うつらうつらと啓太は夢の波間を漂っていた。部屋に誰かいるらしく、微かな気配を感じる。しかし、なぜか眼窩の奥が異様に重くて目を開けたくなかった。寮内に泥棒がいる訳ないから、多分、和希か中嶋さんだろう。だったら、良いや。そうして再び意識を眠りの底へ沈めようとした啓太は不意にあることを思い出した。俺、何で寝てるんだろう……
(和希と一緒に登校して……一時限目が始まって……それから……それから……)
  啓太は眉間に皺を寄せた。その先が、なぜか思い出せなかった。しかし、今はまだ授業中で寝ても良い時間ではないはずだった。仕方ない。取り敢えず、起きよう。啓太は泥の中から這い上がる様に瞼を開けた。僅かに顔を横に向けると、傍に座っている中嶋と目が合った。
「中嶋、さん……」
  ぼんやりと啓太は呟いた。気分は、と中嶋が尋ねた。
「別に……悪くないです。あの……俺、どうして寝てるんですか?」
「生物準備室で蒼ざめていたお前を西園寺達が見つけ、ここへ運んだ」
「……生物準備室」
  啓太は気だるい身体を起こして両の掌に視線を落とした。
  中嶋はその様子を注意深く窺っていた。もし、失われた過去の恐怖が蘇ったのなら、精神的に不安定になる恐れがあった。啓太の反応が鈍いのはいつもの寝起きの悪さか、それとも……その判断を下すには、もう暫く様子を見た方が良さそうだった。
「ああ、そうか……俺、海野先生に頼まれて模型を取りに行ったんだ……それから……」
  コクンと啓太は首を傾げた。それから、俺、どうしたんだろう……
「海野先生には遠藤から伝えてある」
「有難うございます……」
  啓太はベッドから足を下ろして立ち上がろうとした。
「どこへ行く?」
「えっ!? あの……だって、俺、まだ授業が……」
「お前は、また同じことを繰り返すつもりか? その度に一々呼び出されては仕事にならない。暫くここで大人しくしていろ」
  中嶋の声には有無を言わせぬ迫力があった。そして、もう話すことはないと言わんばかりに啓太の傍を離れて、和希に連絡するために携帯電話を取り出した。
(俺より仕事の方が大切に聞こえるけど……だったら、どうしてここにいるんですか、中嶋さん?)
  啓太は小さく微笑んだ。
  一見すると冷たい物言いだが、それが中嶋の表現方法なのは良く知っていた。中嶋の気持ちと言葉は必ずしも比例しない。相手を心配しているからこそ、敢えて厳しい言葉で引き止める。本当は誰よりも優しくて……不器用な人。
(そんな人だから好きになったのかな、俺……って、惚気てる場合じゃないだろう。これ以上、中嶋さんに迷惑を掛けない様にしないと……!)
