その日の内に、啓太は『鈴菱』系列の総合病院へと移送された。
 部屋は和希の意向で最上階の特別室が用意されていた。そこは寝室以外にも二つの居間と浴室、小さなキッチンが完備されおり、政治家などが社会的入院をするためにも使用される部屋だった。そのため看護師達もその辺りの事情を充分に理解し、無用な好奇心は示さない様に良く教育されていた。しかし、そんな彼らも患者が和希に抱き抱えられて現れたときには驚いた。『鈴菱』の御曹司自らが大切にベッドまで運ぶとは、この人は相当なVIPに違いない。もしかしたら、婚約者かも……とつい空想の翼をはためかせてしまった。
 啓太は黒のサングラスに栗色のロングコートを着ていた。その下は恐らくパジャマなのだろう。素足だった。浅い呼吸を繰り返しながら、微かに震える指で和希の胸にしがみついている。袖口から覗いた手首には白い包帯が巻かれていた。和希は、暫くお世話になります、とだけ言うと、さっさと寝室へ入って行った。
 室内の明かりは隅のフロアー・ランプが一つだけで、その他は予め総て落とされていた。窓にも厚いカーテンが掛けられている。和希は啓太を大きなベッドに座らせると、そっとサングラスを外した。昨夜、酷く泣いてしまったせいで啓太の瞼は良くなるどころか、また一段と腫れ上がっていた。
(啓太、安心しろ。治るまで俺がずっと傍にいるから)
「疲れただろう? もう直ぐ横になれるから」
「……う、ん……」
 啓太はぼんやりと答えた。和希はコートを脱がせた啓太をゆっくりベッドに寝かせた。石塚がタオルと水を入れた洗面器を持って来てナイト・テーブルの上に置いた。
「有難う」
 和希は枕元に腰掛け、湿らせたタオルを啓太の額から瞼にかけて乗せた。
「少し熱が上がった様ですね」
「ああ……暫く俺はここを動けない。何かあったら連絡をくれ」
 わかりました、と石塚は頷いた。
 啓太の目のことを知ったとき、和希が付き切りで看病する事態は容易に予想出来たので既に万全の対策を講じてあった。幸い、仕事が詰まっている訳でもない。急に入院すると言われたときには少し驚いたが、今後のことを思い、この際、和希にはゆっくり休養を取って貰う方が良いと判断した。それに……
「……」
 無言で石塚は啓太を見つめた。
 今の啓太は石塚が密かに胸の奥に秘めている仄暗い欲望を酷くかき立てた。それは自分とは一回り以上も違う、しかも同性に対して抱くべき想いでは決してなかった。自分の精神安定の点からしても、啓太は学園にいるべきではない。
 早く治ると良いですね、と石塚は言った。本当に……私自身のためにも……
「有難う。啓太にも、そう伝えておくよ」
 和希は軽く振り返った。
「はい」
 石塚は、ただ静かに微笑を浮かべた。

 啓太の不在で学園の雰囲気は一変した。誰もがささくれ立ち、小さな揉め事が後を絶たなくなった。そのため、丹羽は本当に治安維持のためにあちこちへ奔走しなければならなかった。
 その影響は生徒会と会計部の関係にも及んだ。
 啓太が生徒会の正式な役員になってからも、西園寺達は何かと理由をつけては啓太を呼び出していた。いつも殆ど大した用事ではないのでお茶をするだけだったが、啓太というクッションを間に置くと二つの組織は相争うことなく、以前より遥かに効率良く運営される様になった。それに慣れた今になって、突然、啓太のいない状態に逆戻りしたため、両陣営の衝突はより凄まじいものとなった。
「その程度のことで一々文句を言いに来るな。俺は貴様と違って忙しい」
 中嶋はパソコンの画面から顔も上げずに言った。七条はそんな中嶋を冷たく見下ろしている。
「それはそちらの都合でしょう。僕は当然の主張をしているだけです」
「丹羽! 何度、言ったらわかる! これでは受理することは出来ない!」
 西園寺は苛々と声を張り上げた。丹羽は書類の山の向こうでガシガシと頭を掻いた。
「仕方ねえだろう、急いで書いたんだから。後は郁ちゃん達の方で適当にやれば良いじゃねえか」
「ふざけるな! 何のために会計部を生徒会から独立させたと思っている!」
「あ~、もう、ごちゃごちゃ煩せえな~」
「何!? 臣、もう良い! 帰るぞ! その書類はこいつらに叩き返しておけ!」
「はい、郁」
 怒りを撒き散らしながら、 西園寺は生徒会室を出て行った。七条は書類の束を傍の机の上に置くと、無言でその後に続いた。
「……あれで充分じゃねえか」
 ぼそぼそと丹羽は零した。ふと見ると、中嶋が激しい勢いでキーを叩いていた。
「おっ、もう始まってんのか?」
「ああ、奴らが会計室を出た頃を見計らって先に仕掛けておいた」
「……フライングじゃねえか、それ」
「自業自得だ。奴らは黙って俺達に従っていれば良い」
「そう、だけどよ……」
(中嶋の奴、かなり機嫌が悪いな。いつもより冷酷さが五割り増しになってる。いや、前はこれが普通だったか。啓太とくっついて、こいつも少しは人の子らしくなったんだが、たった一日でこれかよ。全く……先が思いやられるぜ。他の連中もどこか荒んでるし……啓太、早く戻って来てくれ!)
 そんな祈る様な丹羽の願いも、パソコン内のデータが会計部の反撃で次々と崩壊していくのを目の当たりにした途端、霧散してしまった。丹羽もまた、いつ果てるとも知れない闘争へと巻き込まれていった。

