幼い啓太は大きな扉の前に立っていた。
 隠れん坊の最中に階段を見つけたので降りてみたら、それがあった。一見して明らかに他とは違う金属製の無機質な扉……大人ならどこか近寄り難い印象を受けるものも、子供には単に興味をそそるだけだった。ちょっと覗いてみたいな、と啓太は思った。でも、何だかここには入っちゃいけない気がする……
 妙な不安を感じた啓太はやはり上へ戻ることにした。キョロキョロと左右を見回す。
(えっと……僕、どっちから来たかな……)
 そのとき、突然、ふっと辺りの電気が消えた。
「ひっ……!」
 暗闇に包まれた啓太は夢中で目の前のノブに縋った。ガチャガチャと闇雲に動かす。すると、音もなく急に扉が開いた。
「わっ!!」
 勢い良く中に転がり込んだ啓太はバタッと床に倒れ、膝頭を強くぶつけてしまった。じわっと大きな瞳に涙が滲んだ。少し前の啓太なら間違いなく泣いていただろう。しかし、今は口唇を噛み締めて我慢した。もう直ぐお兄ちゃんになるんだもん。僕、かず兄の様になるんだもん……
 啓太はクスンと鼻を鳴らして立ち上がった。
 パタパタと手の埃を払っていると、弱々しい明かりが点いた。辺りが見える様になり、啓太は少しほっとした。同時に痛みで萎えていた好奇心が蘇ってくる。
「凄い……色彩(いろ)のない部屋だ」
 啓太は面白そうに室内を見渡した。
 単に薄暗い非常灯と白いものが多いせいで色彩(いろ)がわからないだけだが、幼い啓太にとっては初めての体験だった。しかも、その分を差し引いたとしても、まだそこは奇妙な部屋だった。テーブルや椅子など啓太の知っている家具は全く見当たらない。その代わり、四角い箱の様なものや不思議な筒状の機械が幾つも置いてあった。
 啓太はトコトコと手前の箱に近づいた。硝子戸がついているので思い切り背伸びをして覗いてみると、蓋のついた平たい皿が見えた。それはシャーレだったが、今の啓太には知る由もない。
「何だろう……?」
 もっと良く見ようと、啓太は取っ手に手を伸ばした……が、高過ぎて届かない。何度か飛び跳ねるも、先ほど擦り剥いた膝が機械にぶつかって痛いだけだった。仕方なく啓太は諦めて隣にある似た様な別の箱へと移動した。それには長いコの字型の取っ手がついていた。
(あれなら届くかも)
 頑張って取っ手に指先を掛けて硝子戸を開けてみると、ふわっと温かい空気が肌を掠めた。
「ココアだ!」
 パッと啓太の顔が輝いた。
 この屋敷は広さのわりに使用人が少ないので、遊びに来た啓太が好きなときに飲めるよう冷温庫にいつも温かいココアが入っていた。冷たいジュースはかず兄と一緒のときだけ。
『……幾ら夏でも飲み過ぎるとお腹を壊すから我慢しようね、啓太……』
『……うん、かず兄……』
 この中には大きな赤い魔法瓶が入っているに違いない。パカッと蓋を開けるとホコホコと漂う甘い香り。それを思い出したら、何だか無性に喉が渇いてきた。
 コクリと啓太の喉が鳴った。
「ううっ……」
 食欲という抗い難い本能を刺激され、幼い頭はもうココアのことしか考えられなくなってしまった。啓太は魔法瓶を取ろうと腕を伸ばした。中を良く見もせずに指に触れたものを適当に取り出す……が、それは啓太の期待したものではなかった。
「……何、これ?」
 啓太は手にした細長い首の硝子の入れ物――フラスコ――を見つめた。
 その機械は恒温振とう培養機だった。設定温度を保ちながら、フラスコを振とうさせて細菌の培養や難溶性試薬の溶解試験などを行う機械。周囲には他にも遠心式濃縮機や孵卵器、位相差顕微鏡などがあるが、幼い啓太にその用途がわかるはずもない。だから、自分が手にしたフラスコの中身の危険性に全く気づかなかった。
 そこには、あるウィルスを注入して増殖させた將尿液(しょうにょうえき)が入っていた。
 普段、ここではいつも一人の男がそのウイルスの増殖と病原性発現機構を私的に研究していた。しかし、昨日、配下の研究機関からワクチン完成の報告を受けた。それは半世紀以上に渡るこのウィルスの研究において特筆すべき大きな成果だった。今日はそれを男の目で直に確認するために外出していた……試験途中のウィルスを残したまま。