「中嶋さん、俺、本当にもう大丈夫です。有難うございました」
  ペコリと頭を下げると、啓太はさっさとドアへ向かった。中嶋が素早く啓太の腕を掴む――……
「……っ!!」
  バシッと啓太がその手を払った。中嶋が僅かに眉を上げた。
「あ……す、すいません、中嶋さん……」
  啓太が怯えた様に後ずさった。中嶋に触れられた瞬間、なぜか激しい嫌悪を感じた。まるで生徒会室で初めてお仕置きをされた、あのときの様に……
  同性であるにもかかわらず、どんなに暴れても啓太は中嶋の指一本さえ動かすことが出来なかった。圧倒的な力で一切の抵抗を封じられ、望まない快楽を無理やり与えられた。その屈辱はささやかな矜持(プライド)を粉々に打ち砕き……やがて総てが終わったとき、啓太は床の上で子供の様に泣きじゃくっていた。
「……」
  あれは啓太に刻まれた最も苦い記憶だった……が、そのことで中嶋を責める気はもうない。それどころか、あの出来事の意味や必要性を啓太なりに理解もしていた。
  二人は生徒会室で初めて逢ったときから惹かれていた。しかし、恋愛の機微に疎い啓太が中嶋を自然に意識するまで待ってはいられなかった。中嶋は既に三年……同じ場所を共有出来る時間は限られていた。そんなことを気にする中嶋ではないが、啓太は違う。無為に過ごした日々を後悔するのは目に見えていた。だから、中嶋はあんな手段を用いてまでして強引に啓太の瞳を自分へと向けさせた。
  あのときは衝撃(ショック)で何も考えられなかったが、今ならそれがどんなに危ない橋だったか良くわかる。もし、あの後、和希に打ち明けていたら中嶋はどうなっただろう。勿論、啓太に言う気はなかったが、和希に労わる様に宥める様に優しく訊かれたら……話してしまったかもしれない。中嶋に辱められた心と身体は本当に深く傷ついていたから……
  現にMVP戦後、和希に中嶋との関係を打ち明けたとき、切っ掛けを根掘り葉掘り訊かれる内に生徒会室や体育倉庫での出来事を総て話してしまった。細部は出来るだけ伏せたが、啓太が中嶋に何をされたか凡そわかったのだろう。
  和希は激怒した。
  幾ら親友とはいえ、何もそこまで……と驚いていると、和希はいきなり両腕できつく啓太を抱き締めた。そして、自分の秘密をそっと耳元で囁いた。実はこの学園の理事長であり、啓太が幼き日に出逢っていたかず兄であることを……
『……だから、啓太、安心して正直に言って。本当に中嶋さんが好きなのか? 中嶋さんに酷い目に遭わされたから姿を見ると怖くてドキドキして、それを恋だと錯覚していないか? それは心理学的に良くあることなんだ。あるいは、身体を奪われたから仕方なく従っているだけなら、もう大丈夫……総て俺に任せて。決して悪い様にはしないから。俺が啓太を中嶋さんから解放してあげる……』
『……色々心配してくれて有難う、和希……でも、俺はもう子供じゃない。自分の気持ちくらい、ちゃんと自分でわかる。確かに普通とは違う始まり方だったかもしれないけど、俺は中嶋さんが好きなんだ。本当に好きなんだよ、和希……』
『……そうか。なら、良いんだ。啓太が幸せなら、それで良い。だけど、啓太、これだけは覚えていて。啓太は必ず俺が護る。今後、悪戯に啓太を穢す様な真似は二度と俺が許さない。たとえ、それが誰であろうと、絶対に許さないから、啓太……』
  そのときの和希は温和で優しい今までの表情と違い、思わず、寒気を覚えるほど感情のない無機質な顔をしていた。
「くっ……!」
  啓太は両手で自分の瞳を覆った。
  何事も多少の危険が伴うことは、生徒会の裏処理を行う中嶋なら充分過ぎるほど知っているはずだった。しかし、啓太の行動は読めたとしても、和希が理事長ということまで計算出来たとは思えない。ましてや、理事長から警護を依頼されている啓太を陵辱するのは――たとえ、どんな勝算があったとしても――かなりリスクの高いことだった。そんなことがわからない中嶋ではないだろう。つまり、あの日、中嶋は自分の未来を懸けた……啓太のために。
  そのことに気づいたとき、啓太の中であのときの記憶がどこか甘いものに変わった。最初から、中嶋にそこまで想われていたと知って啓太はとても嬉しかった。それなのに――……
(俺は中嶋さんが好きなのに……好きなはずなのにっ……!)
  先刻まで、なぜ、あんなにも無邪気に中嶋を好きと思えたのかわからなかった。中嶋に触れられると、悪寒が走る。中嶋を見ると、身体が震える。中嶋を想うと、心が悲鳴を上げた。
  あの後、中嶋は言った。
『……これでお前は、忘れられなくなる……』
(そうだ。俺はまだ覚えてる……あのときの痛み……あんなの、忘れられる訳がない!)
