二日後……相変わらず、薄暗い室内で啓太はベッドの上に身を起こして和希の読む英語劇の朗読を聞いていた。精神的な衝撃(ショック)が治まると、元々芯の強い啓太の熱は直ぐに下がった。しかし、それまで散々泣いてしまったので、目が治るにはもう暫く時間が必要になってしまった。
 看護師がいるにもかかわらず、啓太の世話は総て和希が一人で行っていた。どんな理由があろうと、和希は自分以外の者を決して啓太に触れさせなかった。俺より和希の方がよっぽど神経質になってるよ、と啓太は思ったが、それには和希なりの理由があった。
 啓太の身体にはあの晩の痕跡がまだ至る処に残されていた。
 中嶋が言った様に啓太の肌は敏感だった。男と激しく揉み合ったため擦れて出来た赤い線の様な傷が、胸元を中心に無数についていた。両手首にもまだ赤黒い痣がはっきりとある。それを見れば、啓太に何が起こったかは誰でも一目瞭然だった。そんなことは和希には堪えられなかった。事件が起きた次の日、やむを得ず、篠宮に啓太を託したときも手首には包帯を巻き、パジャマの下に長袖のタートルネックのシャツを着せておいた。それでも不安で、和希は生徒会室から急いで駆け戻った。幸い、啓太は大人しく眠っていて篠宮は何も気づいてなかった。
(啓太、お前は必ず俺が護る……!)
 じっと和希は啓太を見つめた。おもむろに本を閉じる。
「退屈、啓太?」
「えっ!? そんなことないよ。和希の発音は綺麗だから話も聞き易いよ。まあ、たまに知らない単語があるけど、前後の感じから何となく意味もわかるから大丈夫だよ」
「啓太はヒアリングは得意だからな。単語力さえつけば、日常会話程度ならもう充分いけると思うよ」
「そうかな~、俺、文法とか苦手だよ?」
「要は慣れだよ、啓太、声に出して話していれば文法は自然についてくる」
「ふ~ん」
「でも、今は気が乗らない様だな。もしかして、あの晩のことを考えていた?」
「……うん」
 啓太は小さく頷いた。
「落ち着いて考えてみれば、あれは実害があった訳でもないし大袈裟に騒ぎ過ぎたのかなって。無理やりキスはされたけど、ほら、俺、転校初日にも成瀬さんにされてるし……」
「ああ、あれには俺も驚いたな。でも、成瀬さんには好意があっただろう? あいつには、そんなものは欠片もなかった。ただ、欲望のままに啓太を傷つけようとしたんだ。それを同列に話したら成瀬さんに失礼だよ、啓太」
「そう、だな。俺も本当に怖かったし……」
「だろう? あいつは屑以下だよ!」
 燻っていた怒りがまた込み上げてきて、和希は表情を硬くした。啓太がハッと和希の方を向いた。
「あっ、でも、まさかあの人を退学とかにはしてないよな、和希?」
「俺としてはそうしたかったけれど、啓太が反対すると思ったから停学一ヶ月で我慢した」
「良かった」
「全く……啓太は人が良過ぎるよ」
 そう言うと、和希はふわふわと頭を撫ぜた。啓太は小さく笑った。それから……遠慮がちな声で尋ねた。
「和希……中嶋さんは、あのときのこと……どう思ったかな……?」
「……気づいていたのか、啓太?」
「うん……最初に部屋に飛び込んで俺を助けてくれたのは中嶋さんだった。その後、直ぐに和希が来て俺を抱き締めてくれたんだ。俺、凄く怖かったから何も考えずにそれに縋って……中嶋さんに助けて貰ったのに何も言わなかった……」
 啓太は俯いた。すると、和希がピシャリと言った。
「その必要はない」
「えっ!?」
「啓太は気づいてないと思っていたから今まで黙っていたけれど、中嶋さんはあいつが啓太の部屋に入るのを見ていた。あいつが啓太に何をする気かわかっていて、ただ黙って見ていたんだ」
「……嘘……」
「本当だよ。俺が直接、本人に確認した。あいつは反生徒会連合の一人で、中嶋さんは彼らの尻尾を捕まえるために啓太を囮にしたんだ」
「嘘だ、そんなこと……」
 あの夜のことが脳裏に蘇り、背筋に悪寒が走った。啓太は、ぶるっと身を震わせた。和希の冷たい声が響く。
