「……!」
 和希は小さく息を呑んだ。すると、啓太がまた呟いた。
「かず兄……大好き」
「どうしたんだ、啓太?」
 再会した啓太は滅多に和希をかず兄と呼ばなかった。もう啓太は昔の様な子供ではなく、二人はクラスメートでもあるので、ある意味、当然と言えば当然だった。しかし、和希にとって、かず兄という言葉は単なる呼称以上の重みがあった。それは何の繋がりもない二人の間に出来た初めての絆。啓太は人生に退屈していた和希に曙光(ひかり)を与えてくれた唯一の存在だった。だからこそ、総てを捧げて護りたいと思った……この手で。
 啓太に対する自分の執着が尋常でないことは、中嶋に指摘されるまでもなくわかっていた。それでも構わなかった。他人にどう思われようとも、啓太さえ傍にいてくれたら絶対に路を見失わない。これは漸く見つけた、俺の曙光(ひかり)だ。誰にも決して渡さない。その一念に凝り固まっていた和希の心に、啓太は不意に手を伸ばしてきた。
「うん、何か和希……辛そうだから」
「辛い? 俺が?」
「うん、自分で自分の首を締めてる。そんなことしても苦しいだけだよ。だから、俺がこうしてあげる」
 啓太は和希の背中をあやす様に軽く叩いた。すると、それまで極まっていた和希の気持ちが不思議なほど凪いできた。自然に身体から力が抜けてゆく。啓太がクスッと笑った。
「やっぱり和希と中嶋さんって似てるな」
「俺が!? どうして俺が――……」
 その先を和希はグッと呑み込んだ。たとえ、中嶋がどんな男であれ、啓太の想い人を啓太の前で蔑む様には言えなかった。代わりに心の中で叫ぶ。どうして俺があんな男と似ているんだ……!
「正確には今の和希じゃないよ。初めて逢った頃の和希かな。俺、小さかったからあまり覚えてないはずなんだけど、たまに思うんだ。中嶋さんの瞳、何か昔の和希と同じだなって。でも、俺といるときはそんなことないんだ。口ではどんなに冷たくても、瞳が違うって教えてくれる。まあ、そうじゃないときもあるけど……でも、前に中嶋さんが言ったんだ。俺といると退屈しないって。そのときの瞳はとても優しかった、和希の様に。多分、あれが中嶋さんの本当の瞳なんだと思う。ちょっと抽象的過ぎるよな。ごめん。もっと巧く説明出来なくて」
「いや……それで充分だよ」
 和希には啓太の言う意味が良くわかった。
 退屈は人を徐々に狂わせる毒であり、和希はその恐ろしさを充分過ぎるほど知っていた。あの頃の自分がそうだったから。瞳に映るのはいつも色褪せた世界で、心にあるのはただ一つのことばかり。新しい色彩(いろ)が欲しい。なら、どうしたら良いのだろう。いっそ総て壊してしまったら、今より少しはましになるだろうか……
(啓太に逢う前、俺はそんなことばかり考えていた。あの男も同じだったのか。だから、俺はあの男を認められなかった。啓太に出逢わなければ、なっていたかもしれない自分の姿を感じたから。なら、あの男も俺と同じく啓太を手放すことは出来ないはず。だが、あの男は自ら啓太を……)
 クッと和希の口唇に嘲笑が浮かんだ。成程……それで、今回の件を引き起こしたのか。馬鹿な男だ。その先に路はない。
「ねえ、啓太……中嶋さんと俺、どちらか選べって言われたら、どうする?」
「えっ!?」
 啓太は見えない目でじっと和希を凝視した。あまりの沈黙に啓太の心臓の音まで聞こえてくる気がする。少し意地悪な質問だったかな、と和希は思った。きっと啓太は選べない……
「ごめん、啓太、変なこと――……」
「どっちも選ばない」
 強引に啓太が口を挟んだ。和希は首を傾げた。
「なぜ、中嶋さんも選ばないんだ? 啓太は中嶋さんが好きなんだろう? 良いんだよ、正直に言って。これは、たとえ話なんだから。もし、俺に遠慮しているなら――……」
「違う。そうじゃない」
 また啓太が話に割り込んだ。なら、どういう意味、と和希は尋ねた。すると、啓太は言った。
「確かに俺は中嶋さんが好きだよ。愛してる。俺の身も心も総て中嶋さんのものだ。でも、それは和希に対しても同じだよ。俺は和希が好きだよ。愛してる。和希が望むなら、俺の身も心も総てあげる。俺はね、和希、今までに会った大勢の人達の中から既に二人を選んだんだ。最初に和希。次に中嶋さん。二人とも、他の誰よりも強く輝いてた。今でもね。だから、これ以上はもう俺は選ばない」
