「眠そうだな、啓太」
  いつもの様に二人で登校しながら、和希は心配そうに啓太を見やった。啓太が中嶋と付き合っているのは知っているので理由を訊くほど野暮ではないが、啓太の保護者を自認している身としてはかなり複雑だった。正直、漸く再会した啓太をこんなにも早く誰かに奪われるとは思ってもいなかった。いや、啓太を手放す気は毛頭ない……が、気分は既に花嫁、もとい花婿の父だった。はあ、と和希は密かにため息をついた。その憂鬱は直ぐ中嶋への不満に転化してゆく。
(全く……あの人は自重という言葉を知らない。まだ成長途中の啓太の身体に過度の負担を掛けない様に、今度、会ったときに俺がしっかり釘を刺しておかないとな!)
  和希はグッと拳を握り締めた。そして、心の奥でそっと呟いた。啓太、お前は必ず俺が護る……!
  啓太は欠伸を一つすると、コシコシと目を擦った。
「何か最近、寝た気がしなくてさ……夢見が悪いせいかな」
「どんな夢なんだ?」
「う~ん、良く覚えてないけど……多分、子供の頃の夢だよ。だけど……凄く怖かった」
「啓太は昔から怖がりだからな」
  ふわふわと和希は啓太の頭を撫でた。
  むっと啓太は剥れた。和希が過保護なのは充分に知っているし、もう諦めたが、たまに自分を子供扱いするのが気に入らなかった。確かに和希は大人だけど、俺だってもう――……
  そう思って、ふと啓太は尋ねた。
「和希、俺ってそんなに怖がりだったのか?」
  ああ、と和希は頷いた。
「いつだったか、二人で隠れん坊をしたとき、啓太が屋根裏部屋で声を殺して泣いていたことがあったよ。暗くて怖かったんだろうな。でも、見つかるのは嫌で必死に我慢していたんだ。俺が見つけたら、安心して急にわんわん泣き出して……あれは可愛かったな」
「ふ~ん」
「あっ、でも、あのくらいの年齢なら普通の反応だったと思うよ」
  啓太の機嫌を損ねない様に和希は慌てて言葉をつけ足した。啓太は小さく俯いた。
「俺、あの頃のことは殆ど覚えてないんだ。和希に言われるまで、かず兄のことも忘れてたし……」
「それは仕方ないよ。啓太は、まだ本当に小さかったから」
  優しく和希は慰めた。チクリと胸が痛む。
  和希との隠れん坊の最中に、啓太は未知のウィルスに感染してしまった。幸い、直前に完成したワクチンと医師達の懸命な治療で何とか一命を取り留めたが、啓太は酷く衰弱し、記憶がかなり曖昧になっていた。話す機会の少なかった和希の祖父や使用人は仕方ないとしても、自分の祖父母の顔さえ直ぐには思い出せなかった。辛うじて覚えているのは両親と和希のことだけ。そんな啓太を一人残して、和希はアメリカへと留学した。幼い啓太はどんなに寂しく、心細かったか。別れ際のあの涙は、一生、忘れられない……
「でも、和希はしっかり覚えてただろう。確かに俺は小さかったけど――……」
  なおも言い募る啓太の言葉を和希は笑顔で封じた。
「良いんだ。啓太は俺のことをきちんと思い出してくれた。それだけで俺は充分、満足だよ」
「……有難う、和希」
  漸く啓太に本来の明るさが戻った。そして、二人は他愛ない会話をしながら、校舎へと入って行った。

  一時限目は生物だった。
  教室に現れた海野は、いつもの様に大きな本や模型を両手に色々抱えていた。その中には、どう見てもレギュラー・クラスの授業とは関係ないものまである。それをドサッと大雑把に教卓に置いたら、プロテインの構造模型が床に落ち、バラバラになってしまった。
「あ~、これ、今日の授業で使おうと思ってたのに」
  海野は困り顔でそれを拾い集めた。
  ベル製薬の研究員でもある海野にとってプロテイン構造など総て頭に入っていた……が、元素を表すCやNの球に白い腕を差して組み立てるのは知識より繊細な指先が求められる。海野は自他共に認める不器用だった。
「悪いんだけど、誰か……あっ、伊藤君、別の模型を持って来てくれる?」
「わかりました。生物準備室ですか?」
  啓太は椅子から立ち上がった。
「うん、そう……ごめんね。戻るまで、ちゃんと待ってるから」
  海野はテヘッと笑って啓太を教室から送り出した。

