中嶋は書類に目を通しながら、視界の隅で動く啓太を追っていた。
  生徒会室に出入りし始めたばかりの頃は、何をするにも中嶋が一々指図しなければならなかった。それは少し煩わしかったが、まあ、レギュラー・クラスならこの程度だろう。啓太の経歴や編入試験の成績は至って普通……特筆すべきものは何もなかった。しかし、やがて中嶋はその考えを改めた。同じ時間を共有していれば、自然に相手のことが深く見えてくる。啓太は勉強でも何でも呑み込みはそう悪くはなかった。過去にいたハード・クラスの役員達と比べてもあまり遜色はない。それは中嶋が読んだ啓太の資料から受けた印象とは少々かけ離れていた。なぜ、こんな差が生じたのか。中嶋はそのことをずっと疑問に思っていた。
「啓太」
「はい、何ですか、中嶋さん」
  啓太は手を止め、中嶋の元へ駆け寄った。中嶋は書類から顔も上げずに言った。
「資料保管室から一昨年の手芸部の予算申請書を持って来てくれ」
「わかりました」
  啓太は中嶋の机の前を通り、左奥にあるドアを開けた。入口近くのスイッチを入れる……が、明かりが点かない。
「あれ? 接触が悪いのかな」
  パチ、パチと啓太は何度かスイッチを切り替えた。ああ、と中嶋が思い出した様に呟いた。
「今、そこは電気が通っていない。先刻、躾の悪い犬がしつこく絡んできて、やむを得ず、この辺り一帯の電源を落とした。この部屋は復旧させたが、他所はまだだ。その辺りにドア・ストッパーがあるだろう。それを使え」
「あっ、はい」
  またやったんだ、と啓太はこっそり呆れた。仕方ないな……
  資料保管室に窓はないが、ドアを開け放していればここから漏れる光でファイルの文字くらいは読めそうだった。啓太はキョロキョロと足元を見回した。すると、入口近くの右隅に小さな木片があった。何かを作ったときの余りらしい。もしかして、これ……?
(平気かな。何か軽そうだけど……)
  啓太は足でそれをドアに圧し当てた。中嶋はその様子を眺めながら、また物思いに耽ってゆく……
  学期の途中で転校してきた啓太は、前の学校との教育課程(カリキュラム)の違いや直後に巻き込まれた理事会内の勢力争いのせいで学習進度が遅れていた。漸く身辺が落ち着いてくると、啓太はその差を埋めるべく本格的に勉強を始めた。すると、会計部の二人が直ぐに教師役を買って出た。学園一の頭脳を誇る西園寺と殆どアルティメット・クラスの七条に不満などあろうはずがない。啓太は有難くその申し出を受けることにした。
  勿論、それは中嶋にとって面白いことでは全くなかった。しかし、中嶋は感情に振り回されるのを好まない。たとえ、それが自分のためであっても。生徒会はただでさえ仕事量が膨大な上に、丹羽のサボり癖のせいもあって日々の業務が滞りがちだった。正直、啓太の勉強まで見てやる余裕はない。たまにどちらかの部屋で個人的に課題を教えてやることもない訳ではないが、専ら別方面の授業が多かった。それらの事情を総合して考えると、導き出される結論は一つしかない。
  中嶋は啓太の好きにさせることにした。
  暫くすると、補習の成果が現れてきた。授業について行くので精一杯だった啓太に、徐々に予習をする余裕が出できた。少し難しい問題も簡単なヒントを与えれば自力で解ける。西園寺さん達の教え方が上手なんです、と啓太は言った……が、理由はそれだけではなかった。
  転入当初よりも、啓太の理解力が明らかに上がっていた。
  普通なら、単に今まで怠けていただけと思うだろう。しかし、啓太は何事に対しても常に一生懸命だった。性格は一朝一夕で変わるものではない。恐らく啓太はこれまでも自分なりにきちんと勉強していたに違いなかった。なら、過去から現在までの間に何かこいつを変えた要因があるはずだ。そう考えて、中嶋はある可能性に辿り着いた。
  身近にいてわかったことだが、啓太は自分よりも他人のために最も力を発揮するタイプだった。今、啓太の周囲には丹羽や西園寺を筆頭に手を差し伸べる者達が大勢がいる。彼らは啓太に好意を寄せ、皆、啓太のために自らの時間を割いていた。感受性の強い啓太はその思いに必ず応えようとするだろう。
(それがあいつの潜在的な能力を引き出したのか。だが……)
  中嶋は軽く眼鏡を押し上げた。
  この考えは間違ってはいないが、何か決定打に欠けている気がした。そう……これでは主体性がなさ過ぎる。あいつは様々な意味で受け身の性質だが、その中に常に確固たる意思を持っている……
  冷えたコーヒーを飲もうとして、中嶋はふと液面に目を落とした。そこにはあるものが映っていた。啓太の心を最も大きく占めているであろう存在……中嶋英明という男の顔が。
  そうか、と中嶋は呟いた。
  中嶋は知っていた、啓太が胸の奥底に秘めた願いを。それは……願わくば、この先の未来も共に歩き続けたいということ。しかし、そのためには今の二人では差があり過ぎた。だから、啓太は必死に努力する。自分のために……そして、中嶋のために。想いだけでは越えられない壁を取り除きたいから。それが中嶋を不安にさせると思っているから。
(まあ……あいつの考えそうなことだな)
