「準備は良いか、中嶋」
 植え込みの影からサーバー棟を見上げて丹羽は携帯電話で中嶋に話し掛けた。向こうから低い静かな声が聞こえる。
『ああ……気が乗らないがな』
 通達を受けた翌日、早速、丹羽と七条は和希へ意趣返しすることにした。
 丹羽は会計室で七条と詳細を打ち合わせると、まずは滞っていた仕事を全速で片づけた。それは身の回りを整理し、和希につけ入る隙を与えないためだった。二人の立てた作戦はこうだった。
 一、セキュリティ・システムに侵入し、サーバー棟の全ロックを解除する。
 二、すかさず丹羽が理事長室から和希お気に入りのクマのぬいぐるみを奪取。
 三、それを既に調べておいた啓太の入院している病室に届ける。
 一見、それは可愛い悪戯の様な計画だった。しかし、既に和希の性格を熟知している丹羽と七条は何かを破壊される物理的損害より、自慢のセキュリティ・システムに侵入される精神的痛手の方が堪えると読んでいた。和希は何でもそつなくこなすので、そういう感情には不慣れだろう、と……が、その実行に当たっては一つ大きな問題があった。
 和希が啓太と共に入院した日から、学園内のセキュリティが最高レベルにまで跳ね上がった。それは総てのシステムの設計者であり、最高責任者でもある和希の不在を用心して採られた特別措置だった。今のサーバー棟はまさに鉄壁の要塞。ハッカー並みの七条も、これではさすがに単独での侵入は難しかった。
『……もう一人……僕と同じか、それに近い腕を持った人がいれば可能なんですが……』
『……いるじゃねえか。そっちは俺に任せろ……』
 七条の言わんとするところを察した丹羽はすぐさま中嶋に七条との共同戦線を持ち掛けた。案の定、中嶋はそれを聞くと、氷の様な瞳で丹羽を睨みつけた。確かに二人は同族嫌悪も甚だしかった。しかし、互いの能力は密かに評価していた。その七条が一人では打ち破れないセキュリティ。それに中嶋が興味を引かれない訳がなかった。結局、いつもの様に中嶋も丹羽の立てた計画に一枚噛むことになった。
「よし! 俺達で、あいつの鼻を明かしてやろうぜ!」
 そう言うと、丹羽はパチンと携帯電話を閉じた。

「そろそろですね」
 七条は時計を見て呟いた。生徒会との合同作戦開始まで、あと三十秒。用意は総て整っていた。
(審判者気取りの今の理事長に、これ以上の屈辱はないでしょうね、きっと)
 クマのぬいぐるみを受け取った和希の顔が目に浮かび、七条は僅かに口の端を上げた。
 西園寺はいつもの肘掛け椅子に座って渋い顔で紅茶を飲んでいた。らしくない、と自分でも思うが、何か嫌な胸騒ぎがしてならなかった。
(何事もなく済めば良いが……)
 そして、いよいよ復讐の幕が上がった。
 生徒会室と会計室から、時間を同じくして中嶋と七条がハッキングを開始した。日頃、互いのデータを破壊し合っている二人は言葉を交わさずとも、相手の行動が手に取る様にわかった。完璧なタイミングで行われる補助と的確な攻撃。いかに強固なセキュリティとはいえ、そんな二人を相手に和希不在で勝ち目はなかった。
 十数分後、サーバー棟の鍵は総て解除された。丹羽はすぐさま最上階にある理事長室へ向かって階段を駆け上がり、廊下を爆走した。七条の話では警備システムを抑えていられるのは精々五分が限度だった。それを過ぎれば、サーバー棟は再び施錠されてしまう。その前に丹羽は総てを終わらせて脱出しなければならなかった。
 バンッッッ……!!!
 理事長室の分厚い扉を乱暴に開け、丹羽は中に踏み込んだ。正面に一枚板の重厚な机がある。その中央に、理事長代理として残していった和希お手製のクマのぬいぐるみが置いてあった。丹羽は大股でそれに近づくと、片手でヒョイと取り上げた。
「それじゃ、一緒に啓太の処へ行くとするか」
 丹羽は楽しそうに呟いた。
 学園広しといえど、最上階にある理事長室との往復を五分で出来る者は丹羽以外にいなかった。この計画は丹羽の運動能力と中嶋と七条のハッキングの腕が揃って初めて成功するものだった。難なく外へ出た丹羽は鼻歌混じりに、車寄せ(ポーチ)の端に予め停めておいたバイクに跨った。ヘルメットを被り、キーを差す。やがて初夏の空の下にエンジンの轟音が響き渡った。
 丹羽は啓太のいる病院へと走り出した。