  廊下を歩きながら、啓太は小さな欠伸をした。教室で静かに座っていたら居眠りしてしまいそうだったので、これは良い気分転換になった。ガラッと引き戸を開け、生物室に入る。そこは海野が直前まで何かのレポートを作成していたらしく、至る処に書類が散乱して酷く雑然としていた。
(海野先生、少し片づければ良いのに……って、俺も人のことは言えないか)
  啓太は乾いた声で笑った。
  和希や中嶋が頻繁に部屋を訪れるので実家にいたときよりは整理整頓を心掛ける様になったが、気を抜くと直ぐ物で溢れ返ってしまった。その度に和希が嬉しそうにそれを片づけようとした。幾ら和希でも、そこまでさせる訳にはいかない。もう俺はそんなに子供ではないから……
(今日、帰ったら掃除しよう)
  人のふり見て我がふり直せとばかりに啓太は思った。
  生物準備室も似た様な状態だった。ここは実験で使う器具などが所狭しと置いてある。しかし、模型は壊れ易いものなので、その周辺だけは綺麗に整理してあった。良かった、直ぐに見つかって。啓太はそれを取ろうとして、ふと隣の棚に目を留めた。硝子戸の向こうにフラスコと試験管が幾つもしまってある。
「……」
  啓太は眉をひそめた。何だろう。胸がむかむかする。舌がざらついて……凄く……凄く、嫌な気分だ……
  それは生徒会室で中嶋にお仕置きと称され、初めて触れられた後の感じと似ていた。あのとき、啓太は身に起きた現実を受け止め切れなかった。これからどうして良いかわからず、ただ頭の中が真っ白で、酷く惨めで……気持ちが悪かった。
(早く出よう。ここ、やだ)
  首を振って視線を剥がすと、啓太は模型を持ってドアに向かった……が、その瞬間――……
「……っ!!」
  背筋に冷水を浴びせられた様な悪寒が走った。妙な既視感に不快を通り越して吐き気がする。模型が派手な音を立てて床で砕けた。
「誰だ?」
  鋭い声がした。続いてドアがさっと開く。
「啓太?」
  西園寺が怪訝そうに呟いた。七条が柔らかく尋ねた。
「伊藤君、どうかしましたか?」
  啓太は口元を押さえ、酷く蒼ざめていた。身体が微かに震えている。
「……して」
「……?」
「ここから、出してよ……出して……出し、て……出し――……」
「失神するぞ、臣!」
  西園寺が叫んだ。
「伊藤君!」
  くずおれる啓太を咄嗟に七条が受け止めた。西園寺が慌てて顔を覗き込むと、焦点の合わない瞳が小刻みに揺れていた。何か強い衝撃(ショック)を受けたらしい。
「郁、僕は念のため伊藤君を医務室へ運びます」
  啓太を支えながら、七条が口早に言った。
「頼む、臣、私もここを施錠したらに直ぐに向かう」
「わかりました」
  コクンと頷くと、七条は啓太を連れて部屋から出て行った。
「……」
  西園寺は無言で生物準備室の中を見回した。雑然とはしているが、特に不審な物はない……少なくとも啓太があれほど衝撃(ショック)を受けそうな物は。西園寺は跪き、落ちた模型の欠片にそっと指を伸ばした。
「一体、ここで何があった、啓太……」


2009.1.16
西園寺さんのお片づけ姿は、
そうそう見られません。
その後、ついでに組み上げてくれたら、
海野先生も大喜びなんだけど。

r>  n

Café Grace
inserted by FC2 system