Side of 七条

 まさに膠着状態だった。
 七条が会計室のドアをノックをしようとした瞬間、それがさっと開き、西園寺と打ち合わせを済ませた中嶋と鉢合わせてしまった。二人は敷居を挟んで丁度、内と外に立っていた。七条の顔から、いつもの微笑が消えた。本来は自分が脇へ退くべきなのだろうが、中嶋相手に譲る気は毛頭なかった。七条は無言で相手を睥睨した。中嶋も売られた喧嘩とばかりに一歩も動かない。全く以って不本意ですが、またもや冷戦突入ですか。七条がそう覚悟したとき――……
「臣、早く中嶋を出せ。寒い」
 その緊張を西園寺が破った。
「……!」
 いかに自分の分が悪いとはいえ、西園寺が中嶋の肩を持ったのは衝撃(ショック)だった。しかし、西園寺を寒がらせる訳にはいかない。七条は煮え湯を飲む思いで、ほんの一歩……僅かに後ろへ下がった。すると、中嶋の口元が嘲笑とも冷笑とも取れる形に歪んだ。七条はギリッと奥歯を噛み締めた。そして、悠然と歩き去る中嶋の背を射殺す様な目で睨みつけた。

Side of 海野

「七条君、いる?」
 会計室へ入って来た海野は開口一番、そう言った。
「おや、海野先生、トノサマ、こんにちは。どうしたんですか?」
 パソコンに向き合っていた七条は穏やかな微笑を浮かべて振り返った。
「うん、またプログラムのことなんだけど……」
 海野はトノサマを撫ぜながら、もごもごと話し始めた。
 七条が新しいセキュリティ・プログラムを作ってくれたのは良いが、海野は今一つそれを巧く使いこなせなかった。そのため何か問題が起こる度に、七条の元を訪れては色々と質問をしていた。トノサマはつまらなそうに尻尾を振っている。
「ああ、それはエラーでも何でもありませんよ。そうなってしまったらですね……」
「ふ~ん、成程ね。あっ、でも、この前はさ……」
 熱心に説明を聞く海野の腕の中で、トノサマが低く唸った。海野は話をやめると、トノサマに視線を落とした。
「暇なの、トノサマ?」
「海野先生、話が少し長くなりそうですから、暫くトノサマを遊びに行かせてはどうですか?」
「そうだね」
 海野は優しくトノサマを下ろした。すると、七条がドアを開けてトノサマに言った。
「今日は離れの方に行ってみてはどうですか? あそこは生徒もあまりいませんから、思い切り走り回れると思いますよ。それに……もしかしたら、遊び相手もいるかもしれません」
 そうだなと言う様にトノサマは短く鳴いて元気良くそこから走り去った。

Side of 丹羽

 中嶋に散々脅されながらも漸く総ての仕事を片づけた丹羽は久しぶりに自由を満喫していた。
 春から初夏に掛けてのこの時期は離れのテラスが最良の場を提供してくれた。前面を硝子で覆われたそこは陽当たりも良くて温室並みにポカポカしているが、生徒は誰もいない。ここには白いテーブルや椅子が何個か置いてあるだけで自動販売機も何もないので、大抵の者は飲食の出来る学食かラウンジの方へ行った。そのため丹羽はテーブルに上体を投げ出して心ゆくまで一人静かに昼寝を満喫していた……が、不意にただならぬ気配を察知した。
「てめえら、また性懲りもなく――……」
 素早く身を起こした丹羽の言葉は、しかし、途中で霧散してしまった。頬に触れる、ふさふさした毛の感触。スタッとテーブルに着地するしなやかな足。円らな瞳のトノサマが丹羽を見上げて愛想の良い声で一鳴きした。
「ぶにゃ~ん」
「どわわわっっっ……!!!」
 断末魔の様な悲鳴が上がった。そこで、丹羽の理性はプツリと途絶えてしまった。

Side of 啓太

 啓太は綺麗に洗った灰皿を拭きながら、満足そうに生徒会室を見回した。書類のない机を見るのは初めてだった。ここ数日、中嶋が鬼の様に丹羽をこき使い、大量に溜まっていた仕事を総て片づけさせた。そのため丹羽は哀れなほど消耗したが、本来はこうあるべきだと言って中嶋は同情の欠片さえ示さなかった。
(まあ、それはそうなんだけど……あっ、これもだ)
 何となく手持ち無沙汰で掃除を始めた啓太は、普段は書類に埋もれて見えなかった机の幾つかが酷く痛んでいることに気がついた。西園寺がまだ会計部を独立させる前、丹羽と派手に衝突したときの名残らしい。啓太はその様子を想像して背筋が寒くなった。
(この傷を見るだけでも、そのときの凄まじさがわかるな。あのソファーもまだ新しいのに、結構、痛んでるし……)
 啓太は右端に置いてあるソファーを見やった。
 それも修羅場を掻い潜ってきた代物らしく、肘掛の部分がグラグラしていた。しかし、買い換えようにも既に予算は組んでしまったので今から訂正は出来ない。強引にそんなことをすれば、会計部と揉めるのは目に見えていた。
(やっぱり暫くはこのままかな)
 はあ、と啓太はため息をついた。そのとき、ドアが勢い良くバンッと開いた。
「うわあああっっっ……!!!」
「王様っ!?」
 啓太が振り返った途端、丹羽は啓太に向かって突進して来た――……
「わっ!!」
 まるでトラックにでも撥ねられたかの様に啓太の身体は宙を舞った。白い天上が見える。ああ、蛍光灯も換えないと。それが、啓太が最後に思ったことだった。

