそういう目で見たことがない。そして、これからもそれは変わらない」
「弟の様な存在だからか? それにしては、お前の執着は常軌を逸しているな」
「君の様な人間に理解して貰うつもりはない。だが、これだけは言っておく。啓太の、あの天壌の煌きは何人たりとも侵してはならない絶対不可侵領域だ。私の権力は総て啓太を護るためにあり、私の幸福は総て啓太に己が存在を捧げることにある。故に私は啓太に仇なす者に対して容赦はしない。たとえ、それが君でもだ」
 和希は中嶋を冷たく睥睨した。中嶋が、ふうっと煙を吐き出した。
「お前は何を勘違いしている? あいつは神でもなければ、聖人君子でもない。抱けば、情欲に濡れる普通の人間だ」
「それは肉体の話だ。私は魂のあり様を言っている。現に、啓太は幾度となく君に抱かれても決して穢されることはない。いや、寧ろ、純潔さを増してゆく。君も気づいているはずだ」
「……」
「だから、君は今回の件を利用した。日々昇華されてゆく啓太と比べ、君は堕ちる一方だ。いつか、啓太が手の届かない存在になり、君一人、地に取り残されるのが恐ろしくなったのだろう? だが、君には啓太を手放すことが出来ない。ならばいっそ、啓太が自らの意思で離れていけば良いと考えた。違うか?」
「……」
「図星か」
 ふっ、と和希が冷笑した。雰囲気がゆっくりと和らぐ。和希は机に置いてあったファイルを手に取ると、素早く中身を確かめた。そこには昨夜の男の写真と経歴が記載されていた。
「これは貰っていきます。彼には罰を下さないといけませんから。俺としては退学にしても飽き足りませんが、そんなことをしたら啓太が悲しみますからね。停学一ヶ月といったところでしょうか」
 しかし、和希の心のブラックリストにはしっかりと名前が明記された。それは未来永劫、『鈴菱』から締め出されたことを意味した。そして――……
「中嶋さん、貴方への処分はありません。貴方は既に罰を受けていますから。これから先、貴方は堕ちた自分を抱えて一人で生きてゆくんです。それが聖域を侵した者の末路です。あっ、警護はもう結構です。目が治るまで、啓太は内の病院に入院させますから。それでは、失礼します」
 そう言うと、和希は軽く頭を下げて出て行った。
「……」
 ふっ、と中嶋は自嘲した。返す言葉が全く思い浮かばなかった。無言で、短くなった煙草を銜える。
(是非もない)
 ただ……そう思った。



2008.3.21
和希と中嶋さんの直接対決です。
でも、中啓編なのに、
肝心の中嶋さんを差し置いて和希が言いたい放題です。
しかも、完全に趣味が入っています。

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Café Grace
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