「だから、俺が言っただろう、啓太? 中嶋さんとでは釣り合わないって。あの人は啓太の純粋な心を平気で傷つけられるんだ。そんな人が啓太に相応しい相手のはずがない。少なくとも俺は絶対に認めない!」
「……っ……!」
 突然、啓太はベッドから足を下ろして立ち上がった。すかさず和希がその手を捉えた。
「どこへ行く気だ、啓太?」
「……中嶋さんの処」
「啓太!」
「だって、俺、信じられない! 中嶋さんが俺を囮にしたなんて、きっと和希の誤解だよ! でなければ、何か理由があったんだ! だから、直接、中嶋さんに訊いてくる! 離してよ、和希!」
 啓太はバッと和希を振り解いた。しかし、その瞬間――……
「……っ!!」
 鳩尾に鋭い痛みを感じた。温かい腕が優しく啓太を包み込む。遠のいてゆく意識の向こうで、微かに和希の声が聞こえた。
「ごめん、啓太……」
 気を失った啓太を和希はふわっと抱き上げた。少し前から部屋にいた石塚が音もなく傍に寄って来た。
「伊藤君は少々興奮している様ですね」
「ああ、無理もない」
「鎮静剤でも打ちますか?」
「いや、後でもう一度、俺が良く言って聞かせる。これは啓太の初めての恋だから……」
 和希は啓太をベッドに横たえると、額に軽く口づけた。そして、石塚に問う。
「学園の様子はどうだ?」
「良い状態とは言えません。誰もが覇気を失い、細かな諍いが後を絶ちません。生徒会長が仲裁に奔走しているので現時点では事なきを得ていますが、裏で副会長が強引に片をつける場合もあり、日増しに風当たりが強くなっています。また、生徒会と会計部の関係も非常に険悪で、既に一部の予算に支障が生じ始めています」
「啓太という曙光(ひかり)を失ったんだ。当然だろう。だが、放置しておく訳にもいかないな……石塚、丹羽君と西園寺君に業務改善通達を出せ。そして、二日後もまだ現状のままなら、与えた権限を総て剥奪しろ」
「わかりました」
 石塚は小さく頭を下げて寝室から出て行った。
 和希は枕元に腰を下ろし、啓太の髪を優しく指で梳いた。あの二人なら通達に秘められた意味を直ぐに悟るだろう。そんなことを言われて大人しくしているとは思わないが、これは彼らに対する罰でもあった。啓太が目を傷めた直接の原因は中嶋にあるが、遠因を作ったのは仕事をサボっていた丹羽とそれを知りつつも期限間際まで放置していた西園寺達にある、と和希は考えていた。元は一つの組織だったのだから会計部はもっと協力して然るべきで、善良な啓太がその巻き添えを食うなど絶対にあってはならないことだった。
(誰であろうと、お前を傷つけるものは決して許さない)
 仄暗い瞳の奥で、和希はそう呟いた。

「おい、郁ちゃん! 見たかよ、これ!」
 会計室にドカドカと入って来た丹羽は一枚の書類をテーブルに叩きつけた。西園寺は顔を顰めて丹羽を睨みつけた。
「馬鹿力で叩くな、丹羽」
「今はどうでも良いだろう! そんなことより何だよ、これは!」
「私達の処にも同じものが届いた。早急に現状を改善しなければ理事会が直接統治に乗り出す……ということだろう」
「ここは生徒の自主性を重んじるはずだろう! 確かに今はちょっとゴタついてるが、前にも似た様なことはあった。それがどうして急にこんな話になるんだ!」
 丹羽はくしゃくしゃと丸めた書類をゴミ箱に叩きつけた。不機嫌そうに眉を吊り上げた西園寺に、七条が宥める様にそっと紅茶を差し出した。
「理由は一つしかないだろう」
「ああ、啓太のことだな。それ以外に考えられねえ」
「啓太が目を傷めて今日で五日。そろそろ遠藤の……いや、理事長の理性の箍(たが)が外れてもおかしくはない。奴の啓太に対する執着は尋常ではないからな。啓太がこうなったのは私達に原因があるとでも考えたのだろう」
「確かに責任の一端は俺にもあるけどよ……」
 ガシガシと丹羽は頭を掻いた。七条が穏やかに口を挟んだ。
