和希は中嶋の部屋を静かにノックした。返事はないが、いることはわかっていたので構わずドアを開ける。中嶋は窓辺にもたれて、ぼんやり外を眺めていた。
「……馬鹿ですよ、貴方は」
 パタンとドアを閉めると、和希は言った。中嶋がゆっくりこちらを向いた。
「啓太を失った先に路がないことは最初からわかっていたはずです。貴方は気づいていた、俺達が本質的には同じ者だと。啓太は貴方を愛する様に、俺もまた愛することが出来ると。だから、俺に啓太を託そうとした。違いますか?」
「……」
「やはり馬鹿ですよ、貴方は……」
 和希は深いため息をついた。爆発しそうな感情を堪え、きつく拳を握り締める。
「誰を愛するかの選択は啓太の中で既に成されています。今更、それを反故に出来ると本気で思ったんですか? もし、そうだとしたら、貴方に啓太の愛を受ける資格はない! もう二度と啓太には近づかないで下さい! 啓太は俺が護ります! これから先も、ずっと!」
「……!?」
 中嶋は僅かに眉を上げた。和希の態度が変わってない。それは啓太を抱かなかったことを意味していた。なぜ……?
 和希は直ぐその疑問を見て取った。しかし、直接、それには答えなかった。
「貴方が啓太をどう捉えているのかはわかります。俺も同じですから。でも、啓太はまだ子供なんです。初めて恋をして、愛を知り始めたばかりの。どんなに聡い様に見えても、ときに子供は言葉で言わなければわからないことがある。貴方は啓太にきちんと伝えましたか、自分の想いを? 啓太は……案外、鈍感なんです」
「……」
 中嶋は小さく瞳を伏せた。
 それが出来れば苦労はなかった。愛とは、これまで中嶋が切り捨ててきた類の感情だった。一度でも口にすれば、もう自分は自分でなくなる。今更、そんなこと……
 和希は中嶋から片時も目を離さなかった。内心の葛藤がはっきりと見て取れる……が、啓太を奪った男にこれ以上、手を貸すつもりはなかった。だから、ここへ来た唯一、最大の要件をさっさと切り出す。
「啓太は、まだ目が見えません」
「……!」
「本来なら、もう治っても良い頃です。でも、治らない。あの晩から、啓太はずっと泣いています。俺では駄目なんです。俺では啓太の涙を止められない。啓太が一番傍にいて欲しいのは貴方だから。今、貴方を失えば、啓太は愛せることと愛することの違いを知るでしょう……堪え難い痛みと共に。でも、もし、そんなことになったら……俺は、絶対に貴方を許さない」
 低く静かな声の向こうに、和希の底知れぬ深い闇が広がっていた。本当に良く似ている、と中嶋は思った。なら、こいつもあいつを手放すことは出来ないだろう。なのに、なぜ……
「……後は自分で解決して下さい。そこまでする義理は俺にはない。今、啓太をここへ連れて来ます」
 和希は中嶋に背を向け、ノブに手を掛けた。すると、初めて中嶋が口を開いた。
「待て」
「……」
 動きを止めた和希は軽く視線を後ろへ流した。
「お前はそれで良いのか?」
 中嶋にはわかっていた。和希は誰よりも深く啓太を愛していた。自分がそれに劣るとは決して思わないが、揺れている今の状態ではその足元にも及ばないだろう。それでも、お前は俺にあいつを託すのか。本当に、お前はそれで良いのか……?
 そう問われて和希に苦痛の色彩(いろ)が浮かんだ。小さく小さく呟く。
「……貴方が少し羨ましいですよ、中嶋さん……まだ啓太を人として愛せる貴方が」
 そして、確固たる意思を漲らせて中嶋を振り返った。
「俺にとって最も重要なのは啓太を護ることです。啓太が貴方を選び、望み、愛するのなら、俺も貴方という存在を受け入れます」
「……そうか」
 中嶋は再び窓の外へ目を向けた。もう話すことは何もなかった。和希は無言で中嶋の部屋を後にした。

