啓太はそっと室内に入ると、背中で寄り掛かる様にしてドアを閉めた。
「そこにいるんですか、中嶋さん?」
  漠然と啓太は呼び掛けた。部屋に中嶋の気配はするが、あまりに薄くて居場所が掴めなかった。あんなに自信に満ちた人だったのに、俺がいない間に何かあったのかな。
「中嶋さん、声を聞かせて下さい。でなければ、俺、わかりません……」
  すると、そう遠くない処で小さなため息の音がした。
「なぜ、戻って来た、啓太?」
「……!」
  それは約一週間振りに聞く中嶋の声だった。しかし、いつもより暗く淀んでいる。啓太は直ぐに中嶋の精神がかなり揺らいでいることに気がついた。やっぱり何かあったんだ……!
「なぜって……そんなの当たり前じゃないですか。俺は中嶋さんのものだからです」
「俺がお前に何をしたか、遠藤から聞いたはずだ」
「……はい、和希が教えてくれました……中嶋さんが俺を囮にしたって……」
「そうだ」
「嘘です」
  きっぱりと啓太は言った。
  自分が何も出来ないから……だから、中嶋は自分を囮にした。中嶋の声を聞くまで啓太自身もそう思い、ずっと自分を責めていた。しかし、ある意味、啓太は中嶋以上に中嶋のことを理解していた。中嶋は役にも立たない人間を利用して心を痛めたりはしない。ましてや……
「なら、どうして中嶋さんはそんなに苦しんでるんですか? そうすれば、俺が中嶋さんから離れてくと考えたからではないんですか? でも、今はそれを後悔してる……俺が好きだから」
  今まで沈んでいたのが嘘の様に啓太の口からその言葉が溢れ出した。ふっ、と中嶋が鼻で笑った。
「お前は自分を過大評価している。一体、その自信はどこから来た? いつものお前らしくないな」
「らしくないのは中嶋さんの方です。俺、中嶋さんのことは良くわかるんですよ。俺が好きだから……だから、あの晩、助けてくれたんでしょう? 中嶋さんが助けてくれなかったら、俺、本当にどうなってたかわかりません。あのときは言えなかったけど……有難うございました」
「寮内で犯罪を起こす訳にはいかない。ただそれだけだ」
  素っ気無く中嶋は言った。しかし、啓太は小さく首を振った。
「あの日、俺が部屋から出たのは偶然でした。それを中嶋さんに予測出来るはずがありません。だから、中嶋さんは初めから俺を利用する気はなかった。ずっと俺を護ってくれてたんでしょう、MVP戦のときの様に? 確かに中嶋さんは俺が鍵を盗まれるのを見てました。でも、あのときは俺の傍から離れる訳にはいかなかった。昼とはいえ、いつ誰が俺の部屋に侵入するかわかりませんから」
「そんなことはない。篠宮を呼べば済む話だ」
「でも、中嶋さんはそうしなかった。俺が心配だったからでしょう? だから、自分の目で見張りたかった。俺を傷つけたくないから。俺が好きだから」
「それなら、俺は奴がお前の部屋に入る前に止めたはずだ」
「……そうですね。だから、あの人が再び現れるのを待ってる間に思いついたんです。これを利用して、俺が自分の意思で中嶋さんから離れる様に仕向けることを。どうしてそんなことを考えたんですか?」
「……」
「中嶋さん!」
「……」
  中嶋は何も答えなかった。その沈黙が啓太の推測が総て正しいことを裏付けていた。啓太はグッと掌を握り締めた。俺はこんな押し問答をするためにここへ来たんじゃない!