  密かに中嶋は嘆息した。切っ掛けさえ掴めば、中嶋には啓太の思考は手に取る様にわかる……が、完全に読み切れる訳ではなかった。なぜなら、啓太はいつも中嶋の理解を越えた大きな勘違いをしていた。これもそうだった。実際に差があるのは、啓太……お前ではない。
  人が勉強する目的は論理的思考の構築などもあるが、何より重要なのは本質を見る目を養うためだと中嶋は考えていた。本質とは即ち、真理。そして、人が自らを通して事実の総てを認識する以上、真理とは必ず主観的なものだった。だから、本質を知る者は強い。
  啓太は多くの者が未だ得られないそれを既に持っていた。
  もしかしたら、最初は誰もに備わっていた資質だったのかもしれない。ただ、成長と共に失われてしまっただけ。啓太を見ているとそんな気もするが、その真偽を確かめるつもりはなかった。今更、知ったところでもうどうにもならない。しかし、一つだけはっきりしていることがあった。本質を知る啓太と比べると、想いを告げる言葉一つ満足に持たない自分はあまりに脆かった。この学園に入ったことで、中嶋を好きになったことで、啓太は更に自身に磨きを掛けてゆくだろう。このままではいずれ手の届かない存在になってしまうかもしれない。そうしたら、縋りつくあの手を、紡がれるあの言葉を失ってしまう。それこそが中嶋の抱く本当の不安だった。だが、お前は自分の特質には全く無自覚で、今以って後天的な要因に振り回されている。やはりお前はまだ子供だな、啓太……
(いや、あれはもう子供ではないか)
  ベッドでの嬌態が頭に浮かび、中嶋は小さく苦笑した。
  啓太は既に両手で数え切れないほど中嶋と肌を合わせているにもかかわらず、未だその行為に慣れない初々しさを見せた。そうかと思えば、次の瞬間には華奢な身体を惜しげもなく開いて淫らに快楽を貪る。一点の穢れもない無垢な姿で、どんな大人よりも艶めかし色香を放って咲き乱れた。それをもっと……ずっと見ていたくて、中嶋は毎晩の様に啓太を抱いた。
(全く……お前といると退屈しないな)
  歓びと悩みに満ちた世界は本当に色鮮やかだった。中嶋はもう啓太を手放せないだろう……まあ、その気もないが。啓太にとって、それが幸運かどうかはわからない。しかし、中嶋にとっては間違いなくそうだった。なら、啓太も同じだろう。中嶋という存在は啓太の中でそれほどまでに大きかった。これは自惚れではなく、歴然たる事実。だから、今はこれで良い。時間は、まだ充分にある。
「……?」
  そのとき、ふと鈍い音がした。そういえば、先刻から断続的にずっと聞こえていた。中嶋はその発生源に目を向けて……微かに柳眉を上げた。
  啓太が奇妙に歪んだ顔でドア・ストッパーを凝視していた。
  元々ドアを支えるには重さが足りないので徐々に閉まってしまうが、ファイルを探す程度の間は持った。しかし、啓太はドアが僅かでも動くと執拗にそれを壁に押し当てていた。だから、いつまで経ってもその場から離れられない。
  バンッ……!
  ノブが壁に打ちつけられた。つま先でピタッと木片を合わせる。それから、そっと手を離して……
「……っ!!」
  小さく息を呑むと、また啓太は手を上げた。
「やめろ」
「……!」
  それは静かな声だったが、啓太はビクッと飛び上がった。中嶋は啓太の横を通り、資料保管室に入って行った。自分で目的の予算申請書を取って来る。その間、啓太は無言でただドアを押さえていた。
  中嶋が部屋から出て来ると、今にも消えそうな声で啓太は謝った。
「……すいません」
「お前がそんなに神経質だったとはな」
  後ろ手にドアを閉めながら、中嶋が言った。
「別に……そういう訳じゃないですけど……」
「なら、暗い部屋が怖かったのか? 本当にまだ子供だな、お前は」
「俺、もう子供じゃありません」
  中嶋の声に揶揄する様な響きを感じて、むっと啓太は剥れた。中嶋は低く喉を鳴らすと、自分の席についた。報告書を開く。
「では、それを証明してみろ。コーヒーを頼む」
「わかりました」
  啓太は大きく頷いた。
  もっと怒られるものと覚悟していたので少し意外な展開だったが、顔には出さなかった。中嶋さんの気が変わらない内に早くコーヒーを淹れてこよう。啓太はパタパタと給湯室へ入って行った。
「……」
  中嶋の視線が上がった。そっと耳を澄ます。給湯室の明かりもまだ点かないが、ここからの光で充分に事足りるだろう。しかも、あそこにはドアがない。問題ない。そう判断して再び書類に目を落とした……が、先ほどの啓太の異様な行動や表情がどうにも頭を離れなかった。
(……仕方ない。子供は暗闇を怖がるからな)
  一旦、仕事を中断すると、中嶋は電気回路を復旧させるべくキーを叩き始めた。やがて総ては元通りになり、これも日々の膨大な記憶の中に埋没してゆくだろう……ありきたりな一つの出来事として。
  しかし、それは間違いだった。後日、中嶋は痛みと共にその理由を知ることとなる――……


2008.11.21
啓太についての考察と、
それを通して自分を見つめる中嶋さん。
こんなことを考えているのに、
きちんと仕事が出来るのかな。

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Café Grace
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