 サングラスを掛けたまま、啓太は自室のベッドに座って大人しく和希を待っていた。カーテンは閉まっていない。部屋には明るい光が満ちていた。
(中嶋さんに話って何だろう?)
 和希の声はいつもの様に落ち着いていた。しかし、学園で何か問題が起き、それに中嶋が深く関与しているのは確かだった。
(でも、きっと大丈夫。和希は中嶋さんに酷いことはしない。まあ、お説教ぐらいはするかもしれないけど)
 啓太は指先を合わせて順番にクルクルと回した。
 まだ瞼は重く腫れているが、気持ちは昨日までと違って遥かに軽くなっていた。漸く中嶋に逢える。声が聞ける。そう思うだけで、目の見えない暗闇に一人でも堪えていられた。それに、身体中に感じる温かい陽射しが何だか自分に活力を与えてくれる様な気がした。
「お待たせ、啓太」
 和希が戻って来た。啓太は嬉しそうに両手を差し出した。それを和希が跪いて取る。
「話は終わった、和希?」
「ああ、言うべきことは総て言った」
「中嶋さんを怒ったの?」
「少しね。中嶋さんは啓太を放っておいて随分、寂しい思いをさせたからな」
「それは俺のせいだよ……俺が何の役にも立たないから、だから……」
 しゅんと啓太は項垂れた。そんなことはないよ、と和希は返した。
「皆、啓太がいなくて大変だったんだから。後で王様に訊いてごらん。あの人が一番それを実感したと思うから。啓太が戻って来たと知ったら、多分、泣いて喜ぶよ」
 そうかな、と啓太は半信半疑で首を傾げた。クスッと和希は笑った。これで彼も少しは懲りただろう。
 啓太が目を痛めた遠因は丹羽にあると和希はまだ思っていた。しかし、啓太の入院で荒んだ学園の治安維持に最も尽力したのは丹羽だった。これで、まず一つ相殺。そして、サーバー棟に侵入してクマのぬいぐるみを持ち出し、和希の矜持(プライド)を傷つけた件は中嶋の暴走を食い止めた手柄で帳消しにすることにした。
 丹羽は何も言わなかったが、中嶋に解除コードを入力させられるのは丹羽以外に考えられなかった。まあ、それもこれも総て丹羽自身の蒔いた種だが、自分で収拾をつけたので不問に付すことにした。
 会計部も同様だった。
 七条が丹羽に手を貸し、それを西園寺が許したのは、その分だけ二人の矜持(プライド)が傷ついたから。同じ痛みを分かち合ったので今回は大目に見ることにした……が、啓太に巻き添えを食らわせた件がまだ残っていた。この罪を見過ごすことは絶対に出来ない。それは確実に贖われなければならなかった。
 痛み分けというのは、あくまでも和希に成された事柄への対応であり、啓太の件は全く別の話だった。
 西園寺達への罰は会計部の廃止と生徒会への再統合にしよう。恐らく彼らはそれが最も嫌なはずだから。丹羽との電話を切った直後、和希はそんなことを考えていた。しかし、二人は既に罪を償っていた。
 啓太が不在の間、西園寺達は毎日の様に部屋を訪れては軽く掃除をし、空気を入れ替えていた。そして、ベッドサイドに瑞々しい薔薇を生けた綺麗な硝子の一輪挿しを置いていった。自分の部屋に戻ってそれに気づいた啓太は大喜びし、西園寺達に深く感謝した。
 そんな啓太を見て漸く和希は二人を許してやることにした。
(後は中嶋さんが啓太との関係を修復すれば総てが元の鞘に収まる。いや、皆、それぞれ啓太の価値を思い知っただろう。雨降って地固まる、か)
 そのとき、各部屋に設置されているスピーカーから丹羽の大声が響き渡った。
『皆、良~く聞け! 明日、『第十一回ウキウキ鬼ごっこ大会』を開催する! 逃げる中嶋を、どんな手を使っても構わねえ。とにかく、捕まえろ! 見事、中嶋を捕らえた奴には優勝商品として、生徒会に何でも一つだけ言うことを聞かせられる権利をやる。部への昇格でも、予算UPでも、何でもOKだ! 参加希望者は明日の正午きっかりに講堂に集合だ。わかったな!』
「王様、またこんなことして……中嶋さんに怒られるだけなのに……」
 はあ、と啓太はため息をついた。和希はキュッと啓太の両手を握り締めた。
「まあ、それがあの人の長所でもあるんだから。元気を出して。ねっ、啓太?」
「うん……でも、また中嶋さんの機嫌が悪くなるんだろうな」
「中嶋さんはそのくらいが丁度良いんだよ。人間、退屈だと、ろくなことを考えないから」
「それってどういう意味?」
 コクンと啓太は首を傾げた。
「啓太はわからなくて良いの。それより、中嶋さんの部屋へ行こうか? 中嶋さんも待っているから」
「うん……あっ、和希はこれからどうするの?」
「俺はサーバー棟へ行くよ。暫く留守にしていたから少しやりたいこともあるしな」
「ごめん。俺のせいで……」
「啓太のせいではないよ。俺も良い休暇が取れたし、何より勉強にもなったから」
「……?」
 また啓太は首を捻った。ふっと和希の顔に影が差した。
 たかが生徒二人に破られるようでは、あのシステムはまだ不完全だった。確かに和希の不在という不利な条件下ではあったが、そんなことは言い訳にもならない。仕事は結果が総てだった。
(今度こそ、誰にも侵入出来ない鉄壁のシステムを作り上げてみせる。そして――……)
 和希は、じっと啓太を見つめた。純粋で穢れない天壌の煌き……漸く見つけた、俺の曙光(ひかり)……
(お前は必ず俺が護る。俺はあの男を受け入れはしたが、認めた訳ではない。あんな男に啓太は渡さない……絶対に!)
「和希……?」
「ああ、ごめん。行こうか、啓太?」
「うん……」
 啓太は和希の手に掴まって立ち上がった。一瞬、ふらっと身体がよろめく。
「啓太、やっぱり中嶋さんをここへ連れて来た方が……」
 すぐさま和希が心配そうに言った。しかし、啓太は僅かに首を振って、それを拒否した。グッと力の籠もった指先から、啓太の強い意思が伝わってくる。わかった、と和希は頷いた。
 まだ午後二時を少し過ぎたばかりで、寮内はしんと静まり返っていた。和希は啓太を中嶋の部屋の前まで連れて行くと、大丈夫か、と尋ねた。啓太は小さく頷き、ドアに掌を押し当てた
「もう行って、和希……俺は大丈夫だから」
「ああ、わかった」
 和希は啓太の髪に優しく口づけ、そして……去って行った。
 その足音が聞こえなくなるまで啓太は動かなかった。やがて辺りに再び静寂が満ちてきた。啓太は大きく深呼吸した。
 ……コン、コン、コン。
「中嶋さん……俺です」



2008.7.18
長らく中心に居座っていた和希が終に退場しました。
ああ、本当に長かった……
ところで、西園寺さん達は啓太の部屋の鍵を篠宮さんに借りたのかな。

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Café Grace
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