  勇気を振り絞って、啓太は足を前に踏み出した。
「どうしてそんな、こ、と――……」
  しかし、その声は直ぐに途切れた。
  ドアから背中が離れた途端、足元が覚束なくなった。中嶋に利用されたという思い込みによるストレスから、啓太は頻繁に眩暈を起こすようになってしまった。特に身体を急に動かすと、上下左右がふわふわ揺れたり、ぐるぐる回っている気がする。啓太は小さな呻き声を上げてパタンと床に倒れた。
  中嶋はただ黙ってそれを見ていた。
(なぜ、遠藤の元に行かなかった? 時折、お前が俺と遠藤を同一視していることには気づいていた。確かに俺達は良く似ている。なら、想いを告げる言葉一つ満足に持たない俺より、遠藤といた方がお前は幸せになれる。そう考えたから、俺は……)
  いや、違う。中嶋は直ぐにそれを打ち消した。今更、綺麗ごとを並べても仕方がない。認めよう。俺は……逃げ出した。お前と生きる歓びがあまりに大き過ぎたから。お前を失うのが怖かったから、俺はその苦しみに堪えられなくなった。俺も遠藤の様に、いつかお前を人として見られなくなるかもしれない。そのとき、俺はどうしたら良い? 一人で生きてゆくのか? 俺は、それほど強くない。なら、お前の想いが固まる前に手放してしまおうと……
「……もう、やだ」
  啓太が呟いた。
「暗いのは、もう嫌なんです。本当なら治ってる頃なのに……全部、中嶋さんのせいです! 中嶋さんが俺を泣かすから! 中嶋さんが望み、愛してくれたから、俺はここにいるのに! なのに、今更、俺を放り出すんですか! だったら、あの晩、俺を助けなければ良かったんです! そうしたら、俺、ここには来なかった! 何も考えず、中嶋さんの計画通り和希の元へ行けた!」
「……」
「一体、中嶋さんは俺をどうしたいんですか? 俺は、今でも中嶋さんが好きです。愛してます。俺の身も心も総て中嶋さんのものです。だって、中嶋さんは俺を望んでくれたから……中嶋さんだけが俺を望み、愛してくれたからっ……!」
  啓太は見えない瞳で真っ直ぐ中嶋を捉えた。しかし、中嶋はすっと目を逸らした。
(俺だけではない。お前を望み、愛する者は他にも大勢いる。ただお前が気づいてないだけだ。もう俺をかき乱すな、啓太……)
  中嶋の返事がないので、終にサングラスの下からポロポロと大粒の涙が零れ始めた。
  和希に望まれないとわかったときも悲しかった……が、ここまで胸は痛まなかった。その違いが何か、今の啓太にはまだ良くわからない。ただ、この機を逃せば永久に中嶋を失ってしまう気がした。
  それは……とても怖かった。
「どうして……和希以外で、俺に光を見せてくれたのは、中嶋さんだけだったのに……」
「……?」
  おかしなことを言う、と中嶋は思った。闇に棲む中嶋にとっては啓太こそが曙光(ひかり)だった。いや、誰にとっても啓太はそうだろう。そんなお前に、なぜ、俺が光を見せられる……?
  そのとき、ふと生徒会室での会話が頭に浮かんだ。
『……俺達はこれでバランスが取れてるんだ……』
『……中嶋がいなかったら、今頃、お前はここにはいない……』
(もしかして、お前……!)
  中嶋は啓太を凝視した。
  確かに啓太の周囲には光が満ちていた。しかし、陽の中で陽がわからない様に曙光(ひかり)である啓太には対極にある闇しか、闇に棲む者しか見えないのではないか。昔も……そして、今も。
(だから、俺と遠藤を選んだのか? 俺達は同じ闇を抱え、曙光(ひかり)を求めていた。だが、遠藤はお前を望まなかった。いや、望めなかった。俺だけが、お前を望んだ……)
「傍にいて下さい、中嶋さん……俺の傍に……」
  啓太は中嶋に向かって右手を伸ばした。その指先が虚しく宙を切る度に涙が頬を伝い、曙光(ひかり)が揺らぐ……
『……貴方を失えば、啓太は愛せることと愛することの違いを知るでしょう……堪え難い痛みと共に……』
  和希が言った。続いて、丹羽の声が聞こえる。
『……そんなふうに傍観者面してるから退屈なんじゃねえか……』
(……俺は今まで丹羽以外の誰とも真剣に向き合ってこなかった。だから、心の触れ合いがこんなにも安らぎと痛みに満ちているとは知らなかった。そのツケを、今、払わされているのか)
  光と闇は、謂わばコインの表と裏。どちらが欠けても、その存在は成立しない。中嶋は自分が滅ぶのは怖くなかった。生にそこまでの執着はない……が、共に滅する存在としては啓太はあまりに惜しかった。
(なら、俺に選べる路は一つしかない。だが、それは同時にお前の選択肢をも奪ってしまうことになる。お前はそれで良いのか?)