 そこは学園島から三十分ほどの距離にある大きな総合病院だった。
 白いタイル張りの綺麗な入口を通って中に入ると、丹羽は軽く辺りを見回した。広いロビーは正面に会計窓口がずらりと並んでいた。右には入院相談窓口などがある。受付は左側、各診療科への案内表示板の横に設置されていた。丹羽は静かにそこへ近づくと、いつもより抑えた声量で尋ねた。
「すいません。知り合いが特別室に入院してるんですが、見舞いには行けますか?」
「申し訳ありません。特別室は一般の面会の方はお通し出来ません」
「う~ん、困ったな……」
 ガシガシと丹羽は頭を掻いた。一応、それなりの表情を浮かべる。まあ、予想はしてたけどな。
「なら、これを届けることだけでもお願い出来ませんか?」
 丹羽はクマのぬいぐるみをすっと差し出した。受付係は小さく頷き、それではこの書類にご記入をお願いします、と一枚の紙を手渡した。丹羽はその場で名前や住所を書いた。丁寧ではないが、大きく豪快な実に丹羽らしい字で。そして、それを返した。
「では、お見舞いの品はこちらでお預かり致します」
 彼女はクマのぬいぐるみと書類を受け取り、にこやかに微笑んだ。よし、と丹羽は拳を握り締めた。
(あいつの悔しがる顔が直に見れねえのは残念だが、これで少しは腹の虫も治まるってもんだ)
 丹羽は上機嫌で外へ向かった。一刻も早くこのことを中嶋や七条に知らせてやりたかった。ロビーでは携帯電話を使えるが、病院という場所柄、大声を出すのは憚られる。余計な気を使わなくて済む屋外の方が話し易かった。
 バイクの横に立ち、丹羽はポケットから携帯電話を取り出した。
(サーバー棟に突入する前に電源は切ったからな……今頃、やきもきしてんじゃねえか?)
 ピッと電源を入れた。すると、やはり着信履歴には七条の名前があった。そして、もう一つ――……
「郁ちゃん?」
 西園寺が丹羽に電話を掛けてくるのはとても珍しかった。今まで片手で数えるほどしかない。しかも、大抵の場合……怒っていた。またかよ、と頭を掻きながら、丹羽は西園寺の番号を押した。
「おう、郁ちゃん! 何かあったのか? こっちは巧くいったぜ。たった今、受付に頼んで――……」
『丹羽、直ぐに戻れ! 大変なことになった!』
「どうした!?」
『説明は後だ! とにかく、直ぐに戻って来い! 中嶋を止められるのはお前だけだ!』
「……!」
 西園寺の鋭い口調に丹羽の高揚した気分は一瞬で消し飛んでしまった。

 啓太はベッドで大人しく和希の声を聞いていた。
 中嶋が自分を囮にしたと聞いたときはつい感情的になってしまったが、何も見えない今の状態でどこに行けるというのだろう。馬鹿なことをした、と自分でも思った。一人で部屋を出るのは危険だと身を以って知っていたはずなのに。
(和希の言いつけを破ったから鍵を盗まれたんだ。あれは総て俺の自業自得だ……)
 そして、廊下で倒れたときに微かに感じた人の気配……もし、あれが中嶋だったとしたら、どんなに信じたくなくても和希の話は本当だと考えざるを得なかった。いや、そもそも、和希が自分に嘘をつくはずがないと啓太は信じていた。
(多分、まだ嫌われてない。あのとき、中嶋さんは俺を助けてくれたから。確かに怖かったけど……実害はなかった。中嶋さんがこんなことをしたのは、きっと俺が何も出来ないから……こんなことぐらいしか役に立たないから……だから……)
「啓太?」
 和希が顔を覗き込む気配を感じた。
「……」
 啓太はずっと暗い部屋に閉じ込められているので、もう日付の感覚を失っていた。和希に訊いても曖昧にはぐらかされてしまう。あれから何日くらい経ったのだろう。三日……それとも、五日か。相変わらず、和希は優しいけれど……でも、和希は……
 伏せた瞼から、すっと涙が零れた。
「……啓太……」
 今にも消えそうな曙光(ひかり)を和希は優しく抱き寄せた。
 余程、中嶋のことが衝撃(ショック)だったのか、あれ以来、啓太はすっかり塞ぎ込んでしまった。発熱して体力が落ちているにもかかわらず、殆ど食事も取らない。これでは治るものも治らないだろう。こんな思いをさせるつもりはなかった。俺は、ただお前を護りたかった。なのに、一体、どこで間違えてしまったんだろう……
 幾ら考えても、和希にその理由はわからなかった。



2008.5.23
漸く中嶋さんが動き始めました。
そして、和希の辞書に反省という言葉はありません。
啓太のためなら総てが正当化されます。
愛と執着はまさに紙一重~

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Café Grace
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