淳様へ、9999Hの幸運を祝して


恍惚

30 August 2008   Dedicated to J


 ふて腐れた顔でサーバー棟へ向かっていた啓太は、小道の外れで大柄な男がガシガシと頭を掻いているのにふと気がついた。
「あの……王様のお父さんじゃありませんか?」
「うん?」
 男が振り返った。
 啓太と丹羽の父・竜也は理事長室で何度か顔を合わせたことがあった。竜也は丹羽と良く似た外見と性格だが、時折、見せる眼光の鋭さは丹羽以上のものがあった。そんな大の男が啓太を見つけて子供の様に破顔した。
「良かった。やっと人に会えた。誰も通らないから、どうしようかと思ってたんだよ」
「そうですね。ここじゃあ……」
 クスッと啓太は笑った。サーバー棟は生徒の立ち入りが禁止されているので、この辺りは特に閑散としていた。こんな処を通るのは啓太か丹羽を探しに来た中嶋くらいだろう。そう思って、啓太は顔を曇らせた。
 また思い出してしまった。
「どうかしたのかい?」
「あっ、いえ、何でもありません。それより、どうしたんですか? 和希ならサーバー棟ですけど。いないんですか?」
「いや、鈴菱の坊ちゃんにはもう会ってきた。そうしたら、思わぬ手土産を貰ってね。ほら」
 竜也は手にした風呂敷包みを軽く上げて見せた。どこか見覚えのある、細長いシルエットに啓太はコクンと首を傾げた。
「日本酒だよ。鈴菱酒造の純米吟醸酒『鈴の音』……知ってるだろう? 家で一人で飲んでも味気ないから、あいつのとこに寄ろうと思ったんだが、サーバー棟以外は行ったことがないから場所がわからなくて困ってたんだ」
「あの……学園の者以外は寮に入れないんですけど……」
「だが、生徒会室なら大丈夫だろう? 悪いが、そこへ案内してくれないかな、伊藤君」
「……生徒会室……」
 啓太の表情が沈んだ。中嶋に腹を立てて飛び出して来た手前、あそこへは戻りたくなかった。しかし、丹羽に会いたいと言う竜也の頼みを無下に断ることも出来ない。
(今頃、中嶋さんは王様を探しに行ってるよな……多分。取り敢えず、案内だけすれば良いか)
「わかりました。こっちです」
 そう言うと、啓太は竜也の先に立って歩き始めた。