Side of 中嶋

 一瞬、中嶋は我が目を疑った。
 会計室で七条の仮面を引き剥がして上機嫌で生徒会室へ戻って来たが、ドアを開けたそこは惨憺たる有様だった。足の折れた机がひっくり返り、ファイルと筆記具が床に散乱している。シュレッダーは倒れた拍子に裁断した紙片を豪快にぶちまけて廊下から吹き込む風がそれをカサカサと弄んでいた。そして、極めつけは片方の肘掛が取れたソファーの上で、啓太が丹羽と縺れ合う様にして伸びていた。
 大方の理由は直ぐに察しがついた。トノサマと遭遇し、半狂乱になった丹羽が駆け込んで来たのだろう。それは面白い光景だったに違いない……が、啓太が自分以外の男に押し倒されているこの状況は至極、不愉快だった。
 中嶋は冷たく目を眇めた。
「起きろ、丹羽」
 ピクッと丹羽が反応した。頭を押さえながら、身体を起こす。
「……うっ……あ、あれは……?」
「もういない。さっさとそこを退け」
「あ、ああ……あれ、啓太!?」
 丹羽は自分が啓太を組み敷いていることに漸く気がついた。啓太は丹羽が衝突した衝撃(ショック)に加え、伸し掛かる丹羽の体重に耐えかねて気を失っていた。丹羽は慌てて飛び退くと、啓太の頬をペシペシと叩いた。
「お、おい、啓太……!」
「……っ……!」
 啓太は痛そうに顔を顰め、ぼんやりと目を開けた。
「おい、しっかりしろ!」
「……」
 ゆっくり瞬きをする。まだ意識が朦朧としていた。
「大丈夫か、啓太?」
「……」
 無言で啓太は丹羽を見上げた。まるで知らない人を眺める様なその瞳に丹羽は微かな不安を覚えた。
「啓太?」
「問題ない。こいつの寝起きの悪さは筋金入りだ」
「あ……中嶋、さん……」
 中嶋の姿を認めて、ふわっと啓太は微笑んだ。丹羽は漸く胸を撫で下ろすと、ばつが悪そうにガシガシと頭を掻いた。
「悪かったな、啓太」
「俺なら大丈夫です。でも……」
 啓太は凄惨な室内を見回した。丹羽もその視線を追う。
「色々壊れましたね。このソファーも、あの机も……」
「悪い……」
「……片づけましょう、王様」
 元気良く啓太は立ち上がった。おう、と丹羽が唸った。すると、中嶋が他人事の様に言った。
「なら、さっさと始めろ」
「えっ!? 手伝ってくれないんですか、中嶋さん?」
「そうだ、中嶋、お前も手伝え」
「俺には別の仕事が出来た。壊れた机やソファーを買い換えなければならないからな。その予算を組む必要がある」
「でも、今からそんなことしたら……」
 啓太が言い淀んだその先を丹羽がはっきりと口にした。
「また郁ちゃんに怒られるだろう!」
「それは俺の知ったことではない。お前がやったことだ。お前が責任を取れ……だが、今から訂正となれば、奴は今夜は寮へ帰れないな。理事会への提出期限は明日だからな」
 中嶋は冷酷に口唇を歪めた。西園寺に徹夜をさせる訳にはいかないと、一人で書類の作成や確認作業に追われる七条の姿が目に浮かび、喉の奥が低く鳴った。明日は会計室に労いの言葉を掛けに行ってやろう、と思う。奴がどんな顔をしているか、とても楽しみだ……
「……」
 啓太は密かにため息をついた。中嶋は七条への嫌がらせの機会を絶対に見逃さない。こういうときの中嶋に何を言っても無駄だと啓太は良く知っていた。
(同族嫌悪もここまでくるとな……でも、王様以外で中嶋さんが本気で張り合うんだから、ある意味、七条さんを認めてるってことだよな。それって凄いかも)
 中嶋が自分と対等に置いているのは、啓太の見るところ、丹羽だけだった。中嶋をその気にさせるには能力的なものだけでは足りない。西園寺や理事長である和希でさえ、その範疇には入らなかった。しかし、時折、七条はそこまで這い上がろうとした。恐らく中嶋はそれが許せないのだろう。だから、執拗に七条を蹴り落とす。完膚なきまでに叩き潰そうとする。
(……良いな……)
 考えていて、ふと啓太は七条が羨ましくなった。俺なんて、いつも中嶋さんに振り回されてばかりなのに……
「啓太、ぼ~っとしてると夕食までに片づかねえぞ」
 壊れた机を廊下に出しながら、丹羽が言った。
「あっ、すいません、王様」
 啓太は余計な思いを頭から振り払うと、落ちていたファイルを拾い始めた。
(あれ?)
 キョロキョロと啓太は辺りを見回した。