  すると、また和希の言葉が頭を過った。
『……誰を愛するかの選択は啓太の中で既に成されています……』
(……そうか。なら、お前にそれを気づかせるのは……俺の役目だ)
  中嶋は啓太に歩み寄ると、宙に投げ出されている啓太の手をグッと掴んだ。力強く引っ張り上げる。しかし、きちんと食事を取っていなかったのか、啓太は以前より軽くなっていた。勢い余った啓太はよろめき、再び前に倒れそうになった……が、中嶋がそれを受け止めた。
「……っ……!」
  久しぶりに触れた中嶋の身体に啓太の心臓がトクンと音を立てた。
  右手はまだ中嶋にしっかりと掴まれているので、啓太は空いている左の掌を恐る恐る中嶋の胸に押し当てた。中嶋が逃げないとわかると、もう少し大胆になってみる。顔の方へ指を伸ばす。
「……!」
  首筋に触れた。啓太の方が体温が高いので、相変わらず、少し冷たく感じる肌。中嶋が手を離したので両方の指先でトコトコと歩く様に這い上がって行くと、顎の線から頬に出た。そして、更に進むと……眼鏡の硬いフレームに突き当たった。
「……中嶋さんだ……」
  啓太が嬉しそうに言った。
「ああ、他に誰がいる?」
「……ずっと……逢いたかった……」
「そうか」
「声を……聞きたかった……」
「そうか」
「……」
  ふわりと啓太は微笑んだ。中嶋が囁いた。
「言いたいことはそれだけか?」
  はい、と啓太は頷いた。
(中嶋さんは、まだ俺の傍にいてくれる。まだ俺を望み、愛してくれる。そのことがわかったから……)
「なら、今度は俺の番だな」
「えっ!?」
  啓太は盲(めし)いた目で中嶋を見つめた。中嶋さんが俺に言いたいことって何だろう。啓太は不安と緊張で息を凝らして、ただ中嶋の声を待った。中嶋は静かに口を開いた。
「俺は、人生とは自らの価値観を貫くことに意義があると思っている。だから、それを揺るがすことは決してしない。いや、恐れていると言っても良いかもしれない」
「恐れて……中嶋さんにも怖いものがあるんですね」
(だから、中嶋さんは俺を遠ざけようとしたんだ。俺の存在が中嶋さんの価値観を脅かすから)
「ああ……だが、それは間違っていた。先の不安を恐れるあまり、今を見失っては元も子もない。先刻、お前は俺がお前に光を見せると言ったな。それは俺も同じだ。俺の瞳はお前の曙光(ひかり)によってのみ輝く」
  それは実に遠まわしな表現だが、初めて聞く中嶋からの告白だった。啓太は胸が一杯になった。
「嬉しいです、俺……中嶋さんが、そんなこと言ってくれるなんて……!」
「……そうか」
  中嶋は穏やかに微笑んだ。
「だから、俺の歓びと悩みの総てを籠めて、この瞳と心をお前に捧げよう。愛している、啓太」
「……?」
  一瞬、啓太は言葉が理解出来なかった。
(今……何て言ったんですか、中嶋さん? 愛、して……る……? 俺の聞き間違いかな。中嶋さんがそんなこと言う訳がない……)
  すると、中嶋が短く嘆息した。
「もう一回しか言わないからな……愛している、啓太」
「……っ!!」
  啓太の意識を雷に打たれた様な衝撃(ショック)が走った。膝から力が抜け、ガクッと崩れそうになる身体をしっかりと中嶋が抱き寄せる。啓太は小刻みに震える指でサングラスを外そうとした。まだ両瞼とも大きく腫れ上がっているので自力で動かすことは出来ないが、どうしても中嶋の顔が見たかった。これさえなければ……!
  しかし、その手を中嶋が止めた。
「取るな。目に障る」
「でも、中嶋さんの顔が見たいんです! どうしても見たいんです!」
「駄目だ」
「……っ……何で……何で今、俺の目は見えないんだろう! 何で……!」
  再び啓太の目から涙が溢れた。こんなに嬉しいのに、こんなに悔しい。どうして……どうして……!
  啓太は中嶋の胸にしがみつき、泣いた。
「もう泣くな。益々治りが遅くなる」
  中嶋が窘める様に言ったが、啓太は首を振った。
「……良いんです……今、見えなければ……意味がないから……」
「仕方のない奴だ。なら、目が治ったら……また言ってやる」
「本当ですか……?」
  啓太が顔を上げた。
「ああ……だから、今は俺の声だけ聞いていろ」
「なら、もっと一杯、話して下さい。俺を中嶋さんの声で満たして下さい」
  ああ、と中嶋は答えると、啓太をベッドに座らせた。その隣に自分も腰を下ろし、優しく手を取る。
「何から話せば良い?」
「じゃあ、まず最初に今日まで中嶋さんは何をやってたんですか?」
「いつもと同じだ。溜まっている仕事を片づけていた」
「もう! それじゃ会話になりませんよ」
  啓太は少し膨れっ面をした。しかし、急に何かを思い出したのか、そうだ、と呟いた。
「中嶋さん、先刻の王様の放送を聞きましたか? あれはどういうことなんですか? どうして中嶋さんが追い掛けられることになったんですか?」
「ああ、あれか……まあ、話してやっても良いが……長いぞ」
「丁度良いじゃないですか」
  にっこりと啓太は笑った。中嶋は小さな微笑を浮かべると、静かに語り始めた。

  その日、啓太が眠るまで中嶋の声は途切れることがなかった。お陰で、今まで以上にはっきりと啓太には中嶋が見える様になった。きっと、もう直ぐこの目も治るだろう。そうしたら、もう一度、自分の瞳を見て先刻の言葉を言って貰おう。中嶋さんのは他の誰とも……和希とも違う気がするから。恍惚とした時間の中で、啓太はずっとそんなことを考えていた。
  どんなに足掻いても決して胸を憩わせぬ想い……それが、愛。


2008.7.25
終に中嶋さんが告白しました。
あの言葉を言うのに何と時間の掛かったことか……
この後、中嶋さんは延々と話し続けます。
ただそれだけ……お触りなし……

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Café Grace
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