『誰……?』
 ベランダから音もなく忍び入って来た闖入者に向かって、啓太は尋ねた。頭からすっぽりと黒衣のフードを被った男は何も答えず、こちらへと近づいて来る。啓太はベッドに横たわたまま、男を待っていた。
 男はとても端整な顔立ちをしていた。全く見知らぬ男……が、どこかで会っている気がした。その二つの暗い瞳には確かに覚えがある。
 男がすっと手を差し伸べた。啓太は小さく問うた。
『貴方は俺を望んで、愛してくれますか? でなければ、俺――……』
 その瞬間、啓太の喉元を男の右手が押さえつけた。苦しくて息が出来ない。は、離して下さい!
 もがく啓太を痛い様な顔をした男が覗き込んだ。
『逃さない。漸く見つけた、俺の曙光(ひかり)……』
 締め上げる指先に徐々に力が籠もる。啓太は霞む瞳で男を見上げた。
(……こんなことしても……貴方が……傷つくだけなのに……)
 最後の力を振り絞り、啓太はふわりと微笑んだ。そして……目が醒めた。
「啓太!?」
 和希の声が聞こえた。その方へ啓太が少し顔を動かすと、ほっと和希は息を吐いた。
「良かった。酷くうなされているから心配していたんだ。怖い夢でも見たのか?」
「……夢?」
 ぼんやりと啓太は繰り返した。そういえば、何か夢を見ていた気もする……が、はっきり覚えていなかった。起き上がろうとすると、和希が手を貸してくれた。背中に宛がわれたクッションに大きく寄り掛かる。身体がだるくて、いうことを利かなかった。
「そう、かも。ところで……ここ、どこ?」
 自分の部屋でないことは確かだった。ベッドの上に座った和希は啓太の首筋に両手を当てながら、事も無げに答えた。
「病院だよ。熱が出たから暫く入院することにしたんだ……ああ、まだ高いな」
「入院って……」
「そんなに大袈裟に考えなくても大丈夫だよ。所謂、社会的入院というものだから。ほら、よく政治家が逮捕直前に病院へ駆け込むだろう? あれと一緒。一種の緊急避難だよ。まあ、啓太は本当に病人だけど」
「でも……」
 啓太は盲(めし)いた目でそっと辺りを窺った。
 そこはかなり広そうな部屋だった。寮の部屋と比べ、声の反響が遠い。元々耳の良い啓太は失明状態に陥って三日目ともなれば、ある程度のことは音で感じ取れるまでになっていた。こんな部屋に入院したなんて親にどう言えば良いんだろう……
「……何も心配はいらないよ、啓太」
 まるで啓太の胸の内を読んだかの様に和希が言った。
「ここは内の系列の病院でね。最近、俺は休暇らしいものを取っていなかったから、この際、一緒に入院することにしたんだ。啓太はその付き添い。だから、啓太の家に迷惑は掛からないよ」
「でも、本当は逆……」
「良いんだよ、そんな書類上の細かい点はどうでも。それとも、啓太は俺の久しぶりの休暇をふいにしたいのか?」
「そんなこと……」
「なら、この話はこれでおしまい。お腹は、啓太? 食欲ある?」
 啓太は首を横に振った。訊かれるまで、そんな言葉さえ忘れていた。
「でも、啓太、朝から何も食べていないだろう? 先刻、お粥を作って貰ったから少しだけでも口に入れよう。ねっ?」
「……うん」
 かず兄モードで優しく諭されて啓太は渋々頷いた。和希はナイト・テーブルに置いた小さな土鍋の蓋を開け、器に粥をよそい始めた。その音を聞きながら、啓太は何気なく右手を左手の上に重ねた。
(あれ……?)
 手首に包帯が巻かれていた。こんなとこ、いつ怪我したかな。そう思った瞬間、脳裏に昨晩の出来事が閃光の様に走った。顔のない男が啓太に伸し掛かり、両手を頭上で一纏めにする。あのときの……ギリギリと肌に食い込み、容赦なく締めつける男の指の感触が蘇ってきた。
「……っ!!」
 啓太は胸を押さえて小さくうずくまった。それに気づいた和希がすぐさま啓太を優しく抱き締めた。大丈夫だよ、啓太、ずっと俺がついているから。和希が囁いた。うん、と啓太は頷いた。そして、その温もりの中でまたポロポロと泣いた。
 中嶋に逢いたかった。一言で良いから……声を聞きたかった。
(中嶋さん……)
 涙は、いつまでも止まらなかった。



2008.4.11
漸く西園寺さん達も出て来て、
これで主要人物が出揃いました。
それにしても……啓太、耳が良過ぎです。

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Café Grace
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