 派手に物が散乱しているが、壊れたのは机が二つとソファーだけだった。それも、先刻、買い換えたいと思ったものばかり。これも運が良いって言うのかな。クスッと啓太は笑った。
「……」
 中嶋が訝しげに眉を吊り上げた。今日は大した仕事がなかったので、啓太は一人、ここを掃除していた。幾ら啓太がお人好しでも、二度も同じ場所を掃除する羽目になって楽しいはずがなかった。なら、なぜ、笑う……?
 一旦、疑念を抱くと、それまで何ともなかったことがある種の深い意味を秘めている様に思えた。
(……丹羽と一緒だからか?)
 密かに啓太の様子を窺う。
「あっ、王様、適当にしまったら駄目ですよ。この際、この辺りをきちんと整理しましょう。そうすれば、もっとスペースが広くなって作業し易くなりますよ」
 ねっ、と啓太が明るく丹羽を見上げた。
「う~ん、啓太に言われたら嫌とは言えねえな」
 丹羽は困った様な微笑を浮かべた。また啓太が笑った。その瞬間、中嶋は声を発していた。
「啓太」
「何ですか、中嶋さん?」
 呼ばれて啓太は中嶋の元へ駆け寄った。中嶋は机から小さな箱を取り出すと、啓太に差し出した。
「これは……?」
「お前も生徒会の正式な役員だからな。今後は名刺くらい必要だろう」
「有難うございます、中嶋さん」
 啓太は嬉しそうにそれを胸に抱き締めた。微かに中嶋の表情が柔らかくなる……が、そのとき――……
「啓太、ちょっとゴミ捨てに行ってくるぜ」
「あっ、王様、ゴミなら俺が……」
 慌てて啓太が振り返った。
「良いって。本を正せば俺がやったことだしな」
 丹羽は紙屑の入った袋を肩に担ぎ、大股で生徒会室から出て行った。啓太の瞳に柔らかな色彩(いろ)が浮かんだ。その瞬間、中嶋は短く舌打ちした。冷たい手で啓太の顎を捉えると、無理やり自分の方を向かせる。
(なぜ、そんな瞳で丹羽を見る?)
 中嶋はじっと啓太を凝視した。
 時折、啓太の思考は中嶋の理解を越えていた。中嶋には、啓太の様に物事を捉えることは永遠に出来ないだろう。それは、それで構わなかった。単一の理念型で把握出来るほど単純な世界ではないから面白い。だから、啓太と同じ景色を見たいとは思わなかった。しかし、啓太が中嶋にはわからない心の機微を示すと苛々した。一挙手一投足が気になって仕方がない。啓太に逢うまで、そんな感情は知らなかった。これは何と呼ぶのだろう。執着……いや、違う……
「……」
 無意識に中嶋は啓太の口唇を何度も指でなぞっていた。
「……中嶋、さん……」
 堪え切れなくなった啓太が少し上擦った声で恋人を求めた。考えを中断され、中嶋は短く嘆息した。
「お前はTPOという言葉を知らないのか?」
「そんなことないです……けど……」
 好きな人に穴の開くほど見つめられ、意味ありげに触れられて気持ちを昂らせるなと言う方が無理があるだろう。啓太は何かを強請る様に中嶋を待った。しかし、中嶋は言葉で啓太を突き放した。
「……なら、早くここを片づけろ」
 手を離し、冷たく口の端を上げる。
「そうしたら、たっぷりと可愛がってやる」
「……はい」
 啓太は寂しく俯いた。そして、何となく目に留まった丹羽の生徒会長印を拾い上げ、中嶋の傍を離れようとして――……
「あっ……!」
 強引に身体を抱き寄せられた。浅く深く口唇を奪われる。望んでいた甘い感触に啓太の指から自然と力が抜けた。
 ……コツン。
 印鑑が落ちた。
 その音を聞いて中嶋は密かに苦笑した。全く……今日の俺はどうかしている。丹羽とのあんな光景を目の当たりにしたせいか、どうにも胸が落ち着かない……啓太、今夜は特に念入りに俺を刻み込んでやる。お前の心と身体の総てに……
「今はこれで我慢しろ」
 それは啓太に告げたのか、自身に向けた言葉なのか。言った本人にさえわからなかった。皮肉な微笑を浮かべる中嶋の腕の中で、啓太は恍惚と頷いた。

 啓太の甘やかな声がベッドから聞こえたのは、それから数時間後のことだった。



2008.5.16
日頃、啓太を振り回す中嶋さんですが、
実は啓太の方が無意識に中嶋さんを翻弄しています。
二人の関係はエスプレッソではなくカプチーノ。
踊らされるのは果たしてどちら?

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Café Grace
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