 扉には電子ロックが掛かっていた。万が一、停電が起きても直ぐに予備電源が作動するので管理に問題はない。但し、自家発電機が作動するまでの三十秒間だけはドアが施錠されなかった。その点だけ少し不安だったが、そんな短時間では誰も侵入出来ないだろう。男は、そう思っていた。
「何か入ってる」
 フラスコを光にかざして、啓太はポツンと呟いた。
 啓太は自我が確立し始めたばかりで見聞きする総てのものが真新しく、何事にも興味津々だった。溢れる好奇心に、誰をも惹きつける澄んだ瞳が蒼い宝石の様にキラキラと輝く。この薄暗い部屋の中で、啓太の周囲だけは眩しい光に満ちていた。
 すぐさま啓太はこの謎の解明に乗り出した……と言っても、手にしたフラスコを耳元で振ったり、無邪気に鼻を近づけて匂いを嗅ぐなどの稚いものだったが。そして、時折、考え込む様に愛らしく小首を傾げ、う~ん、と唸った。
「……わかんない」
 啓太は残念そうに顔を顰めた。しかし、まだ奥の手があった。こういう場合はかず兄に訊くのが一番良い。かず兄なら知らないことは何もなかった。啓太はパタパタとドアへと駆け寄った。ノブに手を掛ける。
(……あれ?)
 開かない。
 押したり引いたりしてみたが、やはり扉は固く閉ざされたままだった。全くビクともしない。
「や、やだっ……!」
 啓太は急に怖くなってきた。恐ろしい考えが頭に浮かぶ。どうしよう。もし、ここから出られなくなったら!
「かず兄っ!! かず兄っ!! かず兄~っ!!!」
 空いている手で扉をバンバンと叩きながら、啓太は喉が潰れそうなほど叫んだ……大好きな人の名前を。啓太が呼べば、かず兄はいつも傍に来てくれた。どうしたんだ、啓太。そう言って温かい手で優しく頭を撫でてくれた。なのに、今は――……
「かず兄っ!!! かず兄~っ!!!」
 どんなに声を張り上げても、いつまで待っても……かず兄は現れなかった。
(どうして来てくれないの、かず兄、どうして……あっ、まさか!?)
 未熟な知恵では、閉じ込められた理由は一つしか思い浮かばなかった。要らないから……だから、捨てられた!
「そんなの、やだっ!! やだっ!! かず兄っ!! かず兄~っ!!!」
 啓太は両手で激しく扉を叩き始めた。
 まだ握り締めていたフラスコが直ぐにパリンッと割れ、鋭い痛みが走った……が、そんなことはどうでも良かった。破片で切れた掌から血が溢れ、將尿液(しょうにょうえき)が傷口や顔に掛かった……が、そんなこともどうでも良かった。今の啓太の心を占めるのは唯一、絶対の恐怖。このままでは捨てられる……要らないから!
「出してっ!! ここから出してっ!! 出してよっ!!!」
 啓太は叫んだ。叫び続けた。
 それは気が狂いそうな時間だった。無機質で色彩(いろ)のない部屋。大きな四角い箱。見たことのない細長い首の硝子の入れ物。啓太の好奇心をくすぐった総てのものは最早、何の意味も持たなかった。要らないから捨てられる。そのことが幼い心に深く深く沁み込んでゆく……
「ここから出してっ!!!」
 全身で声を振り絞った瞬間、強い眩暈が啓太を襲った。急速に視界が狭まり、上から闇が落ちてくる。全身の力が一気に抜けて啓太は紙の様にくしゃっと床に崩れた。
「……」
 朧な瞳に、もう扉は見えなかった。そして、啓太は初めて絶望というもの知った。

 あの頃の記憶は啓太の深淵の更に奥にしまわれ、殆ど思い出すことは出来ない。しかし、閉じ込められたときに刻まれた闇まで封じることは出来なかった。
 要らないから捨てられる。要らないから……なら、誰か――……



2009.2.13
私的な研究室とはいえ、管理が甘いですが、
しっかりしていると啓太が侵入出来ないので仕方ありません。
都会の真ん中でなくて良かったです。

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Café Grace
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