「……失礼します」
 少しドキドキしながら、啓太は生徒会室のドアを開けた。
「おや、誰もいない」
「あっ、王様なら直ぐ戻ると思います。それまで、ここで待ってて下さい」
 啓太はほっとして右端にあるソファを手で示した……が、竜也はその声を軽く流すと、ドンッと瓶を机に置いた。
「仕方ない。先に一杯やろうか、伊藤君」
「えっ!?」
「グラスはあるかな。うん? あそこに食器棚があるな」
 竜也は左にある給湯室へドカドカと入って行くと、そこから勝手にグラスを二つ持って来た。案内だけのつもりだった啓太は密かに慌てた。もたもたしてたら、中嶋さんが戻って来てしまう……!
「あの、俺、お酒は弱くて……」
「ああ、そうだね。君は何となくそんな感じがするよ。だが、酒なんてものは要は慣れだよ、慣れ。男たる者、酒の一升や二升、飲めなくてどうする! ほら、こっち来て座った、座った!」
 まるで自分の家の様に振舞う竜也に勧められて、啓太はちょこんとソファに腰を下ろした。すると、竜也は笑ってグラスを差し出した。
「あ……有難うございます」
 啓太は両手でそれを受け取った。竜也は啓太の隣に座ると、早速、『鈴の音』の栓を抜いた。啓太には半分ほど、自分のグラスにはなみなみと注ぎ入れる。
「ふむ、香りはあるな。色沢も良い。それじゃ、伊藤君、乾杯」
「あっ、はい……乾杯、です」
 一瞬だけ竜也は瞳を合わせると、一気に酒を飲み干した。それを見て、啓太も恐る恐るグラスに口をつける。さすがに日中から生徒会室で酔っ払う訳にはいかな――……
「綺麗な口当たり……優しい喉越し……そして、華やかな香り」
 啓太はうっとり瞼を閉じた。美味しい。そう思った。和希が『鈴の音』は女性に人気があるって言ってたけど……うん、何となくわかる。これ、飲み易い。
「おっ、わかるのかい? 嬉しいねえ」
 竜也は啓太のグラスに更に酒を注ぎ足そうとして……息を呑んだ。
 啓太は濡れた口唇を妖しく指で拭っていた。伏し目がちな眼差しが妙に艶めかしい。しかも、仄かに赤みを帯びた肌のせいで色白さがより際立って見えた。触れたら、雪の様に溶けてしまいそうだ。こんなに綺麗な子だったのか……
(な、何を考えてるんだ、俺は……!)
 竜也は慌てて啓太から目を逸らした。何だか少し息苦しい気がする、いや、暑くなったのか。竜也は瓶を床に置くと、グイッとネクタイを緩めた。
 啓太は液面に映る自分の顔を眺めた。どこか寂しそうに見えるのは気のせいではないだろう。中嶋さんの馬鹿。啓太は心の中でそう呟くと、またコクリと酒を飲んだ。竜也が言った。
「何だか浮かない表情だね。悩みでもあるのかい? なら、話してごらん。あまり一人で抱え込むのは良くないよ」
「……」
 啓太は無言で俯いた。幾ら王様のお父さんでも相談なんて出来ない……こんなこと……
「……恋人のことかい?」
「……!」
 ハッと啓太は顔を上げた。やっぱり、と竜也は微笑んだ。
「これでも哲也よりは色々知ってるよ。君と和希君との関係や中嶋君のことなど。それが仕事だからね。だから、安心して話してごらん。君にそんな顔は似合わない」
「……丹羽さん」
 ウルウルと啓太の瞳が揺れた。竜也は小さく首を横に振った。
「竜也で良いよ。和希君もそう呼んでるだろう?」
「じゃあ、俺のことも……啓太、と呼んで下さい……竜也さん」
 ぽっと啓太の頬が染まった。それは、まるで初々しい新妻が恥じらっている様だった。ドキッと竜也の胸が震える。お、俺には愛する妻と可愛い……とは言い難いが、でかい息子が――……
 そうは思っても、目の前にあるこの花に惹かれる自分を竜也は抑えることが出来なかった。啓太、と小さく呼んでみる。
「はい」
 啓太は濡れた様な眼差しで竜也を見つめた。竜也の右手が、ゆっくりとそこに吸い寄せられてゆく。もう少しで指先が頬に触れそうになった。そのとき、いきなりバンッとドアが開いた……!
「……ったく、面倒くせ~……って、親父!? こんなとこで何してんだ?」
「や、やあ、哲也」
 竜也は宙に浮いた手を慌てて丹羽に向けて振った。丹羽が気持ち悪そうに顔を顰めた。
「お前の顔を見ようと思って啓太君にここまで案内して貰ったんだよ。大きくなったな」
「……何、言ってるんだ、親父? 悪い~な、啓太、こんな奴の相手させちまってよ」
 ガシガシと頭を掻きながら、丹羽は乱暴にドアを閉めた。すると、啓太が恥ずかしそうに俯いた。
「そんなこと……ないです」
「……!」
 思わず、二人は啓太に見惚れてしまった。
(……可憐だ)
(今日の啓太……やけに可愛いくねえか?)
「あの……竜也さん」
 チラッと啓太が上目遣いに視線を投げた。それを竜也は大人の貫禄で受け止めた……内心はとてもそんな状態ではなかったが。
「何かな、啓太?」
「王様」
「な、何だ、啓太?」
「啓太、お願いがあるんだけど……聞いてくれる?」
 甘える様な声で啓太が囁いた。渇いた口唇を軽く噤んで湿らせる。その隙間から零れる吐息の切なさに竜也と丹羽は眩暈がした。ああ、もう……! 俺に出来ることなら何でも言ってくれ、啓太!
「退け。邪魔だ」
「わっ!!」
 突然の冷たい声に丹羽の心臓が飛び跳ねた。さっと振り向くと、真後ろに中嶋が立っている。
「さっさと仕事をしろ、丹羽」
「あ、ああ……そう、だな……」
「……」
 言葉を濁す丹羽に、中嶋の眉が怪訝そうに上がった。丹羽が脇へ退いたので室内に入る。すると、ソファーに丹羽の父・竜也と啓太が並んで座っていた。