「どうした?」
  中嶋が啓太の身体を引き寄せた。様子がおかしいので、取り敢えず、ベッドに座らせた方が良いだろう。しかし、途端に啓太は暴れ出した。
「や、やだっ!! やだっ!! やだ~っ!!」
「……っ……落ち着け、啓太!」
  押さえようと腕に力が入る。
「やだっ!! やだっ!! 助けてっ、かず兄っ!! かず兄~っ!! かず兄~っ!!!」
「……!」
  一瞬、中嶋の動きが止まった。
  かず兄が誰のことかは直ぐわかった。幼い頃に使っていたと思われる呼称で呼ぶことからして、啓太が混乱しているのは明らかだった。だが、なぜ、俺ではなく遠藤に助けを求める!
「俺を見ろ、啓太!」
  中嶋は右手で啓太の顎を捉えると、無理やり視線を重ねた。すると、さっと啓太の顔から血の気が引いた。身体が小刻みに震え始める。
「い、嫌……嫌……」
「啓太!」
「やだっ……!」
  キュッと啓太は目を瞑った。怯えて閉じた瞳に涙を滲ませ、必死に口唇を噛み締めている。それは……いつか、どこかで見たのと同じ顔……あの日、生徒会室で……
(……そういうことか)
  ふっ、と中嶋は苦笑した。啓太が自分を拒絶する理由がわかった。啓太の失われた過去と中嶋に接点はない……が、両者にはある共通項があった。
  どちらも啓太に恐怖を与えた。
  恐らく記憶を伴わずに蘇った恐怖が直近にあった体験と結びついたのだろう。初めて心から求めた者を得るためにした行為を、今、責められている。あのとき、他に方法がなかったとは言わないが、あれが最も効率的だった。お陰で、啓太は時間を手に入れた。
(なら、俺は何を支払ったのだろう……こいつを傷つけた代償として)
「……」
  今の啓太に中嶋は恐怖そのものだった。心に沁みついた闇は簡単に消えはしない。たとえ、幼心では受け止め切れないものでも、啓太はきちんとそれに向き合うべきだった。周囲には支えてくれる者がいたのだから。しかし、直後に起きた事故で記憶を失い、啓太はその機会を逸してしまった。
  一度、逃げる方法を知ってしまうと、また必ず同じことを繰り返す。これから啓太が進む路は光も強いが、闇も深い世界だった。今度、何かあったときは啓太は自らその記憶を手放すだろう。そんなことをしていたら、いずれ啓太は壊れてしまう。
(俺には遠藤の様にこいつを護ることは出来ない……そのつもりもないがな。外の露払いは遠藤に任せれば良い。俺がしなければならないのは、こいつがこいつであるために心に出来た影を取り除くこと。これは、その手始めというところか)
  すっと……中嶋の手が啓太から放れた。感情を押し殺した瞳で啓太を見つめる。再びあのときが繰り返される……
(もう一度、俺の処へ来い、啓太……それまで、待っていてやる)
  引き戸が閉まる小さな音が聞こえた。啓太は恐る恐る目を開けた。もう中嶋の姿はない。
「あ……」
  啓太は急いで携帯電話を取り出すと、震える指先で和希を呼び出した。
『啓太、気がついて良かった。今、中嶋さんからも――……』
「和希! 早く来て、和希っ!!」
『……! どうした、啓太!』
「早く来て、和希……早く……早く来て……」
  ポロポロと涙が零れた。通話口の向こうで、ドアが乱暴に開く音が聞こえた。
「……和希……早く……和希……」
『啓太! 直ぐに、行くから……!』
「どうして……来てくれないの……」
『直ぐに行く!』
「……どうして……来て、くれないの……」
  啓太は床に崩れた。携帯電話を両手で握り締め、子供の様に泣いている。とにかく、和希に逢いたかった。和希が啓太を望まないと知っていても……世界があまりに暗いから――……
「どうして来てくれないの、かず兄っ……!」
  その瞬間、啓太の心から完全に光が消えた。


2009.2.27
主題は啓太の解放です。
でも、二人の間は隙間風どころか亀裂になっています。
啓太はこれを乗り越えて頑張りましょう。

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Café Grace
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