「これは少々やり過ぎですね。伊藤君にも連絡がつきませんし」
 西園寺が小さく頷いた。
「啓太が入院して以来、携帯はずっと電源が切られたままだ。啓太の性格からすれば一度くらいは電話を掛けてきそうなものだが、それもない。恐らく理事長に取り上げられたのだろう」
「……でしょうね」
「丹羽、中嶋はどうしている?」
「中嶋? ああ、いつもと変わらねえな……多分」
「多分?」
「ああ、普通に書類を作り、普通に刃向かう者を処断してる。煙草の本数は増えたが、啓太が来る前はいつもあのくらい吸ってたしな。元々口数も多くねえから今は静かだぜ……怖いくらいにな」
「どんなことがあっても、啓太は中嶋とだけは連絡を取ろうとするだろう。それもないとなると……」
 西園寺がゆっくり紅茶を口に含んだ。丹羽が低い声で呟いた。
「軟禁されてるな」
「ああ、目の見えない今の啓太ならば容易いことだ。その上、啓太は理事長の前では全く無防備になってしまう。恐らく啓太と理事長は過去に何か深い繋がりがあるのだろう。だから、本人にそうという自覚のないまま、囲っておくなど理事長には訳ないことだ」
「くそ理事長が……!」
 丹羽が苦虫を噛み潰した様な顔で唸った。
「どうします、郁? 伊藤君を救出に行きますか?」
「それは駄目だ。今、啓太は目を痛めている。しかも、篠宮から聞いた話では入院前には発熱もしていた。私としても甚だ不本意だが、啓太は現状のままで療養を続けるべきだろう。あと数日で治るはずだからな」
「だが、このまま、黙ってたんじゃ俺の腹の虫が治まらねえ。こいつは、きっちり倍返ししてやる!」
「ああ、それは良い考えですね。僕も協力しますよ、丹羽会長」
 七条の紫紺の瞳が怪しく光ったのを見て西園寺は短く嘆息した。
 この古くからの友人が今回の件を内心ではかなり立腹していると知っていた。こう見えて実は矜持(プライド)の高い七条は、他人から強権的に指図されるのが我慢ならなかった。理事会――和希――からの通達はその一線を大きく踏み越えていた。馬鹿なことをしたな、遠藤……
「臣、程々にな」
「はい、郁」
 上辺だけは穏やかに七条は微笑み返した。

 午後の陽射しが差し込む生徒会室で中嶋は煙草を銜えながら、一人静かに書類を読んでいた。時折、さらさらとペンを走らせて何かを書き込むと、処理済の山の上に置いてゆく。啓太のいない空間も、今やすっかり慣れてしまった。いや、この方が長かったのだから元に戻ったと言うべきだろう。中嶋は煙草を揉み消し、また新しいのに火を点けた。
(いかに能天気なあいつでも、あれだけ怖い思いをした後で自分が囮にされたと聞かされれば愛想を尽かすだろう……)
 窓の外に目を向ければ、季節は青い春から朱の夏へ移り変わっていた。
 しかし、中嶋の瞳には何の色彩(いろ)も映らなかった。視覚的な認識はあるが、心が何も感じない。この学園に入る前と同じ状態だった。いつの間に、世界はまたこんなにも色褪せてしまったのだろう。啓太がいたときの鮮やかさを覚えているだけに、それが酷く身に沁みた。あいつがいれば、もっと――……
 ふっ、と中嶋は自嘲した。自ら啓太が離れていく様に仕向けておきながら、今更、何を思うというのか。もう俺をかき乱すな、啓太……
 煙草を深く吸い込むと、中嶋は灰色の風景を眺めた。ふうっと細く煙を吐き出す。
(……これも厭きたな)
 中嶋自身さえ気づかない内に、退屈が徐々にその心を蝕み始めていた。



2008.5.2
和希は殆ど八つ当たりの域に入っています。
全く……ここまで出張っていると誰が主役かわかりません。
原因は中嶋さんの影が薄いから。
折り返し地点なのに、
未だに生徒会室から動かない……

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Café Grace
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