「……?」
 啓太から悩ましいほどの艶が滲み出ていた。丹羽達はその色香に中(あ)てられ、完全に顔がふやけている。中嶋はつかつかと啓太に歩み寄ると、そのほんのり桜色に上気した頬に手を伸ばした。長い指の先でクイッと顎をすくい上げる。あっ、と啓太が小さく呟いた。
「飲んでいるな」
「えっと……少し」
 ふわっと啓太は微笑んだ。中嶋は目を眇めて啓太の手からグラスを抜き取った。
「勝手に飛び出して行ったと思ったら、今度はこれか」
「勝手にって……酷いです、中嶋さん……中嶋さんが邪魔だって言ったんじゃないですか……」
 クスンと啓太は鼻を鳴らした。慌てて竜也が仲裁に入ろうとする……が、中嶋は綺麗にそれを無視した。
「この忙しいのに、仕事もせずに呆けているからだ」
「……!」
 その言葉に啓太はカチンときた。中嶋の手を振り払い、バッと立ち上がる。
「だって、啓太、苺が食べたいんだもん!」
「期限の迫った書類と苺、どちらが重要だと――……」
「苺っ!!」
 啓太はキッと中嶋を睨みつけた。思わず、竜也が口を挟んだ。
「それはちょっと違うんじゃ……」
 えっ、と啓太が竜也の方を見た。信じられない、と顔に書いてある。じゃあ、啓太が悪いの? 啓太が悪いの……?
 大きな蒼い瞳が湛えた涙で今にも崩れそうになった。うっ、と竜也はたじろいだ。啓太の苺好きは知っていたが、まさかここまで執着しているとは思ってもいなかった。可愛い啓太を泣かせたくない一心で、咄嗟に竜也は息子を指差した。
「あっ、いや、啓太は悪くない。悪いのはこいつだ。こんなに仕事を溜めたこいつが悪い!」
「あっ、卑怯だぞ、親父! 啓太の前だからって!」
 我に返った丹羽が竜也に食って掛かった。竜也は軽く肩を竦めた。
「事実、そうだろう。お前が仕事を溜めなければ、今頃、啓太君は美味しい苺を食べに行けたかもしれない」
「そんな! 王様のせいで……啓太の苺……苺、が……」
 衝撃(ショック)と酔いで啓太の足がよろめいた。
 肩を受け止めた中嶋に啓太は力なくしな垂れ掛かった。キュッとジャケットを掴む。微かに震える指先が啓太の悲嘆の大きさ物語り、それが丹羽の心を強く打った。何だか自分が許されざる大罪を犯した気がしてくる。啓太、俺が悪かった。許してくれ……って、俺はまだ何もしてねえ!
 辛うじて現実に踏み止まった丹羽の耳に中嶋の声が聞こえてきた。
「啓太、こんなに仕事が溜まっていなければ、俺もお前と苺を食べに行けるだろう。だが、ここを見てみろ。丹羽のお陰で、この有様だ」
「中嶋! 先刻と微妙に話が違ってるぞ! しかも、お前、甘いものは嫌いなくせにから口から出任せ言うんじゃねえ!」
「嫌いではない。ただ、好んで食べないだけだ」
「……そうだったんですか、中嶋さん」
「騙されるな、啓太!」
 必死になって丹羽は自分を擁護しようとした……が、既に遅かった。啓太は蕩ける様な瞳で中嶋を見つめていた。なら、啓太に任せて……
 啓太はすっと丹羽へ視線を流した。熟れた口唇が官能的に開く。
「王様」
「……っ……!」
 甘く艶めかしい声に丹羽は息を呑んだ。啓太から有無を言わさぬ圧力を感じる。いや、魅力と呼ぶべきか……
「啓太……苺、食べたい」
「そ、そんなこと俺に言われてもだな……」
「苺……食べたい」
「うっ……!」
 丹羽は心臓を掴んだ。心の中で、啓太の願いを叶えてやりたいという気持ちと仕事をしたくない意思が激しく交錯する。あまりの苦悩に額にじわりと汗が滲み出て来た。どうする? どうする、丹羽哲也……!
 一方、完全に啓太の虜になってしまった竜也は揺れる息子を目で熱く励ましていた。ここでやらなければ男が廃るぞ、哲也! 男になれ!
「……よし!」
 グッと丹羽は拳を握り締めた。
「啓太、ここは俺に任せろ! これくらい、俺一人でやってやる!」
「わあ、さすが王様」
 コロコロと啓太は笑った。中嶋が低く喉を鳴らした。
「なら、後は任せたぞ、丹羽……ついでに篠宮に二人分の外泊届けを出しておいてくれ」
「おう!」
 丹羽が元気良く吼えた。あの、と啓太が恥ずかしそうに中嶋を見上げた。
「外泊届けって……何だかデートみたいなんですけど?」
「お前がそう思うならな」
「中嶋さん……」
 うっとりと啓太は呟いた。嬉しくて身体が火照ってくる。やっぱり中嶋さんは啓太のこと想ってくれてるんですね……!
「……ふっ」
 中嶋は僅かに口の端を上げた。最早、何もかも忘れて啓太に魅入っている丹羽達と違い、中嶋は色香に惑うほど初心ではなかった……が、心のどこかに啓太の願いを叶えてやっても良いと思っている自分がいた。あれほど、やれと急かしていた仕事を放置してまでも。俺もお前に中(あ)てられたのか……?
 しかし、その考えを突き詰めることは出来なかった。この濃艶な啓太を前にしていると、そんなことはもうどうでも良い気がしてくる。中嶋は啓太の顎を捉え、親指で赤い口唇をそっと撫ぜた。良い顔だ……
 いつになく恍惚とした雰囲気が生徒会室を満たしていた……『鈴の音』の淡い響きに包まれて。そして、その日以降、純米吟醸酒『鈴の音』は永遠の銘酒として四人の間で長く愛飲されることとなった。



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Café Grace
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