「……」
 生徒会室での中嶋の言葉が頭を過った。
『……あいつも、お前になら喜んで抱かれただろう……』
「わっ……!」
 突然、和希は啓太をベッドに押さえつけた。今は啓太の身を労わる余裕などなかった。ただ感情のままに啓太の上に伸し掛かり、先刻までとは明らかに違う低い大人の声で尋ねる。
「なら、なぜ、今まで泣いていたんだ? 好きな男がずっと傍にいたのに」
「……だって、和希は俺を望んではくれなかったから。愛してはくれたけど、望んではくれなかった。俺を愛して、望んでくれたのは中嶋さんだけだった……」
「なら、俺が望めば……啓太は俺に抱かれても良いのか?」
 答える代わりに啓太は小さく頷いた。
 今、啓太は薄いパジャマしか着ていなかった。和希がその手を少し動かせば、いとも簡単に脱がすことが出来る。啓太が幼い頃から、ずっと愛していた……兄の様に、恋人の様に。このまま、その白い柔肌に口づけて甘い吐息の零れる泡沫の夢に溺れるのも悪くない……
 ゆっくりと、静かに和希は啓太に顔を寄せていった。啓太は和希の吐息を感じて微笑み、自ら薄く口唇を開いた。
「……っ!!」
 その瞬間、和希は激しい畏怖に全身が凍りついた。
 啓太は曙光(ひかり)……天壌の煌きだった。その啓太に欲望のままに触れることは即ち、啓太に乱暴しようとした男と同じ行為を自分がするということだった。それは冒涜以外の何物でもない。和希は愕然とした。俺は……何ということを!
『……お前は何を勘違いしている? あいつは神でもなければ、聖人君子でもない……』
 中嶋の声が聞こえた。確かにその言葉は正しかった……が、和希の想いは啓太を待っている間にいつしか昇華してしまった。和希の中で、啓太は既に人ではなかった。たった指一本分の距離が、どうしても越えられない。なぜなら、俺にとって啓太は――……
 和希は苦しそうに口唇を噛んだ。そして……小さく囁いた。
「……啓太……俺が好き?」
 うん、と啓太は答えた。
「愛している?」
「うん、愛してるよ、和希」
「なら、俺に啓太の持っているものを一つだけくれる?」
「うん、良いよ」
「なら、啓太の名前を俺にくれる?」
「名前?」
 啓太はちょこんと首を傾げた。
「そう、伊藤という名前を。代わりに俺の鈴菱をあげるから」
「鈴菱……啓太?」
「そう……嫌?」
「ううん、良いよ。それが和希の望みなら」
「ああ、俺の望みはそれだけよ。ただ……それだけ。有難う、啓太」
 和希は目を閉じると、啓太の額に優しく口づけた。ふわりと啓太が微笑んだ。
「啓太……中嶋さんに逢いたい?」
「うん……」
「わかった。なら、俺が連れて行ってあげる」
「本当、和希?」
 微かな赤みが啓太の頬に差した。ああ、と和希は頷いた。
 啓太が中嶋を選んだ理由が漸くわかった。啓太にとって和希と中嶋は同じ存在だった。望めば、愛すれば、どちらの想いにも答えてくれる。しかし、かつて啓太に救われた和希と違い、中嶋は今なお退屈に侵され続けていた。だから、より強く、激しく啓太という曙光(ひかり)を望んだ。いや、望むことが出来た。
 確かに啓太は二人を等しく愛せる……が、愛せるのと愛することは違う。それを知っている和希と中嶋は恐らく啓太の愛を奪い合ってしまうだろう……啓太が壊れてしまうまで。だから、どちらかが手を離さなければならなかった。そして、和希は既に一度、その手を離してしまった……
(俺にとって最も重要なのは啓太を護ること。啓太が彼を選び、望み、愛するのなら……俺も彼という存在を受け入れよう)
 和希は啓太の身体をそっと起こし、乱れた癖のある髪を指で軽く梳いた。
「学園へ帰ろうか、啓太?」
「うん!」
 晴れやかな表情と伸びやかな声……そんな啓太を和希は久しぶりに見た気がした。



2008.6.27
とうとう中嶋さんが一度も出ませんでした。
しかし、大きな山は越えました。
これで漸く中啓らしくなるかな。

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Café Grace
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